学位論文要旨



No 113989
著者(漢字) 望月,聡
著者(英字)
著者(カナ) モチヅキ,サトシ
標題(和) 行為障害の臨床神経心理学的研究 : 行為産生障害と行為制御障害の症候学
標題(洋)
報告番号 113989
報告番号 甲13989
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第207号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 教授 福林,徹
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 助教授 長谷川,寿一
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨

 本研究では,脳損傷によって生ずるさまざまな行為障害を,臨床神経心理学的手法を用いて分析し,それぞれの示す行為障害の特徴を明らかにした。

 行為そのものが正しく遂行されない症状である,行為産生障害について,本論文第2章および第3章の症例研究と,第1章第1節から第3節の文献例の研究から,以下の事実が導きだされた。

 一般に臨床場面において行為障害の検出に用いられる刺激提示様式と反応様式の組み合わせからなる検査条件の設定と,表出される誤反応によって,さまざまな種類の行為産生障害が生じうる(第1章第1節)ことから,これらの手法によって得られるデータを基にして,障害の本質を明らかにする(症候学)とともに,行為産生障害発現の脳内メカニズム,ひいてはヒトにおける行為産生のメカニズムが明らかにすることが可能である。

 アルツハイマー病が疑われる症例の呈した特異的な症状(第2章)は,他動詞的パントマイムの模倣障害(伝導性失行)であった。さらにこの症例では姿態模倣障害を合併していたことから,この特異な症状は身体部位情報処理に関わる脳機能障害によって生ずる可能性が示された。脳血管性障害によってこのような症状を呈することはまれであり,変性性疾患によってこれらに関わる機能系が比較的選択的に障害されるものと考えられる。

 側頭葉型Pick病(意味性痴呆)を呈した3症例の検討(第3章)によって,従来十分には検討されてこなかった,これらの疾患による行為表出・理解障害の特徴を明らかにした。この疾患により,語の意味記憶が選択的に失われる語義失語と,これに加えて物品の意味記憶が失われる意味性痴呆がすでに報告されているが,本研究により,障害されるカテゴリーは行為にまで及ぶ場合があることが示された。3例の呈した行為表出・理解障害は,行為に関する意味記憶障害が存在することによって生ずる,二次的な行為産生障害であることが示された。このような障害が必ずしもすべての文献例でみられるわけではないため,側頭葉型Pick病には,語の意味に選択的な障害を呈するタイプと,語以外に物品や行為にまでその意味記憶障害が広がるタイプの2型が存在することが示唆された。

 以上の知見と,変性性疾患における行為障害の報告の総説(アルツハイマー型痴呆,第1章第2節;原発性進行性失行,第1章第3節)により,各種変性性疾患における行為産生障害の特徴が明らかとなった。アルツハイマー型痴呆では(従来的な意味での)観念運動性失行や観念性失行,概念性失行が主体であるのに対し,原発性進行性失行では肢節運動失行がその主要な症状である。これらはあくまでも多数例の検討によって出現する傾向のみを指し示しており,個別症例の緻密な検討によって特異的な障害が見いだされる場合がある(第2章)。行為産生障害の研究にはさらなる単一症例研究の積み重ねによる症候学の確立が必要である。

 意図・意志と行為の解離(「したくないのにしてしまう」,「したくなってしまうのでする」)によって生ずる症状と定義された行為制御障害には,さまざまな症状が存在する(第1章第4節)。本研究ではこのうち,従来「道具の強迫的使用」と呼ばれている症状について扱い(第4章),検査場面での検討と,症例自身の日記を分析することによって得られる内観の解析から,新たな知見を得た。既に報告されている症例と対比すると,聴覚的に提示される物品名によりパントマイムが誘発されること,視覚提示パントマイム条件では,物品が視覚的に提示されているにもかかわらず「使用」せず,正しくパントマイムが為された点が特異的であった。これらは,日記分析による結果と合わせ,症状発現には物品が存在することが必要なのではなく,物品に関する「意図」が形成されてしまうことにより生ずる障害であると考えられた。さらに「意志」と「意図」を仮定することにより,症例の呈する行為障害を説明できることを示した。従来行われてきた観察に基づく行為制御障害の症候学のさらなる積み重ねに加え,これらの行為制御障害に含まれていると思われる,行為者性の減退との関連を追及する必要がある。

