学位論文要旨



No 113985
著者(漢字) 高野,光則
著者(英字)
著者(カナ) タカノ,ミツノリ
標題(和) ヘリックス-コイル転移の分子動力学 : ペプチド鎖のエネルギーランドスケープの探究
標題(洋) Molecular dynamics of helix-coil transition : Exploring the energy landscape of a peptide chain.
報告番号 113985
報告番号 甲13985
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第203号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 助教授 菊地,一雄
 東京大学 助教授 小倉,尚志
 岡崎国立共同研究機構生理学研究所 教授 永山,国昭
内容要旨

 タンパク質の立体構造はアミノ酸の配列によって一意的に決まっており、-helixや-sheetなどの基本構造の組み合わせから成っている。構造形成過程(folding)は可逆過程であり、生理的条件下ではこの立体構造は熱力学的な意味で安定であるといわれている。すなわち、立体構造形成は自発的に行われる。この特徴は他のランダムな配列を持つ高分子と一線を画するものある。しかし何がタンパク質とランダムヘテロポリマーを質的に分け隔てているのかは自明ではない。現在のタンパク質の諸性質は、もちろん、進化の産物であるのだから、分子進化と切り離して議論することは片手落ちかもしれない。しかし、現在のタンパク質の物性それ自体、研究を必要とする未知なことが山積している。タンパク質foldingもその一つである。一般にタンパク質folding問題というとき、二つの意味がある。一つは構造予測(アミノ酸配列から3次構造を予測する)に関する応用的な側面であり、もう一つは、Levinthalのパラドックス(タンパク質が膨大な構造空間の中でどうやってただ一つの構造を短時間で探し当てるのかという熱力学と速度論の間に生じる外見上の矛盾)に象徴されるようなタンパク質foldingの物理化学的な側面である。両者は密接に関連しているが、問題を捉える立場が異なる。本研究の立場は後者である。

 これまでの数多くのタンパク質に関する研究がタンパク質foldingの研究に向けられ、その諸物性が実験、理論、及び計算機実験の立場から明らかにされてきた。どのような条件(温度、圧力、溶媒)でfoldするか(平衡論)、foldするなら立体構造形成はどう進行していくのか(速度論)等が徐々に明らかにされてきた。これまでに得られてきた個々の事実から、包括的な理解に向けて、多次元の状態変数空間でのエネルギーランドスケープの概念が導入されてきた(この概念は物性理論における状態密度と本質的には同類である)。Fold能力をもつタンパク質一般についてのエネルギーランドスケープの最大の特徴は、native(fold)状態に向かって落ち込むfunnel(漏斗)状の形状を有することである。すなわち、native状態に近づくにつれエネルギーが下がる。このためにタンパク質がnative状態を探し当てるのが容易になり、先のLevinthalのパラドックスは回避され、いわゆるFolding転移が実現する。近年明らかになってきたミオグロビンのfolding過程を例にとると、まず様々な箇所でヘリックスの形成・崩壊を行いながらコアを形成する3本のヘリックスが形成され(1マイクロ秒以内)、この3本のヘリックスがnative構造とほぼ同じ位置に配置され(数マイクロ秒)、残りのヘリックスの形成、ヘリックス間の再配置がそれに続く。すなわち、探索する構造空間を狭めながら次第によりエネルギーの低いnative構造(funnelの底)に到達する。ランドスケープは大域的にはfunnel状であるが、一方で、その表面は滑らかではなく、多数の極小状態およびそれらをつなぐサドルが存在する。斜面の平均的な傾斜に比べて、これらローカルミニマムやサドルに起因する凸凹さが顕著になってくると(すなわちランダムヘテロポリマー的な性質が増すと)Folding転移は起こらず、代わりにGlass転移が起こると考えられる。

