学位論文要旨



No 114007
著者(漢字) 佐山,弘樹
著者(英字)
著者(カナ) サヤマ,ヒロキ
標題(和) 決定性単純セルラオートマタ空間を用いた進化系の構築
標題(洋) CONSTRUCTING EVOLUTIONARY SYSTEMS ON A SIMPLE DETERMINISTIC CELLULAR AUTOMATA SPACE
報告番号 114007
報告番号 甲14007
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3496号
研究科 理学系研究科
専攻 情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,利久
 東京大学 教授 萩谷,昌己
 東京大学 助教授 今井,浩
 東京大学 助教授 阿久津,達也
 東京大学 教授 合原,一幸
内容要旨

 本研究では,Langtonの自己増殖ループモデルに幾つかの改良を加えて,9状態5近傍の決定性単純セルラオートマタ空間上に進化系を構築することに初めて成功した.

 セルラオートマタ(CA)は1950年代にvon Neumannらによって考案された離散力学系モデルで,D次元格子状の離散的な空間ZD内の格子点上に均一に並べられた同一の機能を持つオートマトンの集合について,時刻tにおける座標z∈ZD上のオートマトンの状態をst(z)∈(は状態集合)としたとき,その時間発展が一律に

 

 の形で表されるようなモデルを指す.ここで,:nは状態遷移規則を,N=(z0,z1,…,zn-1)(zi∈ZD)は近傍系をそれぞれ表す.CAは極めて複雑な時間空間的発展を示す系を記述可能であるにも関わらず,(1)空間・時間・状態の全てが離散的であること,(2)状態遷移規則が空間に対して一様に適用できること,(3)状態遷移規則が単純な参照テーブルで実現できること,などの特徴により,その実装と解析が一般に容易なので,流体力学から人工生命まで様々な分野においてモデル化の手法として用いられている.中でもCAを用いて理論的な生命体の自己増殖をモデル化する試みについては,von Neumannの自己増殖オートマトンをはじめこれまでに多くのモデルが精力的に研究されてきた.しかし,変異と自然選択とから成る生命体の自然な進化過程をCA空間上に実現することは,従来達成されていなかった.

 そこで本研究では,Langtonの自己増殖ループモデルを題材として,決定性単純CA上に進化系を構築することを試みた.Langtonの自己増殖ループは8状態5近傍のCAの上に構築されており,その初期形状及び自己増殖の仕方は図1の通りである.アルファベットのQのような形をした管の中に幾つかの信号が配置され,それらは管の中を反時計回りに循環している.外へ突き出された腕の根元のT字路の部分に信号が到達すると信号の転写が生じ,一方の信号は再びループの中に向かい,もう一方は腕の先端の方へと流れる.腕の先端に信号が到達すると遺伝型から表現型への翻訳,即ち腕の伸長や左折が生じる.腕が3回左折してその先端が自らの根元に接すると,それらが結合して新しい子個体が生じ,親個体と子個体の間の結合が消滅して自己増殖が完了する.

図1:Langtonの自己増殖ループの増殖の様子.

 本研究では,Langtonのループに対し,(1)CAの状態集合に新たに解消状態を導入して一種の死を実現する,(2)状態遷移規則を全面的に改訂し,自己増殖メカニズムの融通性(CA空間内の構造体が正常に動作する状況の多様さの程度)を高める,(3)ループの初期形状に若干の変更を加えて自己増殖能力の向上を図る,という3段階の改良を加えた.その結果,有限かつ不規則な環境の下でも自己増殖挙動を継続して行なうことのできる新しい自己増殖ループモデルが得られた.本研究ではこのモデルを"evoloop"と名付けた.その自己増殖の様子を図2に示す.その初期形状及び自己増殖の仕方については,Langtonのモデルを基本的に踏襲している.

図2:本研究で考案したループ(evoloop)の自己増殖の様子.

 このevoloopを用いて幾つかの異なる条件の下でシミュレーションを実施したところ,ほとんど全ての場合において自発的な進化過程がCA空間内に創発するという,従来にない結果が得られた.そこでは表現型同士の直接の相互作用によってループが変異し,より適応度の高い個体が自然選択され,個体群全体が徐々に最適な種へと進化していった.その一例を図3に示す.有限の大きさを持つCA空間内に,初期状態として1体のevoloopを配置して実験を開始すると,空間内に広がったループ同士の間で衝突が頻繁に発生し,その結果多様な変異体が生成される.この中から,より速い自己増殖能力をもった小さな種が出現すると,それらは自然選択の結果優位となり,旧来の種を駆逐してゆく.最終的に空間は,この世界における最適種(=最小種)によって満たされる.

図3:Evoloopの自発的進化の例.

 この結果は,生物学的な立場から見ると,表現型同士の直接の相互作用による変異が遺伝型の変異をもたらすという一種のラマルク的進化を呈示している.これは,複雑度の低い原始的な生命の段階では,遺伝型のランダムな変異だけでなく他個体を含めた環境との相互作用がその進化を推進する上で重要な役割を果たしていたという可能性を示唆するものである.

