学位論文要旨



No 114021
著者(漢字) 犬塚,将英
著者(英字)
著者(カナ) イヌヅカ,マサヒデ
標題(和) HERAにおける低いQ2電子陽子散乱での回折散乱断面積の測定
標題(洋) Measurement of the Diffractive Cross Seetion in Low Q2 ep Scattering at HERA
報告番号 114021
報告番号 甲14021
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3510号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 戸塚,洋二
 東京大学 助教授 中畑,雅行
 東京大学 教授 杉本,章二郎
 東京大学 助教授 森松,治
 東京大学 教授 早野,龍五
内容要旨

 ドイツ連邦共和国のDESY研究所では世界で唯一の電子陽子衝突型加速器HERAの運転が1992年から始まった。そこでは従来の固定標的を用いた実験と比べて広範囲な運動学的領域が探索可能となり、陽子構造関数の測定を中心とした様々な実験結果がZEUS及びH1実験により得られてきた。電子と陽子との深非弾性散乱では、電子は陽子を構成しているパートンと弾性散乱をする。ところが散乱されるパートンは単独では存在できず、残りのパートンとの強い相互作用により生じる多数の二次粒子が散乱される。そしてHERAではビームの重心系が陽子ビームの方向へ大きく片寄っていることから、一般に深非弾性散乱では散乱される二次粒子の多くは検出器の前方(陽子ビームの方向で定義される)で観測される。

 ところが、陽子はその構造を保ったままビームとほぼ同方向に散乱し、検出器の前方部分に粒子が検出されないような事象が観測され、このような散乱が深非弾性散乱全体の約10%をも占めていることが明らかになった。このように電子から放出される仮想光子と陽子の散乱の後で発生する粒子が位相空間上でそれぞれの入射粒子近辺に集中し、二つのグループの間に間隙があるような反応を回折反応と定義する。レッジェ理論では、仮想光子と陽子との回折反応はtチャンネルで量子数が真空と等しいポメロンと呼ばれる仮想粒子が交換される反応として考えられている。回折散乱は光子と陽子の終状態によって図1に示してあるように分類される。

図1:回折散乱の分類

 ここでレッジェ理論に従い、ポメロンのスピンはtの一次関数、p+pt、で表される軌跡上に乗るとする。この時レッジェ理論によると、仮想光子と陽子の反応の全散乱断面積、及び回折散乱断面積の重心エネルギーに対する振舞いは、ポメロン軌跡の切片p(アルファポメロン)の大きさに依存する。つまり、逆に反応の散乱断面積を測定することにより、アルファポメロンを求めることが可能である。光子の4元運動量移行の二乗の負数Q2が0である領域(光生成反応)の光子陽子全断面積の重心エネルギー依存性から、アルファポメロンは1.08と求められており、特にソフトポメロンと呼ばれている。全断面積に加えて、光生成反応におけるベクトル中間子の生成反応や包含的な回折反応の断面積の振舞いもソフトポメロンから予想されるものと矛盾しない。

 一方、光生成反応に対して、深非弾性散乱では回折散乱断面積が測定されており、その振舞いからQ2が充分に大きな領域では測定の誤差を考慮してもアルファポメロンはソフトポメロンよりも充分に大きく、単純にレッジェ理論を適用することが不可能であることが明らかになったが、まだその反応のメカニズムが完全に理解されるには至っていない。この論文では、アルファポメロンがQ2の変化に伴ってどのように遷移していくのかを調べるために、Q2が光生成反応と深非弾性散乱反応との中間に位置する領域における回折散乱断面積を測定し、その重心エネルギー依存性からQ2遷移領域におけるアルファポメロンの値の実験結果を報告する。

 このような低いQ2領域の探索をする目的で、ZEUSでは非常に小さな角度に散乱される電子を検出するためのカロリーメーターがZEUS検出器後方のビームパイプのすぐ脇に設置された。この検出器はビームパイプカロリーメーター(BPC)と呼ばれている。BPCはタングステンとシンチレーターとのサンドイッチ型カロリーメーターであり、散乱電子のエネルギーと散乱角度を高分解能で測定することが可能となった。運動学的変数Q2と仮想光子と陽子の重心エネルギーWはBPCで測定される散乱電子のエネルギーと散乱角度から計算される。本論文ではBPCで測定されるQ2が0.22GeV2から0.700GeV2、Wが90GeVから220GeVにわたる領域における回折散乱断面積を測定する。