 以上のようなタンパク質の立体構造形成・崩壊過程、あるいはエネルギーランドスケープの特徴をミクロスコピックな立場から探るため、我々は分子動力学シミュレーションを行ってきた。分子シミュレーションは、基本的な物理法則をもとに、原子レベルの解像度で1分子の挙動を詳細に追うことができ、実験では得ることが困難な情報を提供することができる。反面、特に立体構造形成過程をシミュレートすることは、先述のFolding問題と呼ばれるNP完全な問題を解くことと同値であり困難をきわめる。しかしながら、短いポリペプチド(20残基程度)の場合は、一般的なタンパク質(100残基程度)の場合と比べて"問題"は容易になる。短いポリペプチドもタンパク質と同様に"naitive構造"を持つことが知られており、単独の-helixや-sheetがそれに相当する。我々はタンパク質foldingのミニマムモデル系として、15残基のポリアラニンを重点的に研究した。ポリアラニンのnative構造は-helixである。必然的に、我々の研究はPaulingやDotyらの-helixの発見以来40年の歴史を持つhelix-coil転移の研究の流れとも密接な関係を持つ。15残基のポリアラニンそれ自体では自由度は比較的小さいが(500程度)、溶媒分子(水)も含めて計算しようとすると自由度は激増し、通常の大規模多体系(自由度1万以上)のシミュレーションと同様、強力な計算機パワーと計算時間を必要とする。これを克服するため、分子動力学専用計算機を用いた高速計算環境を整えた。行ったシミュレーションは以下の2つに大別できる。一つは、水分子を直接的には扱わず、代わりに仮想的な熱浴(Berendsen,Nose-Hoover,Langevinの3つの方法)を用いたシミュレーションである。水との相互作用は比誘電率の形でimplicitに考慮した。このアプローチの利点は、計算すべき自由度が小さいことで、そのため広いパラメータ条件でかつ長時間のシミュレーションが可能になる。ここでの主眼は、ペプチド鎖のエネルギーランドスケープの一般的かつ定性的な理解である。あわせて、従来のhelix-coil転移における理論モデルのMD側から比較検討も行った。もう一つは、実際に多数の水分子中(水滴中)にポリアラニンを溶解させた状態でのシミュレーションである。水分子を直接取り入れと、計算時間が膨大になるため網羅的なパラメータ条件の計算は困難である。しかし、近似的な要素が少ない分、より忠実に自然を再現できる利点かある。ここでは、水中でのペプチド鎖の各論を定量的に記述することが主眼になる。

 仮想的な熱浴中では、300Kから1000Kの温度範囲でシミュレーションを行った(合計1000ns程度)。秩序変数の温度変化を調べたところ、700K付近を境界として、低温側はhelix状態、高温側はrandom-coil状態となる協同的な転移(helix-coil転移)が観測された。転移曲線はマイクロクラスターの系で観測されるsolid-liquid-like転移と類似しており、700K付近での比熱のピークからも協同的な転移の存在が示唆された。転移温度は比誘電率に大きく依存し、クーロン相互作用(ここでは水素結合)がペプチド鎖の挙動を左右していることを示している。ダイナミクスに関しては、転移温度においてペプチド鎖がall-or-none的にhelix状態とrandom-coil状態の大局的2状態間を不規則に遷移していることが分かった。しかしながら、この二つの構造状態をより詳細に調べると、それぞれ多くのサブ状態(準安定状態)が存在していた。これらは正しい(-helix)水素結合ペア以外の(間違った)水素結合形成の結果生じた準安定状態が主であった。すなわち、水素結合のドナーとアクセプター間の競合が生じており、この意味で系はフラストレートしていると言える。サブ状態も含めた状態間遷移の特徴を詳しく調べるために、系のポテンシャルエネルギーのパワースペクトルを計算したところ、1/fタイプのスペクトルが得られた。このことからも、ペプチド鎖の状態間遷移は単純な2状態遷移ではなく(仮にそうであれば1/f2タイプになる)、多くのサブ状態間の遷移(多重緩和過程)であることが示唆された。これは、ミオグロビンにおける圧力・温度ジャンプや低温フラッシュフォトリシスの緩和実験で明らかにされてきた描像、タンパク質1分子中の多くのサブ状態の存在、と一致する。このように、ポリアラニンは自然界のタンパク質が持つと考えられる二つの特徴を有することが分かった。一つは系の協同性を反映したfolding-unfolding転移(helix-coil転移)を示すことであり、これは天然状態(helix)に向かって落ち込んでいくfunnel状のエネルギーランドスケープを反映したものと考えられる。もう一つは多くのサブ状態の存在による1/fタイプの揺らぎであり、これはフラストレートした相互作用の結果生じたランドスケープの凸凹さを反映していると考えられる。この二つの特徴を合わせ持つこと、言い換えると両極的な二つの性質の中間にあることが、fold能力をもつ高分子の一般的な性質であるといえよう。他方、従来のhelix-coil転移の理論モデル(Zimm-Braggモデル)は、静的な観測量に関しては(特に転移曲線)MDで得られた結果をよく再現した。しかし、動的な観測量に関して、MDで観測された1/fゆらぎは見られず(かわりに1/f2タイプのゆらぎが観測された)、これは高度に簡素化されたモデルの、滑らかになりすぎたエネルギーランドスケープの影響だと推測できる。