 本研究の最も重要な貢献は,生命体の可死性,それらの相互作用,及び変異に対するロバスト性をモデルに導入することにより,CA空間のような単純な数学的媒体の上でも進化系を構築することが可能であることを示した点にある.これは,従来の進化系でシミュレータ側が明示的に行なっていた処理(各個体の適応度の評価や遺伝型に対する確率的な突然変異の導入など)を,局所的な計算のみで動作するCAの状態遷移規則に埋め込むことにより,極めて大規模な進化系を細粒度超並列計算機環境上に実現することが将来的に可能であることを示唆している.

審査要旨

 本論文は8章からなる。第1章では研究の背景と動機および論文の構成が述べられている。ここでは、複雑な生命現象を理解するための一つのアプローチとして、生命系を計算機上に人工的に合成する問題が取り上げられている。このような研究は一般に「人工生命」と呼ばれているが、本研究ではそれらの研究の中でもとくに、大規模な進化系を人工的に構築する問題を取り上げ、それが果たして可能かどうかという挑戦的な問いに一つの答えを出そうとしている。結論としては、セルラオートマタと呼ばれる複雑な非線形現象を表現する能力を備えた離散的決定性力学系の空間上に進化系を実現することに成功しており、上の問いに肯定的な回答を与えている。第2章ではこれまでのセルラオートマタ研究を概観することにより、人工生命研究、計算物理学、情報科学などの、セルラオートマタ研究と関連する研究諸分野との間の関係を明らかにしている。また、セルラオートマタとは何かを示すために、その形式的な定義といくつかの応用例を与えている。第3章ではセルラオートマタを用いた従来の人工生命研究が述べられている。まず、何をもって人工生命と呼ぶのか、その概念が整理されて述べられた後、これまでに考案された人工生命のモデルとその特徴が紹介されている。第4章には、これまでの定義や議論を踏まえて、本研究の目的が改めて具体的に提示され、また、これを実現するために本研究で採られた戦略について述べられている。進化系を構築する上で、変異と自然選択の二つの事象が不可欠であること、しかしながら、これらはこれまでのセルラオートマタのモデルには欠けていたことが述べられた後、自然選択を実現するには単に機能が破綻するだけでなく物理的な構造自体が空間から消滅することが必要であることが述べられている。これを本論文では、「構造解消としての死」と呼び、従来からセルラオートマタ上に実現されていた「機能破綻としての死」と区別している。第5章と第6章には本研究の成果が述べられている。まず、第5章では、既に「機能破綻としての死」が組み込まれている有名なラングトンの自己増殖ループに「構造解消としての死」を導入する手法を提案している。これは従来の状態集合に解消状態と呼ぶ新たな状態を導入するとともに、それに対応して状態遷移規則も変更することによって構造解消としての死を実現するものである。このようにして構築した構造解消可能型自己増殖ループを計算機シミュレーションにより観測してみたところ自然選択に相当する現象が観測されたことが報告されている。第6章では前述の構造解消可能型自己増殖ループにさらに変異を導入する方法を提案している。変異は自然選択と並んで進化系の構築には欠かせないものである。本研究では従来のような確率的な操作によって変異の導入を図る方法はとらずに、状態遷移規則をさらに書き換えてそれに対処するという決定論的な手法を採用している。この書き換えにより自己増殖メカニズムの融通性が高まり変異に相当する現象を実現できる。この効果は計算機シミュレーションにより確かめられており、自発的な進化過程がセルラオートマタ空間内に創発することが観測された。そこでは表現型同士の直接相互作用によってループが変異し、より適応度の高い個体が自然選択され、個体群全体が徐々に最適な種へと進化していった状況が観測されている。第7章では本研究で提案された構造解消可能型自己増殖ループの意義が議論されている。本研究がセルラオートマタを用いた人工生命研究や人工進化系の研究において、どのような位置づけにあるのか、また、どのような貢献をしたのかが述べられている。第8章は最終章であり、本研究のまとめと今後の課題とが述べられている。

 本論文に述べられた研究成果は、情報科学とくに人工生命研究の進展に大きく寄与するものである。本研究は、ラングトンの自己増殖ループを利用してそれに「構造解消としての死」を導入することにより、単純なセルラオートマタ空間上に進化系を構築することに初めて成功したものである。これまで、セルラオートマタを用いた、生物の自己増殖のメカニズムの研究は数多く行われてきたが、進化系を実現することは出来ていなかった。本研究の成果をもって、現実の生物の進化に関する知見が直ちに得られるというものではないが、本研究の貢献は、セルラオートマタ空間のような単純な数学的媒体を用いて進化系を構築することが可能であることを示した点にある。これは、生存個体の明示的な管理や遺伝型の確率的変異に用いる乱数の生成を伴わない簡単なアルゴリズムを用いて、細粒度超並列計算機上に大規模な進化系を実現することが可能であることを示唆している。このことは人工生命研究にとって大きな貢献である。

 したがって、博士(理学)を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク