学位論文要旨



No 114004
著者(漢字) 畑,光宏
著者(英字)
著者(カナ) ハタ,ミツヒロ
標題(和) ジホスフィン-ビスボラン付加物(CH2)n(PR2・BH3)2(n=1,2;R=Me,Et,Ph)の反応性に関する研究
標題(洋)
報告番号 114004
報告番号 甲14004
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第222号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 第1章はじめに

 筆者は本研究において,ジホスフィンにモノボランが二つ付加した化合物であるジホスフィン・ビスボラン付加物(CH2)n(PR2・BH3)2(1a:n=1,R=Ph,1b:n=1,R=Me,1c:n=2,R=Ph,1d:n=2,R=Me,1e:n=1,R=Et)の反応性を調べた.1は二分子のボラン・ホスフィン付加物BH3・PR3のリン原子間をアルキル鎖で架橋した構造を有する.

 

 ボラン・ホスフィン付加物BH3・PR3は[Cr(CO)6]との光反応によって,3中心2電子結合であるM-H-B結合を有する化合物[Cr(CO)5(1-H-BH3・PR3)]を生成する.この化合物は構造的に興味深いだけでなく,BH3・PR3と等電子・等構造であるメタンのC-H結合が配位不飽和な金属に配位した系のモデルとみなせる点でも意義深い.しかし,このボラン錯体は熱的・化学的に不安定であり,室温で徐々に分解するため,M-H-B結合に関する詳細な知見を得るのは困難である.筆者は,分子内に二つのボラン・ホスフィン部分を持つ1を用いて[Cr(CO)6]との光反応を行った場合,1が二つのM-H-B結合を通してクロム原子にキレート配位した安定な化合物を与えると予想して,光反応を行った.また研究例のほとんどないこのタイプの化合物について,数種の試薬との反応を検討した.

 ジホスフィン-ビスボラン付加物1a〜eは,真空下で相当するジホスフィンと過剰のジボランとを反応させることにより,白色固体として得た.収率は1a:93%;1b:93%;1c:40%;1d:95%;1e:88%.

第2章(CH2)n(PR2・BH3)2(1a〜d)と[Cr(CO)6]の光反応

 1a〜dと[Cr(CO)6]の光反応をベンゼン-d6中,様々な条件下で行い,NMRを用いて追跡した.また光照射後の反応生成物の変化をNMRで追跡した.得られた結果をスキーム1に示す.

 メチレン鎖で架橋されたジホスフィン・ビスボラン1a,bと[Cr(CO)6]とを高真空にした封管中で光照射した場合,最初に生成する化学種は,1a,bが一つのボラン部位でクロム原子に単座配位した不安定な錯体[Cr(CO)5(1-H-BH3・PR2(CH2)2PR2・BH3)](2a,b)であることが分かった.光照射後,2a,bの大部分はCOとの逆反応により,1a,bと[Cr(CO)6]を再生する.一部の2a,bは,その金属に配位していない方のホスフィン・ボラン部分の解離平衡が存在するため,"BH3"をはずしたリン原子がCOを置換して分子内配位したキレート錯体[Cr(CO)4-(2-H,P-BH3・PR2CH2PR2)](4a,b)を生成する.フェニル基はメチル基よりも電子供与性が小さく,2aにおける末端ホスフィン・ボラン部位はBH3を解離しやすいために,4aの生成量は4bより多い.さらに4a,bの配位したボラン部位は系中のCOにより徐々に置換され,最終的にリン原子だけでクロムに配位した錯体[Cr(CO)5(1-P-PR2CH2PR2・BH3)](5a,b)を与える.

 同様の光反応をジボラン存在下で行った場合,2a,bからBH3が解離する反応は抑えられ,4a,bの生成量は減少するとともに,COとの逆反応による1a,bと[Cr(CO)6]の生成量は増加した.またボランとして1aを用いた時は,1aが二つのホスフィン・ボランのBHを通してキレートを形成した錯体[Cr(CO)4{2-H,H’-(BH3・PPh2)2CH2}](3a)が少量生成した.3aは,キレート環形成による安定化を示す生成物として,当初期待していたが,実際には室温で不安定な化学種であり,速やかに分解した.これは3aのキレート環が不安定な八員環キレートであるためと考えられる.1bを用いた実験では,二つのボラン部位を通してクロムにキレート配位した錯体は観測されなかったが,これはメチル基が立体的に小さいために系中のCOが配位したボラン部位を速やかに置換するためであろう.

スキーム1

 光照射の間,定期的に排気を行った系では,遊離のCOが存在しないために,2bが1bを再生する反応が抑えられ,4bおよび5bが比較的多く生成した.また4bの生成に伴って発生するジボランと1bとの反応により,三核のボランクラスターB3H7・PMe2CH2PMe2・BH3(7)も観測された.