 一方、水分子を直接取り入れたシミュレーションでは、その自由度の大きさ故に、仮想熱浴中のような長時間かつ広範囲の温度条件での計算は困難である。加えて、水分子中でのhelix形成の原子レベルシミュレーションはこれまでなされていなかった。我々はまずこれが可能であることをsimulated annealingにより示し、さらに、ポリアラニンの熱安定性を利用した高温(450K)でのシミュレーションを行い、可逆なhelix形成・崩壊過程が10nsの間に数回の頻度で観測されることを示した。この結果とクラマースの理論(強粘性極限)から、常温(300K)でのヘリックスのfolding速度は約1/(100ns)と見積もられ、最近の温度ジャンプ実験で直接計測されたアラニンリッチなポリペプチドの常温でのfolding速度とよく一致することを確認した。ペプチド鎖のhelix形成がサブマイクロ秒で完了するということは、タンパク質のfoldingの早い時期にすでに二次構造が形成されることを示唆しており、前述のミオグロビンのfoldingのメカニズムともつじつまが合う。構造変化を詳しくみると、ヘリックスの(核)形成時や形成されたヘリックスの両端においては310タイプの水素結合が頻繁にみられ、NMRによる観測結果を支持した。また、水の摩擦抵抗を軽減するためのペプチド鎖のクランクシャフト的な動きも直接観測された。Foldingが進行しnative状態に近づくにつれ(正しい水素結合形成の割合が増えるにつれ)水分子も含めた全系のポテンシャルエネルギーが下がることも明らかになった。これはエネルギーランドスケープが水中でもfunnel状であることを意味する。ヘリックス形成に伴うポテンシャルエネルギーの減少(20±5kcal/mol)は、熱測定による実験値と誤差の範囲でよく一致した。このエネルギー変化は主にクーロンエネルギー(-9±5kcal/mol)と二面角エネルギー(-6±1kcal/mol)によるもので、前者はヘリックス中での水素結合形成、後者はrandam-coil状態時の二面角歪みの減少(helix状態ではエネルギー極小のgauche配座をとる)によってもたらされる。ファンデアワールスエネルギーによる寄与はこれらに比べて少なかった。最後に加えると、ここでのシミュレーション結果と実験結果の一致はきわめて重要である。なぜなら、この一致は、両者が同じ"自然"を観測していること示唆し、時間・空間・エネルギーともに高分解能を有する原子レベルシミュレーションで得られた詳細な結果全ての現実性(信憑性)の拠り所になるからである。

審査要旨

 本論文は1編からなり、第1章では序論、第2章では分子動力学シミュレーションの方法、第3章では仮想熱浴中での分子動力学シミュレーション、第4章では水分子中での分子動力学シミュレーションについて述べられ、第5章では得られた結果について全体的な考察が行われている。

 第1章の序論では、本学位論文で行われた研究の背景と目的について述べられている。タンパク質はアミノ酸の配列によって一意的に決まる立体構造(native構造)をとり、その構造で系の自由エネルギーは大局的最小値をとる。このAnfinsenのドグマに対してLevinthalは、タンパク質は膨大な構造空間をランダムに探索したのでは短時間でnative構造を探し当てることは出来ない、というパラドックスを提出した。このパラドックスを解決する仮説として、タンパク質構造のポテンシャルエネルギーのランドスケープはnative構造に向かって落ち込むfunnel(漏斗)状になっている、というモデルが提案されている。ランドスケープがfunnel状であるため、native構造に近づくにつれてエネルギーが下がるとともに探索可能な構造空間の大きさが小さくなり、native構造を探し当てることが容易になる。

