学位論文要旨



No 113999
著者(漢字) 佐伯,盛久
著者(英字)
著者(カナ) サエキ,モリヒサ
標題(和) 分子クラスター負イオンの構造と反応
標題(洋) Structures and Reactivities of Negatively-Charged Clusters of Small Molecules
報告番号 113999
報告番号 甲13999
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第217号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 増田,茂
内容要旨

 クラスターとは数個から数百個の分子の集合体であり、気相と凝縮相の中間の相であると考えられる。しかし、その性質は気相と凝縮相の内挿上にはなく、クラスター独自の性質をもつことが知られている。その性質は構成分子数(クラスターサイズ)というパラメーターにより決められており、クラスターサイズによって変化する。その様子は、例えば、クラスターの電子を束縛する様子に現われてくる。例えば、水分子は単量体では電子を束縛しないが、集合体になることによって電子を束縛するようになることが知られている。この水分子クラスター負イオンの電子状態はサイズによって大きく変化する。小さなサイズでは水分子のdipole momentによって作られる呼ばれる場に電子は束縛され、一方、大きなサイズでは電子の周りにいくつかの水分子が配向して殻を形成し、その空洞の中に電子を捕獲している。また、最近では同一サイズのなかで、電子状態が異なる異性体が存在することが予測されている[1]。

 このような、クラスターに特徴的な電子束縛状態を形成するものとして他に二酸化炭素クラスター負イオン(CO2)n-が挙げられる。CO2分子は単量体では自動電子脱離を起こすために負イオンとしては安定に存在することはできないが、集合体になると電子を束縛するようになる。また、水分子が溶媒和することにより単量体でも安定に存在するようになる[2]。(CO2)n-の系については光電子分光法によりその電子構造がよく調べられている。それに依ると、(CO2)n-はCO2-およびC2O4-の二種類のイオン芯をもち、どちらの電子状態をとるかは、クラスターサイズにより決定されている[3,4]。

 本論文では(1)(CO2)n-における幾何構造と電子構造の関係、(2)水分子によるCO2-の安定化のメカニズム、(3)(CO2)n-の反応性を明らかにするために、(CO2)n-および[(CO2)nROH]-(R=HおよびCH3)の系について研究を行った。また、これ以外にも、その電子状態がサイズに依存していると予想される(NO)n-についてもその構造を調べた。研究手法としては光電子分光法および光解離を用いた。光電子分光法は電子状態を調べるのに適した方法である。光電子分光法ではその測定結果より垂直電子親和力が求められ、それを基に様々な種のスペクトルどうしを比較することにより、クラスター負イオンの電子状態がわかる。また光解離では、光を吸収する部位に関する情報だけでなく、その負イオンの幾何構造に関する情報を得ることができる。さらに実験結果を解析するために、ab inito計算を行った。ab inito計算と実験結果を比較することにより、その負イオンの電子状態をより詳細に調べることができる。

 第II章では(CO2)n-の構造をab initio計算によって調べている。その結果、(CO2)2-では図1に示すような3つの安定構造が得られた。これらの構造より、CO2-の周囲にはCO2分子が配位することができるいくつかのサイトがあり、そこにCO2分子が位置することにより安定構造が形成されていると考えられる。さらに、D2dのような相対位置に2つのCO2分子が位置することにより強い相互作用が生じ、C2O4-が形成される。いくつかの異性化過程を想定してポテンシャル曲面を計算した結果、CO2-の周囲をCO2がまわることにより、CO2-・CO2C2O4-の異性化が可能であることがわかった。さらに、イオン芯の周りにCO2分子が位置できる特定のサイトが存在するということを基にして、n3のサイズのものについて安定構造を求めた。その結果、CO2分子がD2dのような相対位置に位置している構造ではC2O4-が形成されていることがわかった。