 上記のようにBPCを用いて集められた低いQ2の事象中には回折事象だけではなく通常の深非弾性散乱の事象も含まれる。このような回折散乱以外からの寄与の除去は終状態のハドロン分布を用いて行われた。図2はZEUS検出器で測定された不変質量の分布である。回折事象は平坦な分布を持つのに対し、非回折事象はピークを有することを利用して、回折散乱の寄与のみを抽出した。この方法の利点は、直接データの分布を用いてバックグラウンドを差し引くために回折事象のモデルを仮定することによる不確定性が無視できる点にある。

図2:各Q2、W領域における不変質量分布

 このようにして得られた回折散乱の事象の数は、光子のフラックス因子を考慮することにより、回折散乱の断面積に変換される。図3にはWの関数として、各Q2,不変質量領域における回折事象の断面積が示されている。さらに回折散乱断面積とアルファポメロンとの関係式、、を用いて、断面積の分布から低いQ2領域におけるアルファポメロンを求め、他のQ2領域から得られる結果との比較を行った。

図3:低いQ2領域における回折散乱断面積
審査要旨

 本論文は9章からなり、第1章は序論、第2章は回折散乱に関する運動学的記述とその背景にある理論の解説、第3章は実験に使用された素粒子検出装置の記述、第4章は実験データと比較すべき人工データを作成するためのモンテカルロシミュレーションの説明、第5章は回折散乱現象を記述する運動学的諸量の導出方法の記述、第6章は実験データの取得に関する記述、第7章は回折散乱事象(イベント)の抽出、第8章は実験結果とそれに関する議論、第9章は結論である。

 本論文は、素粒子実験、特に陽電子・陽子間の衝突実験で観測される、仮想光子と陽子との回折散乱に関する散乱断面積を実験的に求め、その回折散乱が起きる機構に関して新しい知見を示したものである。

 仮想光子と陽子の回折散乱とは以下のような反応のことである。散乱に際して仮想光子と陽子間に交換される運動量は小さい。散乱によって仮想光子は横向き運動量の小さなハドロン群に分解し、陽子も攪乱を受けて同じく横向き運動量の小さな中間子群を生成する。両ハドロン群は運動学的に大きく異なった値を持つため、観測装置内で、明らかに分離された2つの粒子群として観測される。このような反応を回折散乱と呼んでいる。測定器は通常超前方領域をカバーしきれないので、陽子による中間子群は装置外に放出され観測にかからない。従って、回折散乱イベントは前方散乱を受けた陽電子と仮想光子が分解したハドロン群が観測されるのみである。

 実験が行われたのは、ドイツDESY研究所のHERAという衝突型加速器である。HERAは、820GeVの陽子と27.5GeVの陽電子を正面衝突させ、重心系エネルギーにして300GeVの衝突反応を行わせることができる世界最大の装置である。陽電子・陽子散乱は、ZEUSなる万能型大立体角観測装置で精密に測定された。ZEUS測定器の主要部分は、衝突位置精密測定器、中央飛跡測定器、中央電磁及びハドロンカロリメーター、前後方電磁及びハドロンカロリメーター、ビームパイプカロリメーター(BPC)である。

 このような高エネルギー領域では、運動学的許容領域が大きく広がっているので、大多数の観測事象は大きな交換運動量に起因するいわゆる深非弾性散乱である。ところが、深非弾性散乱の約10%に相当するイベントは、陽子進行方向に何らの活動を示さず、かつ陽電子の散乱角が小さく、さらに陽電子の散乱量から期待される仮想光子の方向にハドロン群が観測された。このようなイベントトポロジーは、まさに回折散乱によって起きるものであり、予想外に多い回折散乱イベントに興味が集まった。

 本論文では、回折散乱事象に焦点を当て、当該イベントを効率よく収集し、バックグラウンドを除去し、その断面積を求めた。まず、前方に散乱される陽電子を効率よく捕らえるため、専用のビームパイプカロリメーターをZEUS測定器に設置した。これにより、7GeV以上のエネルギーを持つ陽電子をロスなく捕らえた。散乱角の制限から、4元交換運動量Q2は、0.220<Q2<0.700GeV2の範囲にある。仮想光子の分解産物であるハドロン群に対して、光生成反応及び陽電子放射反応の混入を防ぐため、運動学的量が、35<<65GeVとした。以上から、もう一つの運動学的量すなわち仮想光子・陽子重心系エネルギーの範囲は90<W<220GeVとなる。さらに、もう一つの重要な運動学的量である仮想光子分解ハドロン群の不変質量Mxが求められた。Mxは、3.00GeV<Mxの範囲にある。

 本論文で最も重要な点は、非回折散乱バックグラウンドすなわち深非弾性散乱イベントをデータサンプルから取り除くことである。このため、非回折散乱イベントのモンテカルロシミュレーションが行われ、回折散乱とどのように異なった振る舞いをするかを調べたところ、Mxの大きな領域は全て非回折現象であり、かつその寄与はMxの小さな領域にかけて指数関数的に減少することが分かった。実際、回折散乱領域外のイベントを多く含むいわゆる、陽子分解によるハドロン群が検出されたデータサンプルを解析したところ、データは予想通りMxの小さな領域に行くにつれ、指数関数的に減少していることが分かった。以上の結果を踏まえ、非回折散乱バックグラウンドの低Mx領域における寄与が評価され差し引かれた。その差し引きは2種類の方法で行われ、差し引きによる誤差の評価が行われた。また、非回折散乱イベントの寄与をさらに押さえるため、Mxの領域として、3.00<Mx<12.2GeVという低い領域のみに制限した。

 このようにして得られたデータは、Q2及びWのビンに分配された。各ビンには、70〜350個のイベントが含まれる。これらのイベント数からルミノシティー等を使って、最終的に散乱断面積が求められた。断面積は、Q2をパラメータとしてWの関数として数値化された。

 回折散乱の機構であるが、仮想光子と陽子間にレッジェ化されたポメロンなる仮想粒子が交換されるという模型が一般的である。ポメロンは、高エネルギー陽子陽子散乱や光生成反応の全断面積のエネルギー依存性をうまく説明することができる。本論文と同じW領域におけるポメロンのパラメータP(0)は1.08と求められた。

 回折散乱断面積はWのべき乗になり、そのべき乗指数からP(0)を求めることができる。本実験で得られた断面積のW依存性から、0.220<Q2<0.700GeV2に対してP(0)=1.217±0.026(+0.042-0.088)と求められた。Pは、ZEUZの非回折全断面積の測定から独立に求めることができるが、その値はP(0)=1.141±0.020±0.044であり、本実験結果と矛盾しない。しかし、本実験が求めたP(0)は、系統誤差が相当大きいが、Q2〜0GeV2領域での値、すなわち1.08に比べて有意に大きな値になっている。これは、断面積のW依存性がグラフで見てもかなり大きいことから確かであることが分かる。この結果は、仮想光子・陽子の回折散乱反応は、従来考えられていたポメロン交換反応による機構では定量的に説明することができず、ポメロン交換機構が普遍的描像ではないことを示しており、その意味するところは重要である。

 以上のように、本論文は仮想光子・陽子回折散乱を精密に解析し、その散乱断面積を求めたこと、またその断面積からポメロン交換機構のパラメータP(0)を求めたところQ2〜0におけるP(0)より有意に大きな値を示し、ポメロン機構が普遍的機構でないことを示した。このように本研究結果は素粒子物理学に新しい知見を加えたものである。

 なお、本論文で行われた研究は、ZEUS共同研究グループ(日本側共同研究者20名)の共同研究であるが、論文提出者が主体となってデータ取得及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54058