 本学位論文では、タンパク質foldingのミニマムモデル系としてnative構造が-helixである15残基のポリアラニンを取り上げ、分子動力学シミュレーションによりそのポテンシャルエネルギーのランドスケープが本当にfunnel状になっているのか、その表面はどの程度凸凹しているのかを明らかにしている。さらに、-helixの発見以来40年の歴史をもつhelix-coil転移の1次元イジングモデルの妥当性を検証している。

 第2章で分子動力学シミュレーションの方法について詳細に述べた後、第3章ではBerendsen、Nose-Hoover、Langevinの3つの仮想熱浴を用いて15残基のポリアラニンの分子動力学シミュレーションを行った結果について述べられている。仮想熱浴を用いると計算すべき自由度が小さいため、広いパラメータ条件で長時間のシミュレーションを行うことが可能である。300Kから1000Kの温度範囲で合計約1000nsの分子動力学計算を行った結果、700K付近を境界として低温側はhelix状態、高温側はrandom-coil状態となるhelix-coil転移が見られた。転移曲線はマイクロクラスターの系で観測されるsolid-liquid-like転移と類似しており、700K付近での比熱のピークからも協同的な転移であることがわかった。転移温度は比誘電率に大きく依存し、クーロン相互作用(ここでは水素結合)が転移の挙動を左右していることが示された。

 系のポテンシャルエネルギーの時間変動から末端間距離をオーダーパラメータとしてエネルギーランドスケープを描くとfunnel状になっていた。系のポテンシャルエネルギーのパワースペクトルを計算したところ、l/fタイプのスペクトルが得られ、helix状態とrandom-coil状態間の2状態遷移だけではなく多くのサブ状態間の遷移(多重緩和過程)があることがわかった。このことから、エネルギーランドスケープの表面は凸凹していることが示された。サブ状態は、間違った水素結合形成の結果生じた準安定状態が主であることがわかった。また、helix-coil転移の理論モデルであるZimm-Braggモデルは分子動力学計算で得られた転移曲線をよく再現したが、l/fゆらぎは再現できないことがわかった。これは、簡素化されたZimm-Braggモデルではエネルギーランドスケープが滑らかになりすぎるためだと推測される。

 第4章では、多数の水分子中(水滴中)にポリアラニンを溶解させた状態での分子動力学シミュレーションについて述べられている。高温(450K)でのシミュレーションにより、可逆なhelix形成・崩壊過程が10nsの間に数回の頻度で起こることが水分子中ではじめて示された。この結果とクラマースの理論(強粘性極限)から常温(300K)でのhelixの形成速度を見積もると約1/(100ns)となり、温度ジャンプ実験で最近直接計測されたアラニンリッチなポリペプチドの速度とよく一致した。Helix(核)形成時や形成されたhelixの両端においては、NMRによる観測結果と同様に、310タイプの水素結合が頻繁にみられた。また、水の摩擦抵抗を軽減するためのペプチド鎖のクランクシャフト的な動きも観測された。

 末端間距離をオーダーパラメータとした水分子も含めた全系のポテンシャルエネルギーのランドスケープはfunnel状であることが示された。Helix形成にともなうポテンシャルエネルギーの減少(20.5kcal/mol)は、熱測定による実験値と誤差の範囲でよく一致した。このエネルギー変化は主にクーロンエネルギーと2面角エネルギーによるもので、前者はhelix中での水素結合形成、後者はhelix状態でエネルギー極小のgauche配座をとることによってもたらされることがわかった。ファンデアワールスエネルギーによる寄与はこれらに比べて少なかった。

 以上のように、論文提出者はnative構造が-helixである15残基のポリアラニンのhelix-coil転移の分子動力学シミュレーションを行い、実験結果と整合性がよいシミュレーションが可能なこと、ポテンシャルエネルギーのランドスケープがfunnel状になっていること、間違った水素結合形成の結果生じた準安定状態のためにその表面が凸凹していることをはじめて明らかにし、Levinthalのパラドックスを解決するfunnel状エネルギーランドスケープ・モデルの妥当性を明確に示した。また、簡素化されたZimm-Braggモデルでは転移のキネティクスが正確に再現できないことも明らかにした。

 本論文の研究は、倭剛久氏、肥後順一氏、永山国昭氏、陶山明氏らとの共同研究であるが、論文提出者が研究全体を主体的に行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(学術)の学位を授与できると認める。

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