図1(CO2)2-の安定構造

 第III章および第IV章ではでは[(CO2)nROH]-の電子構造異性体について述べている。前述したように、CO2-はH2Oが一つ加わるだけで安定化することが知られている。[(CO2)nROH]-の電子状態を調べた結果、(CO2)n-ではC2O4-をイオン芯とするものしか存在しなかった小さなサイズにおいて、CO2-およびC2O4-をイオン芯とする構造が共存していることがわかった。さらにそれらの電子構造の異なる異性体間の関係について情報を得るために、一方の異性体の分布を光脱離過程により減らし、その減少の様子を光電子分光法を用いて調べた。その結果、[(CO2)2ROH]-では一方の異性体の分布のみが選択的に減少するのに対し、[(CO2)4CH3OH]-ではもう一方の異性体も同時に減少することがわかった。このことは小さいクラスターサイズと大きなクラスターサイズでは共存の様子が異なっていることを示している。すなわち、[(CO2)2ROH]-では異性体間にその内部エネルギーでは越えられないエネルギー障壁が存在しているのに対し、[(CO2)4CH3OH]-はCO2-をイオン芯とする構造とC2O4-をイオン芯とする構造の間をゆらいでいるものと考えられる。[(CO2)4CH3OH]-で異性化が可能になっているのは溶媒分子が増えたことにより、新たな異性化経路が生じたためと考えられる。

図2 低エネルギー側のバンドを減少させたときのスペクトルの変化(a)[(CO2)2H2O]-(b)[(CO2)2CH3OH]-(c)[(CO2)4H2O]-

 さらに、第IV章ではab inito計算により[(CO2)nROH]-の構造を調べることにより、CO2-が安定化されるメカニズムを調べている。求められた構造はROHがO-H…Oという結合を介してと相互作用している様子を示している(図3)。[(CO2)H2O]-のポテンシャル曲面を計算した結果、ROHの存在により自動電子脱離に対するエネルギー障壁が高くなっていることがわかった。

図3(a)[(CO2)H2O]-および(b)[(CO2)CH3OH]-の安定構造

 第V章では(CO2)n-の反応性について述べている。(CO2)n-では、CO2-が溶媒和により安定化されているので、CO2-を求核試剤とした反応が起こる可能性がある。実験では以下のような反応が観測された。

 

 また、大きなサイズの(CO2)n-では(1)の反応は起こらないことがわかった。これは(CO2)n-が大きなサイズでは核構造をとっているために、CH3IがCO2-コアに近づけないためであると考えられる。第VI章では(1)の反応により生じたCH3CO2I-の電子構造を調べている。ab initio計算を行った結果、図4のような構造が求められた。

図4 CH3CO2I-の安定構造

 第VII章では、(NO)n-の電子構造を調べている。NOクラスター負イオンの電子構造は単量体と二量体では大きく異なっていることが示唆されている。このようなクラスター負イオンではさらにサイズが大きくなると電子構造が異なっている可能性がある。光電子分光法によりその電子構造を調べた結果、二量体から三量体にサイズが変化した時バンドの形状が大きく変化していることがわかった。また、それ以上のサイズでは三量体のバンドの形状を保ったままでいることが判った。

[1]K.S.Kim,I.Park,S.Lee,K.Cho,J.Y.Lee,J.Kim,and J.D.Joannopoulos,Phys.Rev.Lett.76,956(1996).[2]C.E.Klots,J.Chem.Phys.71,4172(1979).[3]M.J.DeLuca,B.Niu,and M.A.Johnson,J.Chem.Phys.88,5857(1988).[4]T.Tsukuda,M.A.Johnson,and T.Nagata,Chem.Phys.Lett.268,429(1997).
審査要旨

 本論文は7章から成り、第1章では、本論文の主要なテーマである「二酸化炭素分子クラスター負イオン(CO2)n-およびその水和物の構造と反応性に関する研究」の当該分野に於ける学問的な位置付けが総括的に述べられている。続く第2章〜第7章には、上記のテーマに基づいて行われた研究の成果が詳しく記述されている。第2章では、非経験的(ab initio)計算による(CO2)n-の構造推定、第3章では、光電子分光法による[(CO2)nROH]-(R=H,CH3)の電子構造の解明、第4章では、ab initio計算による[(CO2)nROH]-の構造推定、第5章では、(CO2)n-の反応性に関する実験、第6章では、(CO2)n-の反応によって生成した新奇イオン種CH3CO2I-の構造推定と光解離過程の追跡、第7章では、(NO)n-の幾何構造・電子構造の推定について述べられている。