 二つのボラン・ホスフィン付加物をエチレンが架橋したジホスフィン・ビスボラン付加物(CH2)2(PMe2・BH3)2(dmpe2BH3,1d)と[Cr(CO)6]の光反応においては,1a,bを用いた場合と同様に,初めに一つのボラン部位が配位した錯体[(CO)5Cr(1-H-BH3・PMe2CH2CH2PMe2・BH3)](2d)が生成するが,2dはさらに反応して,2つのクロム原子がジホスフィン・ビスボランによって架橋された複核錯体[(CO)5Cr(-BH3・PMe2(CH2)2PMe2・BH3)Cr(CO)5](6d)を生成した.また(CH2)2(PPh2・BH3)2(dppe2BH3,1c)を用いた場合にもわずかながら複核錯体[(CO)5Cr(-BH3・PPh2CH2CH2PPh2・BH3)Cr(CO)5](6c)の生成を示唆するデータを得た.

 1は二つのボラン・ホスフィン部分を有するにも関わらず,その配位子としての挙動はモノボランBH3・PR3’に準じており,キレートの形成は,少量の3cの生成に見られるのみであった.

第3章複核錯体[{(OC)4Cr}2(4-H,H’,H’’,H’’’-BH2BH2PMe2CH2PMe2)](8)の合成と生成機構

 第2章で論じたジホスフィン.ビスボラン付加物と[Cr(CO)6]の光反応の生成物を単離する目的で,1bと[Cr(CO)6]との光反応を合成スケールで行ったところ,オレンジ色の針状結晶を得た.X線構造解析の結果,この化合物は複核錯体8であることが分かった.8の分子構造を図に示す.この錯体はB-B結合を持つ環状のジボラン配位子,BH2BH2PMe2CH2PMe2(A)を含んでおり,Aは四つのCr-H-B結合を通して二つのクロム原子にキレート配位している.Aは四座配位子として機能する初めての中性ボランである.全体として8はクロム原子二個とホウ素原子二個からなるバタフライ骨格を有する.この点に着目すると,8はB4H10を親ボランとするメタラボランクラスターとみなされる.実際B4H10と8の骨格電子対数はともに7であり,いずれもアラクノクラスに属するボランクラスターである.

図[{(OC)4Cr}2(4-H,H’,H’’,H’’’-B2H4・PMe2CH2PMe2)](8)の分子構造

 

 8の生成機構には,1bと[Cr(CO)6]の光反応において観測されるトリボラン7が関与していると思われる.すなわち7が末端の"BH3"を解離して,リン原子が分子内で求核攻撃を行うためにAが生成し,これがクロムカルボニル化学種と反応して8を生成する機構が考えられる.

 

 そこで7の生成を詳細に観測するために,NMR管内で光反応により2bを発生させ,これとジボランとの反応を行った.その結果,意外なことに7に加えてジボランがクロム原子に二座配位した新規な錯体9の生成が観測された.

 

 9は2bが分解して生じる配位不飽和なクロムカルボニル化学種にジボランが配位することで生成すると考えられる.B2H6と等電子化合物であるエチレンが結合で金属に配位するのに対して,B2H6は二つの末端水素原子でキレート配位する点は注目すべきである.9はジボランが金属に配位することによって活性化された,酸性の強い架橋水素を有している.そのため,ヒドリド性の強い1bのBHと反応して7を生成する.この反応は金属により媒介されるボランクラスター拡大反応であり,興味深い.

 

第4章環状ジボランBH2BH2PR2CH2PR2の別途合成の試みとその共役酸[CH2(PR2・BH2)2(-H)]+の生成

 第3章で得られた複核錯体8において四座配位子として機能している環状のボラン化合物BH2BH2PR2CH2PR2(A)を遊離の化合物として合成・単離できれば,この化合物は多座配位子として様々な金属錯体と反応して,種々のボラン錯体を与える可能性がある.そこでジホスフィン・ビスハロボラン付加物(CH2)(PR2・BH2X)2を数種の還元剤(Na-K,NaC10H8,Li2S等)で処理して,分子内B-BカップリングによるAの別途合成を試みた.その結果Aと考えられる化合物の生成をNMRにより確認したが,Aは熱的に不安定であり,単離はできなかった.

 一方,CH2(PR2・BH3)2(1b:R=Me;1e:R=Et)から[CPh3][BF4]によりヒドリドイオンを引き抜くことで六員環の陽イオン性ボラン[CH2(PR2・BH2)2(-H)][BF4](10a・BF4:R=Me;10b・BF4:R=Et)が生成することをNMRを用いて観測した.

 10は錯体8において四座配位子として機能している環状ジボランBH2BH2・PMe2CH2PMe2(A)の共役酸と考えられる.Aが安定な化合物として合成・単離を行なえなかったのに対して,その共役酸である10が比較的安定である理由はAの五員環構造による歪みが,10においてはプロトンの付加により六員環となることで解消されたためであると考えられる.

