<導入> 我々の身の回りで起こる化学反応は、気相中・液相中で起こるものが多いが、工業的な側面から見れば「触媒」などの絡みで固液界面での反応(これには溶液中のミクロな粒子も含む)も大きな体系を形作っている。現在までに、半導体表面には再構成構造やステップ・種々の欠陥などの要素があって、それらが分子の吸着や反応の特性に大きな影響を与えていることが明らかになってきた。また、水分子は互いに水素結合で結び付き合って液体の「水」を構成しているが、そこでの水和した化学種同士の反応に関する知見も、実験と理論の両面で進展が見られるようになった。 しかし水素結合網を持つ分子集団が表面という環境に置かれた場合に、個々の液体分子が「表面構造との吸着力」と「液体分子間の水素結合力」の間でどのような振る舞うのかについては、未知の部分があまりにも多い。そこでは、単に吸着力と水素結合力の大きさの関係だけでなく、強い方向性に起因する幾何学的なつながりが本質的であることが問題を難しくしているからである。そこで、表面加工や表面触媒作用の絡みで多くの実験がなされている系を対象に、「単分子->クラスタ→1層吸着→2層吸着→実際の界面」と水素結合を発展させながら取り扱うことで、現実的な界面における表面構造や水分子のダイナミクス、反応機構を明らかにするという手続きを踏むことにした。 Si(001)という特定の表面を取り扱うが、この論文の目的は、水クラスタのような部分的な水素結合をもつ系が固体表面と相互作用した場合の振るまいを一般性を持って提案することにある。 <水/シリコン系の実験の概略> この論文では「固体表面における水素結合系の振るまい」を調べるために、1次元的な水素結合を持つ水のクラスタと、Si(001)表面との相互作用に焦点を当てる。周知のとおりSi(001)表面は半導体デバイスの処理過程で取り扱われる表面であり、エピタキシャル成長、エッチング、酸化、水素終端化、金属蒸着など多くの種類の処理が実用的に必要とされ、また、理論・実験の学問的側面からも研究されてきた。これらはドライプロセスとウェットプロセスに分類されるが、最近は制御の容易さもあってドライプロセスが好まれている。水はフッ化水素酸の溶媒や洗浄剤として大量に用いられると同時に、少量存在して系の汚染物質として働くという側面も持つ。このSi(001)表面における水分子の振る舞いは、その「表面の状態」「水分子の量」「温度などの物理的条件」「他の化学種の存在」応じて多種多様な吸着特性や反応性をもたらすことを示唆し、「良く分からないが無視できないもの」として水は重要な存在になっている。 図1は、Si(001)表面の代表的な状態とその相互の往き来をあらわしている。真空中の少量の水の存在下での観察は多く報告されており、ここでは水分子の解離吸着が共通の認識となっている。このとき、表面のSiダングリングボンドは水分子の断片である-Hや-OHといった修飾基で覆われてゆき、およそ0.5MLの被覆率で飽和に達する。その状態から熱を加えると表面に酸化膜が生じ、さらに多量の水を作用させると水素終端面に変化するという。この中の影を付けた部分がこの論文で取り扱う範囲を示す。 図1 水の吸着量が0.03ML〜0.5ML程度のこの系についてのSTMや光電子分光などからの比較的新しい報告をまとめると、次のようになる。 ○ Si(001)清浄表面でのsticking coefficientは、水分子による飽和被覆率の95%に達するまで、ほぼ1である。 ○ 80Kから100Kという低温でも、水分子の解離吸着は観察される。 ○ 被覆率が0.1ML程度になるまで、水は分子状に吸着して解離しない。 ○ 被覆率が0.03MLでも、水の解離吸着のスペクトルが有意に検出される。 ○ 水分子は解離して-OHと-Hになり、シリコン表面の隣り合うダングリングボンドを終端する。 ○ -OHや-Hで終端された領域は、2次元の島状に成長してゆく。 ○ 実際には0.41ML〜0.48MLで飽和してしまい、未反応の孤立ダングリングボンドが点在して取り残される。 ○ Si(001)面における-OHなどの移動速度は小さい。 ○ 400K程度より低い温度領域では、Langmuir型のダイナミクスでは記述できない。 ○ Kisliukモデルを適用した解析では、2系統の解離チャンネルの存在が予測される。 これに対してこの系の計算物理学的な取扱いは殆どなされておらず、Si(001)面における-OH基の移動に関するポテンシャル障壁の見積りや、同清浄表面のクラスタモデルに基づく単分子の水の解離吸着過程のab initio計算が報告されている程度である。この論文は、Si(001)表面と複数の水分子の相互作用を系統的に調べた最初の報告になるであろう。この中で図2に表すような複数分子過程としての「プロトンリレー型の解離吸着」が存在し、これらの実験事実を説明する上で重要な役割を果たしているであろうことを明らかにする。 図2<計算法> 「第一原理」に基づく計算法を適用する。すなわち、密度汎関数法において密度勾配補正を取り込んだPerdewのGGA-IIを用い、平面波基底と擬ポテンシャル法を組み合わせてKohn-Sham方程式を数値的に解くのである。平面波のカットオフエネルギーとしては25.0Ryあるいは36.0Ryを用い、擬ポテンシャルとしてはSi原子に対してはTroullier-Martins型のものを、O原子とH原子にに対してはVanderbiltのultrasoft型のものを採用した。サンプルk点の数は4つもしくは1つとした。Si表面はSiを5層用いて裏面を擬原子で終端したスラブモデルで記述し、super cell法によって周期的境界条件を適用している。また、断熱近似の枠組みの中での計算となっている。 <分子状吸着> 始めに水分子が解離吸着しない範囲での吸着エネルギーの強弱や吸着構造を眺める。ここではSi(001)(2×2)水素終端面および清浄表面においてモノマーからヘキサマーまでのサイズの水分子を吸着させ、「水素結合力」と「吸着力」のせめぎ合いを明らかにして解離吸着の解析に備えることを目的とする。 ・水素終端面 吸着エネルギーの大きなサイトが存在しないため、表面における相互作用は水分子同士の水素結合が支配的になり、ミクロに疎水的な振るまいが観察される。表面との相互作用は化学結合的でなく、静電的な効果が主体となる。 .清浄表面 清浄表面には「強い吸着サイト」と「弱い吸着サイト」が存在する。水分子が「弱い吸着サイト」とのみ相互作用する場合、その吸着の性質は水素終端面におけるものと本質的に同じものになる。一方で水分子を強く吸着するサイトはsilicon dimerのdown-siteの周囲に相当し、そこでは単分子の水(A)を0.5-0.7[eV]程度の吸着エネルギーで吸着する。さらにもう1分子の水(B)をこれに水素結合させる形で配置したものの例が図3であるが、このときの吸着エネルギーは0.68[eV]から1.44[eV]へと大幅な増加を示した。水(B)の位置がSi表面から離れているにもかかわらず、標準的な水素結合エネルギー0.26[eV]を大幅に上回る吸着エネルギーの増大を示すという事実は、水分子間の協調的な働きの存在を示唆する。 この構造を詳しく見ると、水(A)と水(B)の酸素-酸素間距離は孤立ダイマー時に比べて10%程度短くなると同時に、水素結合中の水素が水(B)の方向に少しシフトしているのだが、この傾向は水ダイマーの吸着の高さに強く依存していることが明らかになった。 図3<解離吸着> そこで水素結合中の水素を酸素-酸素間で移動させながら、いくつかの吸着高さについて1次元のポテンシャル曲線を描いたものが図4である。他の原子の位置を全て固定して計算したものが実線と破線であり、水ダイマーを表面の安定な吸着高さまで下げるにつれて、ポテンシャル形状が平底型に変化する様子が分かる。次に水ダイマーに属する残り3つの水素原子の自由度を解放して同様の計算を行なってみる。これがドットで描かれた曲線(relaxed)であるが、安定吸着高さに対応するものに新しい極小が生じている。対応する構造を図5に示す。これは図3を別の方向から見たもので、左がダイマー吸着状態に対応し、右が新たに生じた極小に対応する。水素(A)を相手の水の酸素原子に近付けると、水素(B)が自発的に下地のシリコン原子(これはup-siteに対応する)に移動し、「プロトン・リレー型」の解離吸着を達成してたのである。