 第6章では,行為産生障害,なかでも「観念運動性失行」の特徴とされてきた身体部位の物品化現象と,新しく見いだされた症候である「上肢接近現象」の共存する症例を検討し,後者の現象は行為制御障害とは別個の障害であり,むしろclosing-in現象と呼ばれる症候に類似する可能性があることを示した。さらにこれらを「接近現象」として包括的に捉えた。これらは発達過程において出現することから,単に行為産生障害/行為制御障害の枠組みで理解する従来の症候学では捉えにくい,象徴的能力あるいはイメージ化能力の減退によって生ずると考えられた。

 以上より,行為産生障害および行為制御障害は,脳のさまざまな疾患,さまざまな脳部位の機能低下を反映して生ずる複雑な現象であり,決して単一的局所的な「行為中枢」が存在するわけではないことが示された。さらにこれらの行為産生/制御障害は刺激と反応の組み合わせに特異的に症状を呈する場合が存在することから,脳内には行為に関する複数の機能系が存在し,これらからなる機能系間の相互協調的な作用によって行為が遂行されることが理解された。Mesulamの選択的分散型処理仮説(1998)を行為カテゴリーにおいても支持する結果であると思われた。

審査要旨

 本論文は、脳に損傷が生じた患者が示すさまざまなタイプの行為障害すなわち失行症を、臨床神経心理学的手法を用いて分析してその特徴を検討したうえで、それらを総合して行為障害発現の脳内メカニズムを明らかにすることを目的としており、その先には、ヒトにおける行為遂行の脳内機構の解明が意図されている。

 この種の研究では、対象となる症例が限定されるために、過去の文献例との比較が考察を進める重要な手がかりとなるが、第1章ではこうした観点から従来の研究の総説を行い、古くから検討されてきた脳血管性障害による行為障害に加えて、これとは明らかに性質の異なる変性性疾患による行為障害の存在を明示したうえで、本論文で考察を進める基礎となる、Rothiら(1997)の行為産生モデルを提示している。

 第2章以下が本研究による症例の検討で、第2章では、アルツハイマー型痴呆を呈した1症例の行為障害を詳細に検討し、他動詞的行為の模倣に選択的に障害がみられることを明らかにした。このような症状を呈する症例は、過去に1例のみが報告され、「伝導性失行」と命名されており、模倣すべき行為の視覚記憶表象と、それを実行する際の運動記憶表象との間の離断として説明されている。この説明は、習熟行為の模倣の検討に基づいているが、本研究では、従来あまり検討されなかった姿態の新奇な行為の模倣も検討しており、それにも障害がみられることから、いわゆる伝導性失行の基底には、身体部位情報処理に関与する脳機能の障害が考えられることを提言している。この点に関する本研究の検討が1例のみを対象にしたものであるため、この提言を何処まで一般化できるかは今後の検討を待たなければならないが、従来の知見にはない新しい見解を提示したことは評価できる。

 第3章では、側頭葉型ピック病患者3例を対象に、行為表出障害と行為理解障害の様相を詳細に検討し、行為表出と行為理解ともに障害がみられ、両者の間に相関が認められるという結果を得、誤反応の内容の分析などに基づいて、この障害が、行為に関する意味記憶の障害によるものであると結論している。側頭葉型ピック病に関しては、語の意味記憶が選択的に失われる語義失語と、さらに日常物品に関する意味記憶も失われる意味性痴呆とが知られているが、行為障害については、従来十分な検討はなされておらず、本論文が側頭葉型ピック病にも行為障害を呈する症例が認められることを明らかにした点は評価することができる。

