物理量の揺らぎを捉える、というような目的に対して、行列を確率事象として扱うような理論が極めて有効であることが、近年、様々な形で確認されてきた。例えば、擬一次元電子系での転送行列のWiener過程としての取り扱いはメゾスコピック系における普遍的なコンダクタンスの揺らぎを厳密に説明する。このような手法はランダム行列の自然な拡張であり、乱れた系に対してランダム行列理論は極めて有効な手法を提供する可能性を持っている。しかし、種々の対称性を有するモデルに対して適用出来る統一的な方法論が整備されているとはいえない。 本論文の背景にある長期的な目標は、動的ランダム行列(或は時間依存ランダム行列)という視点を通じてメゾスコピック系、量子ゲージ理論、複雑系、カオス等の多様な分野を横断的に論ずることの出来る新しい概念、方法を開発することである。複雑系やカオスと呼ばれるような対象に対しての動的ランダム行列の適用は、おおまかに言って、厳密に解けるモデルに相当するようなクラスの現象、或いは性質を抽出することを意味する。別の言い方をすれば、動的なランダム行列を導入することは、力学的視点から離れる、ということであり、対象の持つ複雑性や、古典的な決定不可能性等を導き出す力学的視点から自由になることによって様々な信頼すべき知見を獲得することを目論むのである。 本論文ではこのような問題意識を持ちつつ、群上の確率過程として動的ランダム行列の諸モデルを定式化する。さらにリーマン対称空間や量子可積分系等との関係性に特に注意を払って、理論を拡張、整備していく。同時に様々な物理学の分野との関係を追求することを通じて理論の深化を図る。 対称空間論は、問題を分類し、どのようなランダム行列理論が可能であるかというような問題に対し、指針を与え、見通しの良い理論展開に貢献する。我々はLangevin方程式を拡張し、そこから出発してランダム行列と対称空間論との関係を探求する、という方法をとっている。これは我々が独自に始めた手法である。また、可積分系における代数的方法は様々な局面で、ランダム行列理論が元々持つ幾何学的視点より強力であるため、このような理論の発展はランダム行列理論に多くの新たな進展をもたらすと同時に、多くの場合それに従うような系は現実に存在しない量子可積分系の理論体系に、物理学的、応用数学的見地からの意義付けを与えるものとなる可能性がある。 次に本論文の具体的な内容の説明に移る。 ○ まず、第2章において、GL(N,C)/U(N)とU(N)というふたつの群を例にとり、ブラウン運動過程の群上への拡張を議論する。これを通じて、本論文において基本的な役割を果たす時間依存ランダム行列の手法を確立する。これらの群は行列要素によって座標付けされ、さらに自然に計量を導入することが出来る。そこで、座標としての行列要素に対して非可換な群上であることを考慮して変形されたLangevin(-like)方程式を導入する。極大可換部分群への射影によって、非自明な確率分布が自然な形で求まる、というのがランダム行列理論の要点であるので、Langevin方程式の極大可換部分群への射影を具体的に計算する。これは出発点の行列要素に対するLangevin方程式を「等方的」なものと仮定した場合厳密に遂行することが出来る。その結果を使ってFokker-Planck方程式のレベルでの極大可換部分群への射影を求める。我々の定式化ではIto calculusの導入による余分なドリフト項が付け加わる。この項は従来無視されてきた。結果的には、このFokker-Planck方程式は、1/r2型相互作用を持つ(或は相互作用を持たない)量子可積分系の虚時間シュレディンガー方程式に帰着する。我々は、この対応を使い、モデルの持つ対称性にそった形で乱れの大きさを指定する変数を入れたランダム行列理論(時間依存ランダム行列)を構築する。負の曲率をもつ群上での拡散からは(xi-xj)sinh(xi-xj)型の反発項を持つ確率密度分布が導出され、正曲率の場合は(xi-xj)sin(xi-xj)型の反発項によって特徴付けられるような確率密度分布が導かれる。我々はさらに、これらのふたつのケースと、その零曲率極限とを包括的に扱い、比較することにより、曲率によって物理量の揺らぎ等がどう異なるのかを詳細に検討し、明らかにする。 ○ 第3章では、我々は上記のようにして構成されたGL(N,C)/U(N)上の時間依存ランダム行列モデルに対して適用できるように直交多項式の方法を拡張し、それにより任意のn点についての厳密な相関関数を求める。ところで、このような(xi-xj)sinh(xi-xj)型の反発項を持つランダム行列では近似によらないN→∞極限の評価が困難である。そこで、本論文で述べるように我々の理論の副産物としてあらわれるItzykson-Zuber積分公式を利用することによってN→∞極限における1点関数を厳密に評価する。 ○ 普遍的なコンダクタンスの揺らぎ(UCF)の摂動論的結果を正確に再現するDMPK理論を特別の場合として含むモデルとして、AIII型のリーマン対称空間でのブラウン運動を詳細に研究する。我々は、乱れの大きい場合と小さい場合の両極限でのランダム行列モデルを導出しUCFがより緩やかな条件の下で成立していることを示す。さらに厳密な確率密度関数についてn点相関関数を直交多項式の方法によって求める。これらの結果はUCFへのDMPK的アプローチのもっとも一般的な数学的理論を与える。また、零曲率極限をとることによってM×N複素行列に対するItzykson-Zuber型積分公式を導出できることを示す。ジャクソンらは、M-N=とした場合のこの積分公式が量子色力学のGoldstoneボゾンを記述する有効作用の位相的な荷電のセクターに関する分配関数を厳密に与えるという仮説をたてた。(A.Jackson,M.Sener,and J.Verbaarschot.Phys.Lett.B,387,355(1996))この仮説に対して、オリジナルのItzykson-Zuber積分およびシューア関数の特性に着目することにより証明を与える。この関係は分配関数の厳密な積分を可能にするものであり、その非自明性と簡潔性は背後の未知なる構造の存在を強く示唆する。我々の証明はその解明に向けての前進をもたらす。これらは本論文において、第4章から第6章にかけて詳述される。 ○ 本論文において扱ってきたような時間依存ランダム行列理論はRiemann対称空間における調和解析と密接な関係を持つが、それぞれの有効範囲は当然のことながら異なっている。第7章においては、基本的な非エルミート・ランダム行列であるラゲールアンサンブルの変形として、行列要素が白色雑音と外力の下で運動するモデルを構成する。これはランダム行列理論と対称空間論の有効範囲の違いを示す一例である。本論文では、この運動を動径成分へ射影したものとB型の1/r2相互作用と調和ポテンシャルを持つ量子系との等価性をブラウン運動の理論を援用して示す。この対応は従来の対称空間論からは導出し難い種類のものである。この対応を利用して、ラゲール型のランダム行列と任意の固定された行列との和からなるランダム行列の確率密度関数の動径成分への射影を求める。 ○ 第8章では分数量子ホール系の端状態にランダム散乱を加えたモデルを考える。この散乱をフェルミ粒子の局所的なU(N)回転によって吸収することにより、固有値を固定したランダム行列が理論に現れる。ケインとフィッシャーはくりこみ群的視点から、この散乱によってmarginalな摂動が非有効になると主張した。(Phys.Rev.B,51,13449(1995))本論文ではこのランダム行列の平均値を厳密に求め、彼らの議論で行われた近似が不適切であることと摂動が非有効にならないことを示す。 以上が本論文の概要である。本論文において明らかにされることのひとつとして、動的(=時間依存)ランダム行列の理論は物理系等に対する直接の方法となるだけでなく、例えば、Itzykson-Zuber型積分公式等の極めて有用な方法を生成する装置でもある、ということがある。そのことを反映して、動的ランダム行列の量子細線への応用とQCDへの応用とでは、その適用法は全く異なっている。本論文のタイトルにあるランダム行列理論の応用という言葉はこのような様々な側面を持つ理論のいくつかの異なるレベルでの応用の総称である。我々は、このような様々な対象に対する多様な形での応用を通じて、また理論自体を対称空間論や量子可積分系の理論を援用して詳細に検討し、拡張していくことによって、動的ランダム行列の理論を構築し、新しい知見を獲得してきた。本論文は著者によるそれらの研究成果をまとめたものである。 |