 第2章では、Moller-Plesset摂動法によって電子相関を考慮した大規模なab initio計算を行い、(CO2)n-(2n6)の幾何構造を推定している。この計算によって、(CO2)n-にはエネルギーの近接した多数の異性体が存在し、それらがCO2-・(CO2)n-1およびC2O4-・(CO2)n-2で表される電子構造異性体(electronic isomers)であることが示された。さらに、異性化過程CO2-・CO2C2O4-の反応経路とポテンシャル障壁の高さを定量的に推定した。これらの成果は、実験的に決定が困難である(CO2)n-の構造を、高い計算精度で理論的に予測したものである。

 第3章では、CO2-の水和物が特異的な安定性を示すことに着目して、光電子スペクトルの測定から[(CO2)nROH]-(R=H,CH3)の電子構造を決定し、水和物形成による安定化のメカニズムを明らかにしている。この実験から、二種類の電子構造異性体CO2-・ROH(CO2)n-1とC2O4-・ROH(CO2)n-2が存在することが見いだされた。さらに、光電子ディプリーション法を用いて、異性化反応CO2-・H2O(CO2)3C2O4-・H2O(CO2)2によって[(CO2)4H2O]-の構造が揺らいでいることを示した。これらの成果は、分子クラスター負イオンの異性体の共存および異性化による構造の揺らぎを実験的に捉えた希少な研究例である。

 第4章では、ab inito計算によって[(CO2)nROH]-(1n2)の幾何構造を推定し、前章の実験結果との比較・検討を行っている。ab inito計算の結果は、二種類の電子構造異性体CO2-・ROH(CO2)n-1およびC2O4-・ROH(CO2)n-2が存在するとした前章の結論を強く支持するものであり、さらに、ROHが水素結合的なO-H…O相互作用を介してCO2-ないしはC2O4-を安定化していることを示唆している。また、ab inito計算によってCO2-・H2Oの自動電子脱離に対するエネルギー障壁を半定量的に見積り、これに基づいて水和によるCO2-の安定化の機構を説明した。

 第5章では、質量分析法、光電子分光法、光解離分光法を組み合わせて、(CO2)n-の気相反応試剤としての性質を明らかにしている。この結果、(CO2)n-とCH3Iとの反応により、これまでに観測例のない新奇イオン種CH3CO2I-(acetyloxy iodide anion)が生成することを報告している。この成果は、(CO2)n-が親核反応性を持つカルボキシル化試剤となることを初めて示したものであり、分子クラスター負イオンを利用した新しいイオン-分子反応の開拓に繋がるものである。

 第6章では、新奇イオン種CH3CO2I-の幾何構造・電子構造をab initio計算によって推定し、光電子スペクトル、紫外・可視吸収スペクトル、光解離質量スペクトル等の測定結果との比較から、CH3CO2I-の結合様式を確定している。まず、CH3CO2I-の結合様式について、acetate骨格とI原子がO-I結合を形成することによって余剰電子を共有していることを明らかにした。さらに、この結合様式に基づいて、実測されたCH3CO2I-の光解離過程が説明できることを示し、CH3CO2I-の化学種としての総合的な同定を行った。

 第7章では、基本的な二原子分子である一酸化窒素のクラスター負イオン(NO)n-を取り上げ、その電子構造・幾何構造を実験および計算の両面から調べている。実験では、(NO)n-の光電子スペクトルの形状が三量体を境に顕著に変化することを見いだし、(NO)3-が分子負イオンN3O3-を形成すること、n3ではN3O3-がイオン芯となることを明らかにした。また、ab initio計算によって、分子負イオンN3O3-には、分岐した鎖構造を持つ多くの構造異性体が存在することを示した。

 以上のように、本論文の内容は、これまで極めて研究例の少なかった分子クラスター負イオンの構造と反応性に関して、実験と計算を併用して系統的に行なわれた研究の成果を纏めたものであり、電子構造異性体の共存や構造の揺らぎを明らかにし、新たな反応性を見いだすなど、分子クラスター負イオンの特性に関する重要な知見を与えるものである。なお、本研究は共著者の協力のもとに論文提出者が主体となって遂行したものであり、その寄与は十分であると判断する。よって、本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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