従来、図を介して3次元立体を認識できる能力、いわゆる"空間認識力(Spatial Ability)"に関する研究は、心理学の分野における人間の知覚や認知、知能に関する研究の一環として極めて重要な課題とされてきた。しかし、これがどのように育成されるのかに関する実証的研究は、心理学の分野においても意外に行われていない。近年になって、大学における図形科学教育との関連で学生の空間認識力を評価する試みがようやく行われるようになってきた。このような試みのなかで、空間認識力の評価法として現在最も広く用いられているのが切断面実形視テスト(MCT:Mental Cutting Test)と呼ばれる空間テストである。これは立体図で立体と切断面を与え、切断面による立体の切り口を解答させるテストである。これまでMCTに関しては、幾つかの大学で主にペーパー・テストによる調査が行われた結果、性差の存在やいわゆる大学入試偏差値との相関、図学教育による有意な得点上昇が見られることなどがわかってきた。また、アイ・カメラを使った注視点の調査による問題解決過程や解答方略、誤答原因などの分析から、MCTは主として図から3次元的なイメージ(切断面にそった立体形状のイメージ)を生成する能力を評価しており、従って、主に心的表象の生成過程に対応する能力を評価しているものと考えられた。また、立体視MCTなどの得点結果から、この3次元イメージの生成には、視覚レベルに近い機能のみではなく、より高次の機能が関係している可能性が示唆された。しかし、MCTが他の空間テストとの関連で、空間認識力のどのような側面を評価しているのか、また、MCTによって評価される空間認識力の構造や、それが一般知能(General Intelligence)とどのような関連を持っているのか、などについて十分な知見が得られているとはいえない。 これまで、空間認識力に関して、幾つかの空間テストを実施して因子分析を行う心理測定的アプローチによる研究から、その因子構造がある程度明らかにされてきている。それは、空間定位因子(SOF)、および空間視覚化因子(SVF)の2つが主たる因子であること、および、後者からスピード回転因子(SRF)をさらに独立した因子として抽出できること、などである。また、被験者の問題解決過程を探る情報処理アプローチに基づく研究からは、空間的問題を解決する際、一般に心的表象の生成過程、評価過程、変換過程という3段階のプロセスに分化して分析することが可能であると考えられている。 本研究では、こうした心理学の分野における研究成果に基づき、MCTによって評価される空間認識力と、その構造を明らかにしていくことを目的として調査を行った。そのために、MCTと他の代表的な空間テストや、いわゆる一般知能を検査するテストを同時に実施し、得点や解答時間について多変量解析などを用いて結果を分析した。調査方法として、大部分の空間テストや知能テストはコンピュータ・ネットワークを使って実施した。すなわち、パソコン画面上に問題を表示し、キー操作やマウス操作によって被験者に解答させた。これによって、従来のペーパー・テストでは得ることのできなかった被験者の各問題の解答時間を測ることができる。また、一度に多数の被験者に対する調査が可能になることから、情報処理アプローチによる手法からは得られなかった被験者全体の傾向を調べることができる。こうした手法により、これまでの心理測定的アプローチや情報処理アプローチによる調査結果を相互に有機的に関連づけていくことが可能になると思われる。 被験者は理科系の大学一年生を対象に、東京大学をはじめ幾つかの大学において調査を実施した。東京大学およびF大学では、MCTの調査に関して、1208名の被験者のデータを得た。また、東京大学では、別の被験者を対象にMCTおよび他の4つの空間テストを同時に実施した。それらは、MRT(Mental Rotations Test)、DAT(Differential Aptitude Test)、MPFBT(Minnesota Paper Form Board Test)およびPFT(Paper Folding Test)であり、いずれも従来の研究では、SVの能力を評価する代表的なテストと考えられている。また、MRTについてはスピードが要求されるSRを主に評価するものとされている。その結果、5つの空間テストに関して72名の被験者のデータを得た。また、空間認識力といわゆる一般知能との関連を調べるために、MCT、MPFBTおよび、一般知能に関するテストとして広く使われているAPMテスト(Advanced Progressive Matrices Test)を実施した。東京大学およびM大学における調査で、これら3つのテストに関して124名の被験者のデータを得た。以下、これらの調査結果について概説する。 まず、第一に、東京大学およびF大学において実施したMCT単独の調査結果について述べる。各問題の解答時間について因子分析を行なった結果、MCTには問題によって4つの因子が認められた。それらはアイ・カメラによる調査結果などを参考にすることにより、「イメージ解答過程」、「分析的考察過程」、「奥行き認識過程」、「分解過程」と解釈できた。また、各問題の解答時間と得点の関係について調べるために、得点を基準変数、各問題の解答時間を説明変数として重回帰分析を行なった。その結果、大半の問題は被験者の得点が高いほど解答時間はわずかに減少する傾向を示していることがわかった。こうした傾向が顕著なのは、誤答の少ない単純なパターン判別問題である。逆に典型的量判別問題および誤答の多いパターン判別問題については被験者の得点が高いほど、解答時間は増加する傾向が見られた。これらの原因として、低得点者は高得点者に比べて、比較的単純なパターン判別問題では立体や切断面のイメージの生成に時間がかかり、また切断面のイメージも不正確であること、かつ量判別問題や一部の誤答の多いパターン判別問題などについては分析的考察が不足していることが考えられた。これまで、アイ・カメラによる調査から、高得点者と低得点者の解答過程や誤答原因の特徴が調べられていたが、こうした傾向は、重回帰分析により被験者の全体的な特徴であることが確かめられた。従って、MCTは主として立体のイメージを生成する能力、および、分析的考察能力を反映している。さらに、MCTの問題どうしの誤答傾向を調べるために、MCTの各問題の誤答のクラスター分析を行った。その結果によれば、MCT問題の誤答率の低い順にクラスターを形成していく傾向が顕著であり、幾何学的な特徴の類似性、あるいは量判別問題やパターン判別問題といった問題の性質に関連した誤答傾向は、全般的には見られなかった。従って、主にパターン判別問題の解答過程に見られるイメージ生成過程や、量判別問題の解答過程に見られる分析的考察過程に対応していると考えられるイメージの生成能力、および分析的考察能力の間には、これらが誤答分析において別個のクラスターを形成していないことから、密接な相関関係があると考えられた。 第二に、MCTおよび他の空間テスト・一般知能テストを実施して、これらの相互の関係を調査した結果、以下のことが明らかになった。まず、MCTと他の空間テストの得点の相関や解答時間の因子分析、得点と解答時間の重回帰分析などから、MCTはSV因子を評価するテストに属しており、また、SVの空間認識過程において、イメージ生成や分析的考察といったより複合的な要素を反映しているテストの一つであることがわかった。こうした特徴は、2次元の展開図から生成される立体を答えるDATのような空間テストにも見られるものであり、2次元の図から3次元のイメージを生成し処理する課題の解決過程に特有な傾向であると考えられた。さらに、従来、解答プロセスと得点の関係について、両者に特に相関はみられない、とする結果が報告されていたが、解答過程自体の因子構造に立ち入って考えれば、イメージの生成のスピードと空間認識力との間には相互にある程度の関連性がみられることがわかった。 次に、MCTとMPFBT、および一般知能テストであるAPMテストを実施した結果から、MCTとAPMとの得点には、比較的高い相関が見られた(相関係数0.5)のに対し、MPFBTとAPMとの得点の相関は小さく、両者の差は有意であることがわかった。従来、空間認識力と帰納的推論などの一般知能とは、因子として独立しており相関は見られないという説が一般的であった。しかし、SVの一つであるMCTによって評価される空間認識力は、推論などの一般知能と関連したものであることがわかった。従って、空間認識力とは、MCTのような課題に要する2-3次元空間処理能力のように、一般知能などの高次の機能が関係してくるものから、SRに属すると思われるMPFBTのように、イメージの保持や探索スピードといった比較的単純な過程のスピードや正確さに関する能力にいたるまで、階層的な構造を持っていた。APM得点とMCT得点との相関に見られるように、一般知能と空間認識力が関係していることの主な原因として、2次元の図から3次元の立体をイメージし処理する能力が高度な推論などの思考力と関連していることが推測された。 |