 

第5章おわりに

 本研究では,ジホスフィン・ビスボラン付加物(CH2)n(PR2・BH3)2(1a:n=1,R=Ph,1b:n=1,R=Me,1c:n=2,R=Ph,1d:n=2,R=Me,1e:n=1,R=Et)の反応性を検討し,M-H-B結合を有する金属錯体を含む,幾つかの新規化合物を得た.またこの研究の途上,ジボランが金属に配位することによって活性化するという重要な知見を得た.

 本研究の一部は既に公開済みである.

 Synthesis and Structure of a Dichromatetraborane Derivative[{(OC)4Cr}2(4-H,H’,H’’,H’’’-BH2BH2-PMe2CH2PMe2)],M.Hata,Y.Kawano,and M.Shimoi,Inorg.Chem.,37,4482-4483(1998).

審査要旨

 本論文は5章から成立する.第1章は序論で導入説明,第2章はボラン・ホスフィン部分を二つ持つ化合物(ジホスフィン-ビスボラン付加物)と[Cr(CO)6]の光化学反応および反応生成物についてNMRを用いた研究結果を示し,第3章では環状ジボラン配位子を含むクロム複核錯体の合成および環状ジボラン配位子の独立合成の試みが述べられている.また第4章ではトリチル陽イオンを用いたジホスフィン-ビスボラン付加物のヒドリド引き抜き反応のNMRによる研究,さらに第5章で結論がのべられ,本研究の位置づけがなされている.

 ボランルイス塩基付加物は飽和炭化水素と等電子的であり,その活性化はアルカンの活性化のモデルともみなすことができる.これまでに金属カルボニルの光反応を用いてホスフィンボラン付加物のシグマ配位が報告されているが,さらに安定な化合物を作ることはボランの金属との結合を解明する上で重要であると考え,畑氏はキレート効果を利用したホスフィンボラン付加物の錯体の合成を企画した.置換基を変えたジホスフィン-ビスボラン付加物を5種類合成し,ヘキサカルボニルクロムとの光反応を試みたところ,実際には意図した化合物はビスジフェニルホスフィノメタンビスボランの系でジボランを共存することにより目的とする化合物が生成することを確かめたが単離できなかった.しかし,研究した系で種々の化合物が生成することをNMRにより確かめ,研究した系ではジホスフィンビスボランはキレート試薬としてよりは単座配位子として働くことが示された.8員環,9員環キレートを目指していたことになり,結果的にはこのようなキレート環が安定でないというこれまでの常識を確かめたに過ぎないという見方もあり得るが,M-H-B結合やB-P結合を含むキレート環に関する知見はこれまでになく,新しい知見である.またこの系でB-P結合の切断が起こることはボラン-ルイス塩基付加物の配位化学としては新しい知見でありキレート環を形成することによる新規の反応形態を見出したことになる.またジホスフィン間のメチレン鎖の長さの違いやホスフィンについた有機基の電子的,立体的効果により生成物が異なり,その要因について考察を加えている(第2章).

 合成スケールでの実験ではNMRスケールでは検出されていないジクロマテトラボラン誘導体が得られ,その結晶解析からビスジメチルホスフィノメタンビスボランの環化脱水素反応による環状ジボランが生成し,二つのCr(CO)4にキレート配位している化合物であることを明らかにすると同時に,この化合物のメタラボランとしての位置づけについて検討している.さらに,この化合物の生成機構には完全に解明されたわけではないが,B-P結合切断によりジホスフィンビスボランから脱離したジボラン(6)が重要な役割を果たしていることを示唆する実験事実を見出した.ジボランがこれまでに全く知られていない配位様式でテトラカルボニルクロムにキレート配位した中間体[Cr(CO)4(B2H6)]の生成を示し,これがホスフィンボランとの間で反応をするというものである.ジボランの架橋水素は他のクラスターボランの架橋水素と異なり酸性を持たないとされているが,これらの反応はクロムに配位することにより酸性が高まることを示しており,合成化学的な応用も大いに期待できる反応であることが高く評価できる.また,環状ジボランを別途合成する試みは成功していないが,合成単離の試みのなかで環状ジボランが熱的に不安定であることを明らかにして,ジクロマテトラボラン誘導体は不安定な環状ジボランを配位子として安定化していることを示した(第3章).

 ジホスフィンビスボラン付加物をトリチル陽イオンを用いてヒドリド引き抜き反応をすることにより環状の[(CH2)(PR2・BH2)2(-H)]+イオンの生成を明らかにした.この陽イオンは前の章で明らかになった環状ジボランの共役酸であり,環状ジボランが5員環であるのに対して6員環であることが安定化の要因であることを示した(第4章).

 以上,畑氏の論文の内容はボラン化学に新しい知見をもたらし,その発展に大きな寄与をするものと判定された.

 よって本論分は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる.

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