内容要旨 | | 分数量子ホール効果の発見以来、強磁場下の2次元電子系(量子ホール系)の研究は、輸送現象に関わる基底状態と低エネルギー励起を中心に進められ、系の多体効果に関する様々な情報が得られてきた。高エネルギーの励起、即ちランダウ準位間やバンド間の励起もまたこうした情報を含んでいると期待されるが、単純な系では系に潜む対称性のために、光学的にこうした情報を得ることは一般に難しい。この事実は、サイクロトロン共鳴においてはKohnの定理、光ルミネッセンスにおいては擬スピン対称性として知られている。本論文の目標は、こうした対称性を破った系において、光学スペクトルにどのような形で多体効果が現れるのかを調べることにある。手段としては、数値的対角化法により有限系でのスペクトルを厳密に求める方法を用いた。 まず、サイクロトロン共鳴、即ち、光を吸収して電子が1つ上のランダウ準位に叩き上げられる過程を考える。Kohnの定理は、系が並進対称性を有し、全ての電子が同一のサイクロトロン振動数を持っている場合、サイクロトロン共鳴のスペクトルが電子間相互作用に依らないことを主張する。これは、光が結びついている重心運動が相互作用には依らないことからの帰結である。 しかし、系の並進対称性が破れていたり、系が複数の異なるサイクロトロン振動数を持つ場合にはこの議論は使えず、サイクロトロン共鳴に電子間相互作用の効果が現れてくる。GaAs/AlGaAsヘテロ接合系で実現される高移動度の2次元電子系では、主に後者の場合が問題となる。伝導帯が持つ非放物線性のためにサイクロトロン振動数が電子のランダウ準位指数Nとスピンに依存するからである。これらのサイクロトロン振動数の違いはそれぞれ質量分裂とスピン分裂と呼ばれ、バルクの系では実際に観測される。 スピン分裂サイクロトロン共鳴では、上向きスピンの電子は下向きスピンの電子に比べてわずかに大きなサイクロトロン振動数を持っている。スペクトルの電子間相互作用の強さに対する依存性は以下の3つの振る舞いに大別される。 1.正のモード間反撥(絶対零度では<1あるいは、>1かつ↓〜1の領域) 電子間相互作用を強くすると、高エネルギー側のピークが高エネルギー側のピークに弾かれ、強度が高エネルギー側から低エネルギー側のピークに移る。 2.負のモード間反撥(絶対零度では>1かつ↑〜1の領域) 正のモード間反撥とは逆の振る舞い。電子間相互作用を強くすると、低エネルギー側のピークが高エネルギー側のピークに弾かれ、強度も低エネルギー側のピークから高エネルギー側のピークへと移っていく。 3.運動による先鋭化(絶対零度では>1かつ↑〜↓の領域) 電子間相互作用を強くすると、高エネルギー側、低エネルギー側の両ピークがお互いに近づいていき、最終的には一つのピークになる。 また、2種類の電子数の比を固定したまま温度を上げた場合のスペクトルを考えると、温度の上昇は、全占有率を上昇させるのと定性的に同じ効果を与える。 こうした3つの振る舞いを再現する現象論的モデルとして、2モードモデルを考える。上記の1、2及び3の振る舞いは、2つのモード間の結合定数が、正の実数、負の実数、純虚数の場合に相当している。 占有率が1より十分に小さい時は、各電子は避けあって運動し、他の種類の電子が作るポテンシャルの最低点の周りを運動する。これはサイクロトロン振動数の増大を意味し、正のモード間反撥の振る舞いを助長する。実際、低占有率の極限では2モード近似が正当化できて、その結合定数は正の実数になることを示せる。 占有率が1より大きい時は電子同士が避け合いきれなくなって、サイクロトロン軌道の重なりが増大する。その結果、スペクトルに寄与する終状態は2つのモードの量子力学的な重ね合わせでは書けなくなり、非常に多くのサイクロトロンモードが混じってきて準連続的なエネルギー分布を持つようになる。このような場合、2モードモデルの結合定数は実効的に虚数になると考えられる。軌道の重なり効果が増大すると、結合定数の虚部が増大して運動による先鋭化の振る舞いを導く。ただし、片方のスピンの電子に対するランダウ準位がほとんど完全に占有されている場合は例外で、モード間反撥の振る舞いが見られる。これはランダウ準位の占有による位相空間の減少に起因していると考えられる。 質量分裂サイクロトロン共鳴の場合には、最低ランダウ準位から第一励起ランダウ準位への遷移に対応するサイクロトロン振動数の方が、第一励起ランダウ準位から第二励起ランダウ準位への遷移に対応するそれよりも大きい。この系のサイクロトロン共鳴では、スピン分裂サイクロトロン共鳴の場合とは違い、占有率と温度に依らずに必ず正のモード間反撥の振る舞いがみられる。これは2種類のランダウ準位間の遷移が空間的に離れた位置で起こるためだと考えられる。 