 第4章では、左帯状回前部と脳梁幹の梗塞により、日常使い慣れている道具を見たり触ったりすると意志に反してその道具を使ってしまう「道具の強迫的使用」の症状が右手に出現した1症例を詳細に検討している。行為制御障害の一つとされているこの症状に関しては、既に多数の症例が報告されているが、本研究では、検査に「・・・・しないで下さい」という教示のもとに刺激を提示する条件も用意し、さらに刺激提示法にも、物品の視覚提示、視覚+触覚提示、物品名の聴覚提示など多数の条件を加えており、また、検査場面ではなく日常場面でのこの症状の出現状況を、十分な教示のもとに書かれた患者の日記の分析を通じて検討するなど、従来の報告にないさまざまな工夫がなされている。その結果、物品名を聴覚的に提示しただけでその物品を使用するパントマイムが誘発されること、物品が視覚的に提示されているにもかかわらず、物品を手に持たずに正しいパントマイムが行われること、患者が行為に関する意図を持っただけで行為が表出されてしまうこと、などの新しい知見が明らかにされた。こうした結果に基づいて本論文では、「道具の強迫的使用」は、物品自体の存在が必要なのではなく、物品に関する意図が形成されてしまうことによる障害であるとの結論が導かれている。

 第5章では、失行検査中にしばしば観察され観念運動性失行の特徴とされてきた「身体部位の物品化(body parts as object:BPO)現象」と、視覚提示された物品に触れずにその使用法をパントマイムで示す課題で右上肢が意図に反して提示された物品に近づいてしまう「上肢接近現象」をとりあげ、この二つが共存する1症例を対象に検討を加えている。

 「身体部位の物品化現象」に関しては、古くから指摘され報告も多いが、本論文では、検討の結果から、当該物品の形状や機能に関する意味記憶は保たれており、またその物品を使用する際の行為の記憶も保たれていることを指摘して、この両者の統合、すなわち物品中心的な意味記憶と行為(身体)中心的な意味記憶の統合の障害として説明されている。

 「上肢接近現象」は、論文執筆者の注意深い観察によって捉えられた、これまでに報告されていない新しい現象で、一見「道具の強迫的使用」などと同じ行為制御障害の一種ともみられるが、詳細な検討の結果、行為制御障害とは異なり、線画の模写などの際にモデルの上をなぞってしまう「closing-in現象」と類似の「接近現象」として捉え、「行為そのものをいったん表象空間に想起し、それを外的に存在する刺激(物品・線画)から切り離して他の場所に表出・表現することができない症状」と説明されている。

 最後の第6章はこれら一連の検討の総括に当てられ、第1章で提示したRothiら(1997)のモデルの妥当性が検討されているが、モデル全体を議論するには至っておらず、「さまざまな行為障害の臨床像を分析した結果の総合」という、論文の冒頭に記された目標が、十分達成されたかたちにまでは至っていない。しかしこの点は、「研究の進行が出現する患者に完全に左右される」という、この種の研究の宿命によるものと理解することができ、さらにタイプの異なる行為障害患者が新たにに出現してそれに接する機会が得られれば、本論文で進めてきた検討を続けることによって、この目標を達成することが期待できる。

 このように本論文は、第2章から第5章までの検討で明らかにされた各症例に関する知見が、必ずしも十分統合されているとはいえいないという点に不満が残るものの、各章でなされた検討には、検査法などの点で従来の研究にはない斬新な工夫も多く、また対象患者の内観を重視するといった、認知行動科学的アプローチも加えられており、その結果新しい知見もいくつか得られている。さらに、考察では文献例との比較も含めた視野の広い議論が進められており、これまでにない新しい見解も提唱されている。その点では、従来の行為障害研究から一歩踏み出した論文と評価することができる。

 よって本論文は、東京大学大学院総合文化研究科課程博士(学術)の学位請求論文として合格と認定された。

 尚、本論文第4章の内容の一部は、「強迫的使用・パントマイム現象-検査場面及び日常場面での検討-」という題名で、「失語症研究」19巻2号に掲載が決定している。

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