本論文は1編からなり、第1章では序論、第2章では分子動力学シミュレーションの方法、第3章では仮想熱浴中での分子動力学シミュレーション、第4章では水分子中での分子動力学シミュレーションについて述べられ、第5章では得られた結果について全体的な考察が行われている。 第1章の序論では、本学位論文で行われた研究の背景と目的について述べられている。タンパク質はアミノ酸の配列によって一意的に決まる立体構造(native構造)をとり、その構造で系の自由エネルギーは大局的最小値をとる。このAnfinsenのドグマに対してLevinthalは、タンパク質は膨大な構造空間をランダムに探索したのでは短時間でnative構造を探し当てることは出来ない、というパラドックスを提出した。このパラドックスを解決する仮説として、タンパク質構造のポテンシャルエネルギーのランドスケープはnative構造に向かって落ち込むfunnel(漏斗)状になっている、というモデルが提案されている。ランドスケープがfunnel状であるため、native構造に近づくにつれてエネルギーが下がるとともに探索可能な構造空間の大きさが小さくなり、native構造を探し当てることが容易になる。 本学位論文では、タンパク質foldingのミニマムモデル系としてnative構造が-helixである15残基のポリアラニンを取り上げ、分子動力学シミュレーションによりそのポテンシャルエネルギーのランドスケープが本当にfunnel状になっているのか、その表面はどの程度凸凹しているのかを明らかにしている。さらに、-helixの発見以来40年の歴史をもつhelix-coil転移の1次元イジングモデルの妥当性を検証している。 第2章で分子動力学シミュレーションの方法について詳細に述べた後、第3章ではBerendsen、Nose-Hoover、Langevinの3つの仮想熱浴を用いて15残基のポリアラニンの分子動力学シミュレーションを行った結果について述べられている。仮想熱浴を用いると計算すべき自由度が小さいため、広いパラメータ条件で長時間のシミュレーションを行うことが可能である。300Kから1000Kの温度範囲で合計約1000nsの分子動力学計算を行った結果、700K付近を境界として低温側はhelix状態、高温側はrandom-coil状態となるhelix-coil転移が見られた。転移曲線はマイクロクラスターの系で観測されるsolid-liquid-like転移と類似しており、700K付近での比熱のピークからも協同的な転移であることがわかった。転移温度は比誘電率に大きく依存し、クーロン相互作用(ここでは水素結合)が転移の挙動を左右していることが示された。 系のポテンシャルエネルギーの時間変動から末端間距離をオーダーパラメータとしてエネルギーランドスケープを描くとfunnel状になっていた。系のポテンシャルエネルギーのパワースペクトルを計算したところ、l/fタイプのスペクトルが得られ、helix状態とrandom-coil状態間の2状態遷移だけではなく多くのサブ状態間の遷移(多重緩和過程)があることがわかった。このことから、エネルギーランドスケープの表面は凸凹していることが示された。サブ状態は、間違った水素結合形成の結果生じた準安定状態が主であることがわかった。また、helix-coil転移の理論モデルであるZimm-Braggモデルは分子動力学計算で得られた転移曲線をよく再現したが、l/fゆらぎは再現できないことがわかった。これは、簡素化されたZimm-Braggモデルではエネルギーランドスケープが滑らかになりすぎるためだと推測される。 第4章では、多数の水分子中(水滴中)にポリアラニンを溶解させた状態での分子動力学シミュレーションについて述べられている。高温(450K)でのシミュレーションにより、可逆なhelix形成・崩壊過程が10nsの間に数回の頻度で起こることが水分子中ではじめて示された。この結果とクラマースの理論(強粘性極限)から常温(300K)でのhelixの形成速度を見積もると約1/(100ns)となり、温度ジャンプ実験で最近直接計測されたアラニンリッチなポリペプチドの速度とよく一致した。Helix(核)形成時や形成されたhelixの両端においては、NMRによる観測結果と同様に、310タイプの水素結合が頻繁にみられた。また、水の摩擦抵抗を軽減するためのペプチド鎖のクランクシャフト的な動きも観測された。 末端間距離をオーダーパラメータとした水分子も含めた全系のポテンシャルエネルギーのランドスケープはfunnel状であることが示された。Helix形成にともなうポテンシャルエネルギーの減少(20.5kcal/mol)は、熱測定による実験値と誤差の範囲でよく一致した。このエネルギー変化は主にクーロンエネルギーと2面角エネルギーによるもので、前者はhelix中での水素結合形成、後者はhelix状態でエネルギー極小のgauche配座をとることによってもたらされることがわかった。ファンデアワールスエネルギーによる寄与はこれらに比べて少なかった。 以上のように、論文提出者はnative構造が-helixである15残基のポリアラニンのhelix-coil転移の分子動力学シミュレーションを行い、実験結果と整合性がよいシミュレーションが可能なこと、ポテンシャルエネルギーのランドスケープがfunnel状になっていること、間違った水素結合形成の結果生じた準安定状態のためにその表面が凸凹していることをはじめて明らかにし、Levinthalのパラドックスを解決するfunnel状エネルギーランドスケープ・モデルの妥当性を明確に示した。また、簡素化されたZimm-Braggモデルでは転移のキネティクスが正確に再現できないことも明らかにした。 本論文の研究は、倭剛久氏、肥後順一氏、永山国昭氏、陶山明氏らとの共同研究であるが、論文提出者が研究全体を主体的に行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(学術)の学位を授与できると認める。 |