電子と正孔が再結合する過程、即ち、光ルミネッセンスを考える場合にも、Kohnの定理に類似した主張が存在する。フェルミ準位が最低ランダウ準位内にあり、電子と正孔が同一の二次元面内に閉じ込められている場合には、発光エネルギーは常に最低ランダウ準位内の電子・正孔対のものに一致し、非自明な多体効果の情報が得られない。伝導帯を上向き、価電子帯を下向きスピンとみなすと、この結果は擬スピン自由度に対するSU(2)対称性から導かれる。 本論文では主にフェルミ準位が励起ランダウ準位内に存在する場合の対称性の破れを考察した。この時対称性の破れの原因となるのは、ランダウ準位間オージェ過程である。これは再結合によって生じた最低ランダウ準位の空席を、上のランダウ準位にいた電子が落ちてくることによって埋め、代わりに他の電子が上のランダウ準位に叩き上げられる過程である。実際、この過程を無視すると対称性が復活することを示せる。 まずスピンがない系での光ルミネッセンスを考察した。電子正孔間距離dが磁場長lより十分小さい時、発光エネルギーの占有率依存性は占有率が非整数の領域で下向きに凸なカーブを描く。電子正孔間距離dを大きくしたり、温度を上げると、下向きに凸なカーブはHartree-Fock近似から得られる直線的なシフトへと移り変わっていく。 こうした振る舞いは基本的に遮蔽効果によって説明される。即ち、dが小さいときの発光エネルギーの弓なりのシフトは、電子が正孔の周りに集まって初期状態のエネルギーが下がることに起因していると考えられる。ランダウ準位が完全に詰まっている場合はこのような遮蔽効果がないので、上向きのカスプ構造が見られる。dが大きい場合や温度が高い場合は、こうした電子正孔間の相関効果が小さく遮蔽効果も小さい。 スピンが存在する時には、上向きスピンの電子・正孔が再結合する左円偏光と、下向きスピンの電子・正孔が再結合する右円偏光の発光がある。計算で得られたスペクトルに適当な幅を導入すると、占有率が2より大きい場合の左円偏光の発光スペクトルは2つのピークから成る構造を持つ。電子のスピンが完全に上向きに偏極しているという条件のもとで、絶対零度におけるスペクトルを計算すると低エネルギー側のピーク強度の方が大きい。いくつかの電子のスピンを下向きに反転させてスペクトルを計算すると、高エネルギー側のピークの強度が増大する。こうした振る舞いは最近実験で得られている結果を定性的に説明する。一方、右円偏光の発光スペクトルの方は、占有率が2と3の間では1つのピークだけから成り、3と4の間では2つのピークから成る構造を持つ。 左円偏光において見られる2つのピークは、上向きスピンの電子が上のランダウ準位から落ちてきて、下向きスピンの電子が上のランダウ準位に叩き上げられるようなオージェ過程によってもたらされるモード間反撥が原因であると予測される。このタイプのオージェ過程は、スピン自由度を考慮してはじめて現れるものであり、しかも落ちてくる電子と叩き上げられる電子が同じスピンを持つオージェ過程に比べて結合の強さが大きいと考えられる。 占有率が2の近傍では、発光スペクトルの異常が見られる。電子面と正孔面の距離dが磁場長より十分小さい時、左円偏光のスペクトルは、占有率が2を超えて電子が1つ付け加わると突然2つのピークに分裂する。一方、dが磁場長よりも十分大きい場合には、電子1つの付加ではピークの分裂は見られず、その代わりに発光エネルギーが不連続に高エネルギー側ヘシフトする。解析的な計算は、こうした振る舞いが磁気励起子の分散に現れるロトン構造とランダウ準位間のオージェ過程に起因していることを示している。 以上、まとめると以下のようになる。 1.スピン分裂サイクロトロン共鳴の電子間相互作用依存性は、占有率、2種類の電子数の比、温度に依存して、正及び負のモード間反撥と運動による先鋭化という3つの振る舞いを示す。 2.質量分裂サイクロトロン共鳴の電子間相互作用依存性は、常に正のモード間反撥を示す。 3.スピン自由度がない系での>1での発光スペクトルは遮蔽効果に起因すると考えられるエネルギーシフトを示す。 4.スピン自由度がある系での>2の左円偏光に対するスペクトルは、適当な幅を導入すると、2ピークの構造を持つ。この時、上のランダウ準位から落ち込む電子と、上のランダウ準位に叩き上げられる電子が異なるスピンを持つランダウ準位間オージェ過程が重要である。 最後に残された問題について少し述べておく。2成分サイクロトロン共鳴おける電子間の波動関数の重なりの効果をもっと深く調べるという意味では、例えば、波動関数の広がった高いランダウ準位においてスピン分裂、質量分裂サイクロトロン分裂サイクロトロン共鳴が興味深い。また、光ルミネッセンスについてもより詳細な研究が必要である。特に、スピン自由度がある場合に、>2の領域で見られたピークの分裂のメカニズムをより明確に理解する必要がある。 |