解離吸着終了後に残った水分子はもはや水素結合1本分程度の束縛しか受けていないために、速やかに他の吸着サイトへ移動することが可能となっているため、これは「自己触媒型」の反応であると言っても良い。図4から見積もられたエネルギー障壁はわずかに0.14[eV]であり、正確な遷移状態を経た計算をすればこの値はさらに小さくなるものと期待される。水の単分子による解離吸着では、少なくとも0.28[eV]程度のエネルギー障壁の存在が見積もられ、水ダイマーとしての解離吸着はエネルギー的に見てモノマーよりも有利であると言えよう。 図4図5 一方、ダイマーとしての解離吸着のパスは水素結合軸のまわりの回転の自由度のために選択肢が広く、その多くに対して小さなエネルギー障壁しか持たない。つまりSiダイマー上での解離吸着とSiダイマー間にまたがる解離吸着は同様に容易である。例えば(図1)の水ダイマーを左に90度回転させた場合ではその値は0.10[eV]以下になる。これらの事柄は、単分子としての解離吸着に比べて反応の間口についてもダイマーの方が有利な立場にあることを示唆している。 <分子軌道論的な解釈> 例えば、フロンティア軌道理論では化学反応を大きく支配する軌道としてHOMOとLUMOに着目する。これは分子AのHOMOと分子BのLUMO、分子AのLUMOと分子BのHOMOの間で「位相が一致」し、「空間的重なり」が大きく、「軌道エネルギー」の差が小さい時に、分子Aと分子Bの化学反応が成立しやすくなるというものである。 まず、Si(001)清浄表面においてはシリコン非対称ダイマーのdown-siteにLUMOの振幅があり、up-siteにHOMOの振幅がある。一方、水分子においては酸素原子の側にHOMOの張り出しが、水素原子の側にLUMOの張り出しがある。ここで水のモノマーとダイマーを比べると、両者においてHOMO,LUMOの位相や形状は同じだが、出現場所が異なることが分かる(図6)。ダイマーではHOMOとLUMOが異なる分子上に現れるのである。これはモノマーとダイマーが同等の反応機構を示しながら、ダイマーの方がより遠距離にわたる反応を可能にしていることを示唆している。ここで上記の3要を思い出すと、「位相」に関してはモノマーもダイマーも同じ条件にある。しかし「空間的重なり」に関しては、モノマーではHOMOとLUMOの広がりの方向が直交しているために、下地のHOMO,LUMOとの重なりを同時に最大にはできない。それゆえ、水素結合軸まわりの自由度の故にHOMOとLUMOのねじれの角度を自由に調整できるダイマーの方がこの点では有利になる。また「軌道エネルギー」に関しても、ダイマーではHOMO-LUMOのギャップがモノマーに比べて狭くなっているため有利である。このように吸着や解離を電子状態の方面から眺める場合、分子軌道論の導入が解釈のよい指針をあたえる。 図6<部分修飾面での吸着と解離> 清浄表面での水分子の解離吸着が進むと、表面が-OHや-Hで修飾されてくる、この修飾基の存在も水分子の吸着・解離の性質に影響を与えているだろう。実際に-OHや-Hによる修飾部位が2次元島状に成長する事からも、エッジの部位で解離吸着が活性化されていると予想される。そこで狭いながらも(2×2)表面において修飾基の存在の効果を調べてみると、依然ダイマーとしての吸着・解離がモノマーよりも有利な状況にあり、修飾基の配置によってはダイマーとしてゼロエネルギー障壁で解離吸着が起こることも分かった。 <まとめ> Si(001)表面において、水分子の吸着・解離の性質を第一原理計算法を用いて調べた結果、複数分子の水が水素結合を介した協調的な振る舞いを見せ、吸着エネルギーの著しい増大や解離吸着のエネルギー障壁の低減を実現していることを見い出した。これらは「プロトンリレー型」の複数分子過程としてモデル化でき、単分子過程では説明の困難な実験事実も自然に理解することを可能にする。また、フロンティア軌道理論のような分子軌道法的な考え方を適用することで、解離吸着が実現するための水クラスタや下地表面において要求される電子状態が明らかになった。これは、他の系における同種の反応を理解するための指針となるだろう。 |