本論文は5章からなり、第1章は導入説明にあてられている。第2章はニトロニルニトロキシドラジカル分子の水素結合性分子間化合物の結晶構造と磁性について、第3章ではニトロニルニトロキシドと金属dmit錯体との塩の磁性とその構造との関連について記されている。第4章では全体の結論が述べられている。第5章は実験の詳細を記述するために割かれている。 第1章は、本論文の導入説明として、分子磁性研究においてニトロニルニトロキシド系有機ラジカルが果たした役割について言及されている。そこではニトロニルニトロキシドラジカルの一般的特徴と、この有機ラジカル系において最初に発見された有機強磁性体の例が述べられた上で、今後の分子磁性研究の目指すべき方向性として、新規低次元磁性体の研究と、磁性と他の物性とが共存する複合物性の開拓を提案している。論文提出者は、ピリジルニトロニルニトロキシド(PYNN)について多様な化学修飾が可能であること、しかもPYNN自身あるいはその誘導体が、分子間化合物を容易に形成しうることに着目し、PYNNの分子間化合物生成のための方法論の確立とともに、得られた多様な物質群の中から、先に指摘した分子磁性研究の新しい視点に適う系の発見を研究目的として提示している。 第2章では、PYNN水素結合性分子間化合物の結晶構造と磁性に関する研究結果を述べている。第1節はこの章の導入として、水素結合が分子結晶の構造と物性に果たす役割を挙げている。第2節はPYNN分子のプロトネーションの実験の結果を記している。(PYNN)2HBrなる組成の塩の多結晶試料が得られ、[NHN]+分子間水素結合の状態にあると見られること、m-誘導体では強磁性的分子間相互作用が3分子以上にわたって作用することが示されている。第3節では、PYNN-X-PYNNのような架橋構造を持つより安定な分子間化合物を得るため、PYNNと二価の有機酸X(=ヒドロキノン、フマル酸、四角酸)との錯体を作成し、その構造と磁性を記載している。構造解析の結果から、いずれもPYNN-X-PYNNの架橋構造を持つことが分ったが、ヒドロキノンとの錯体ではPYNN分子のNO基が水素結合受容基として作用するのに対して、フマル酸ならびに四角酸との錯体中ではピリジン環のNが塩基として作用することが分った。このような水素結合の選択性に対して、水素結合のエネルギーに対する静電相互作用の寄与とCT相互作用の寄与との競合によるとする定性的な説明を与えている。第4節ではPYNNの塩基としての性質を利用して、有機ラジカル同士の酸-塩基錯体を合成を述べている。ここで用いられた酸は、ニトロニルニトロキシドを置換した安息香酸(NNBA-H)である。m,p-PYNNとm-,p-NNBA-Hとで計4種類の錯体を結晶化し、カルボキシル基とピリジン環との間の水素結合形成を報告している。磁気特性という点では新規な性質は見いだせなかったが、酸-塩基相互作用に基づくPYNNの分子間化合物作成の方法論を確立した点が評価された。 第3章では、PYNNの誘導体であるN-アルキルピリジニウムニトロニルニトロキシドカチオンラジカルと金属dmitアクセプターアニオンから得られる塩の磁性とその構造との関係を記している。第1節は導入部であって、まず金属dmitアクセプターアニオンの代表例[Ni(dmit)2]-を簡単に紹介されている。当初複合物性を目的として塩の合成を行ったところ、得られた結晶の一つが、新規低次元磁性体として注目を集めているスピンラダー構造を含むことが見いだされ、特にその磁気的性質を詳しく調べたという研究の経緯が述べられている。第2節では、その分子性スピンラダーを含む結晶p-EPYNN・[Ni(dmit)2]についての研究結果が記されている。そこではまず、スピンラダーに対する一般的説明の後、p-EPYNN・[Ni(dmit)2]結晶構造が[Ni(dmit)2]のラダー構造を有していること、分子スピンラダーが/kB=940Kのスピンギャップを持ち、p-EPYNNが強磁性的一次元鎖としてふるまうことが示されている。第3節では、p-EPYNNカチオンと[Au(dmit)2]の塩の結晶構造と磁性を述べている。結晶構造から、[Ni(dmit)2]-塩と[Au(dmit)2]-塩が同型ではないが、カチオンの一次元鎖状の配列や、カチオンとアニオンとの相対配置等の類似性を指摘し、また磁気的には、[Ni(dmit)2]-はS=1/2の常磁性であるが、[Au(dmit)2]-は反磁性であって、磁化率にその置換の効果が現れていることを記載している。第4節では、[Ni(dmit)2]-が[Au(dmit)2]-と互いに固溶体を作ることを利用し、p-EPYNN・[Ni(dmit)2]塩の[Ni(dmit)2]-を部分的に[Au(dmit)2]-に置換した固溶体p-EPYNN・[Ni(dmit)2](1-x)[Au(dmit)2]xを作成してこの分子性スピンラダーに対する不純物効果を評価している。まず、固溶体のうち0x0.5の範囲の固溶体はp-EPYNN・[Ni(dmit)2]と同様なラダー構造を有すると考えられることを実験結果から示して、次にそれらの磁気測定の結果を述べている。反磁性の不純物を常磁性のスピンラダーに置換していくことで、ラダー中のスピン対が一部壊れ、キュリースピンが生じる。そして低温部の挙動が、強磁性的から反強磁性的に反転することを発見している。極低温域の磁気測定の結果から、その反強磁性的が、[Ni(dmit)2]塩中では強磁性的であったp-EPYNNをも巻き込んで作用していることが示された。最近のスピンラダーに対する理論的研究から、スピンラダー上への反磁性不純物導入は、その近傍に反強磁性的に伝搬するスピン分極を発生させることが指摘されているが、そのスピン分極をテンプレートにすることにより、反強磁性的なスピン相関がp-EPYNN鎖上に広がった可能性が示され、審査員一同の関心を喚起した。 本章の結果では特に、スピンラダーの不純物効果を検討するにあたって、ラジカルの強磁性鎖がスピンラダーの近傍に配置された系を用いてことによって、スピンラダー上にスピン相関が、常磁性的な格子欠陥を通じてたラジカル強磁性鎖への影響という形でモニターできた、という点が独創的であると評価された。 第4章は結論に充てられている。PYNN2HBr,PYNN2・X(X=ヒドロキノン,フマル酸,四角酸)およびPYNN・NNBA-Hの各種の水素結合性分子間化合物を得、そのうちPYNN2・X錯体においては水素結合形成の選択性について、水素結合のエネルギーの観点から説明を与え、PYNN・NNBA-H錯体では、ヘテロラジカル分子間化合物作成のための有用な方法論を得たこと、また、p-EPYNN・[Ni(dmit)2]塩中では、[Ni(dmit)2]-からなる分子スピンラダーが見い出され、スピンギャップ状態形成が分子結晶において確認され、[Au(dmit)2]による不純物効果を検討したところ、p-EPYNNの磁性に影響を与えるという興味深い結果を得たことをまとめとして述べている。 なお、本論文中の第2章の一部は、奥野恒久氏(現和歌山大学システム工学部)との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって実験を行ったもので、また第3章の一部は、今井宏之、稲辺保氏(北海道大学理学系)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって磁気測定と解析を行ったもので、ともに論文提出者の寄与が十分であると判断する。 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。 |