審査要旨 | | 1985年,1998年と近年2度もノーベル物理学賞の対象となった量子ホール系(強磁場下2次元電子系)は新しい物理概念を生み出している重要な舞台である.修士(理学)浅野建一提出の学位請求論文においては,その系におけるサイクロトロン共鳴や光ルミネッセンスなどの高エネルギー励起過程における多電子効果に研究の焦点が合わせられ,光学スペクトルの様子が8個程度の電子系に対する厳密数値対角化を主とする理論手法で解析された.そして,GaAs/AlGaAsヘテロ構造で実現されるような複数の異なる有効質量を持つ電子系におけるサイクロトロン共鳴では,ランダウ準位当たりの電子数(占有率)に依存した多彩な振る舞いが明らかにされた. さて,英文で9つの章からなる本論文の第1章では,全系の重心運動に関連したサイクロトロン共鳴ではコーンの定理から,また,伝導帯の電子と価電子帯の正孔とが再結合する光ルミネッセンスでは電子と正孔を成分と考えた擬スピン自由度におけるSU(2)対称性から,これらの励起過程に多電子効果が顕示されないことが述べられる.そして,問題はこれらの対称性の破れであり,そこに研究主題があることが明確にされる. 次に第2章では2成分電子系におけるサイクロトロン共鳴,第3章では量子ホール系における光ルミネッセンスについて,これ迄の実験・理論両面にわたる研究状況が示される.前者に関して,弱磁場極限でのフェルミ流体理論からは高エネルギー側のピークが増強される「負のモード反発」の振る舞い,準粒子散乱からは一種の運動による先鋭化ともいえる「モード融合」,さらに,強磁場下低電子密度極限では低エネルギー側のピークが増強される「正のモード反発」が得られることが説明される.また,後者に関して,ピーク位置の決定には遮蔽効果が重要な役割を果たすこと,2つのピーク構造を持つ左円偏光実験の場合にはスピン自由度の存在とそれによって可能になるランダウ準位間のオージェ効果が鍵であることが示唆される.これに続いて第4章では理論の枠組みが詳しく書かれている. 本論文の中心である第5章では,スピン毎に有効質量が異なる2成分系でのサイクロトロン共鳴が厳密対角化によって得られた結果に基づいて議論される.特に,これ迄の研究を遥かに凌ぐ広範囲にわたって占有率を変化させることによって,「正・負のモード反発」や「モード融合」の各振る舞いの出現状況や相互の移り変わりが明確にされた.そして,この多彩性は電子の波動関数の空間的な拡がり具合の違いやランダウ準位の占有状況により制限される利用可能な位相空間の広さの違いに由来することが明らかにされた.有限系でのサイズ依存性の問題や多彩性の機構がより可視化されることが望まれるものの,得られた結果は大変面白く,高く評価される.また,この振る舞いの違いが状態のスピン分極にも依存することから,基底状態のスピン分極を観測する際に,この研究が新しい展開のきっかけを与えるかもしれない. 第6章では同じ手法でランダウ準位毎に有効質量が異なる系でのサイクロトロン共鳴が論じられた.そして,過去の研究とは異なり,常に「正のモード反発」が得られることが結論された. 光ルミネッセンスに関しては,第7章ではスピン自由度の役割を考慮せず,単に遮蔽効果に注目した後,第8章ではそのスピン自由度がランダウ準位間のオージェ効果を引き起こすという意味で大変重要であることが結論された.特に,この効果は過去の理論研究でいわれたようにある特別の占有率で発現されるのではなく,かなり普遍的に現れることが示された.ただ,有限サイズ効果がサイクロトロン共鳴の場合より大きいので,この計算は定量的には問題がないわけではない. 最後に,第9章では,得られた結果が要約され,将来の問題が言及されている.なお,本論文の末尾には理論の定式化に関連した4つの補遺がつけ加えられている. 以上,各章を紹介しながら,本論文の物理学への貢献点を解説した.そのサイズ効果のより詳細な検討やサイクロトロン共鳴の多彩性出現の物理を一層明快にすることは今後に委ねられるものの,計算技法・結果ともに,学位論文として充分な水準にあることが審査員全員によって認められ,博士論文として合格であると判定された.なお,本論文の内容は安藤恒也氏との共著としてPhysical Review B誌をはじめとするいくつかの雑誌に既に掲載されている.そして,これらの論文の第一著者である論文提出者が主体となって計算及び結果の解釈を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断される.また,この件に関して,安藤氏からの同意承諾書が提出されている.以上により、博士(理学)の学位を授与に値すると認定される。 |