審査要旨 | | 本論文は5章からなり,第1章は導入,第2章は本研究で開発した実験装置の説明,第3章から第5章はそれぞれ,その装置を用いて行われた,金属中の原子空孔生成エネルギー,パラポジトロニウムの寿命,シリカエアロゲルの微粒子表面に対する熱処理の効果の研究の報告にあてられている。 陽電子消滅法は電子の反粒子である陽電子を用いたユニークな物性研究手段である。測定法には大きく分けて2種類あり,陽電子が入射して消滅するまでの寿命を測定する陽電子寿命スペクトル法と,陽電子が消滅したときの電子・陽電子対の運動量分布を測定する2光子角相関法あるいはドップラー拡がり法である。従来これらは別々に測定されてきたが,同時に測定すればより多くの情報を得ることができる。それが陽電子消滅寿命-運動量相関測定法(Age-MOmentum Correlation method,AMOC)である。この手法は30年ほど前から行われているが,同時計数率を高くする事が容易でないため,あまり進歩していなかった。 論文提出者は,実用的なAMOC実験を遂行するために,まず,2台のアナログ-ディジタル変換器(ADC)をパーソナル・コンピューターで制御する2入力型マルチ・チャネル・アナライザー(MCA)を製作した。第2章にはこれらの装置の仕様と機能が詳しく説明されている。提出者は,これを用いて,測定時間範囲と時間分解能の異なる2種類のシステムを構成し,広い範囲の時間領域に適用して,いくつかの実験を行った。一つのシステムは,線源と試料の間に置いたプラスチック・シンチレータを陽電子が抜ける時の信号から陽電子発生時間を知って,陽電子の消滅時間はGe検出器の時間出力から知る(double coincidence法)。この方法は,時間分解能があまりよくないが,高い計数率を得ることができる。論文提出者はこれを,寿命の長いオルソポジトロニウムをプローブとするシリカ微粒子表面の研究に用いた。もうひとつのシステムは,陽電子発生時間を核線によって検出し,消滅時間は試料をはさんでGe検出器の向かい側に置いたシンチレーション検出器で知るものである(triple coincidence法)。これは,計数率は低いが高い時間分解能が得られる。論文提出者はこれを,格子欠陥を含む金属中の陽電子寿命スペクトルに対する全く新しい解析法と,絶縁体中のパラポジトロニウムの寿命の直接測定に用いた。 第3章には,論文提出者が開発した,陽電子寿命スペクトルの短寿命成分をAMOCスペクトルの実験データだけから抽出する新しい手法が説明され,亜鉛中の原子空孔生成エネルギー測定への応用が記述されている。陽電子消滅を利用する格子欠陥研究の基礎となっている2状態トラッピングモデルによれば,原子空孔の生成エネルギーは陽電子寿命スペクトルの短寿命成分の温度依存性に直接反映されている。ところが従来の測定では短寿命成分だけを高い精度で取り出すことができないため,陽電子の平均寿命から生成エネルギーが求められていた。本研究では,短寿命成分を直接取り出すことに成功し,確かにその寿命値が2状態トラッピングモデルに従って変化することを初めて示した。また,この方法で用いた亜鉛の原子空孔生成エネルギーは0.56±0.08eVで,従来の値と誤差の範囲で一致した。 この方法による原子空孔生成エネルギー測定の特徴は,従来の方法と異なり,試料融点直下の高温までの測定を必要としないことである。このため,高融点金属や,温度上昇中に相転移を示す金属・合金中の原子空孔の生成エネルギーの測定への応用が期待される。 第4章では,同じ手法をパラポジトロニウムの寿命の測定に応用している。パラポジトロニウムの真空中での寿命は125psであるが,物質中では周囲の電子との相互作用で波動関数が摂動を受けることおよびピックオフ消滅のために,寿命の値が物質によって異なるはずである。しかしその正確な値が測定されたことはない。論文提出者は,アモルファスSiO2,水晶,MgF2,ポリスチレン,シリカエアロゲル,SiO2微粒子中のパラポジトロニウムの寿命の抽出を試みた。第3章で開発した方法は,厳密には陽電子の消滅する分岐が2個のみの時にのみ成立するので,絶縁体中でパラポジトロニウムの他,オルソポジトロニウムとポジトロニウムを形成しないで消滅する陽電子の成分が存在する場合には適用に限界がある可能性がある。本実験はその検証でもあった。実際,測定された物質のうち,MgF2,ポリエチレン,シリカエアロゲル,SiO2微粒子については,オルソポジトロニウムのピックオフ消滅の成分とポジトロニウムを生成しない陽電子の成分のスペクトルが異なり,この手法が使えないことが明らかになった。結局,アモルファスSiO2と水晶についての解析が行われ,それぞれパラポジトロニウムの寿命として,149.4±0.1ps,111±9psが得られた。 第4章では,赤外線吸収とAMOC測定を用いて行った,シリカエアロゲルの熱処理に伴う表面の変化の測定が報告されている。シリカエアロゲルは,SiO2微粒子が3次元のネットワークを組んだ物質である。実験には直径約5nmの微粒子のエアロゲルが用いられた。シリカエアロゲルはその製造工程によりメトキシル基(-CH3)が残留していることが知られている。空気中で熱処理すると,これがシラノール基(-OH)に置き換わる。メトキシル基は表面に存在すると考えられているが,はっきりしたことはわかっていない。 シリカエアロゲルに陽電子を入射すると,高い確率でポジトロニウムが生成し,粒子間の空隙に放出される。シリカ表面に対するポジトロニウムの仕事関数が負であるために,このポジトロニウムは微粒子内部に戻ることなく表面第1層のみと相互作用を繰り返し,やがて自己消滅または表面の電子とのピックオフ消滅をする。このオルソポジトロニウムは,パラポジトロニウムやポジトロニウムを生成しない陽電子に比べて寿命が2-3桁長いために,AMOCの手法を用いれば他から確実に区別することができる。また,ポジトロニウムを形成しないで消滅する陽電子はパラポジトロニウムより寿命が長いので,第一の型のAMOC装置を用いることにより,区別することができる。本実験では,0.7-2.2nsの時間領域のデータをバルクの電子運動量分布,50-150ns領域のピックオフ・スペクトルを表面の電子運動量分布として,熱処理の効果を調べた。両者は,通常のドップラースペクトルでは全くといってよいほど区別できず,AMOC法によって初めて区別が可能になったものである。未処理および100℃,200℃,300℃,400℃,800℃で熱処理した試料のバルクのスペクトルと表面のピックオフ・スペクトルを比較すると,300℃での処理によって表面が大きく変化したことがわかった。一方バルクの運動量分布は300℃における熱処理にほとんど依存しないことが分かった。論文提出者は赤外吸収分光も測定し,ピックオフ・スペクトルのこの変化がメトキシル基がシラノール基に変化したことに対応することを確認した。ピックオフ・スペクトルは表面第1層にのみ敏感なので,メトキシル基が主に微粒子の表面に存在していることがこれではっきりと確認されたことになる。 このように,論文提出者は,AMOC法という必ずしもその実用性が認められているとはいえなかった測定法に必要な100ps程度から数10ns程度の広い時間範囲をカバーできる装置を製作し,金属中の原子空孔の生成エネルギー測定と,微粒子表面のみを取り出して観測することができるオルソポジトロニウムのピックオフ測定という全く異なる分野に応用して,その有効性をはっきりと示すことができたものであり,その独創性は大いに評価できる。 なお,本論文は,指導教官及び永井康介氏との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって装置の製作,測定,及びデータ解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。 |