学位論文要旨



No 114022
著者(漢字) 井野,明洋
著者(英字) Ino,Akihiro
著者(カナ) イノ,アキヒロ
標題(和) 高温超伝導体La2-xSrxCuO4の光電子分光
標題(洋) Photoemission Study of the High-Temperature Superconductor La2-xSrxCuO4
報告番号 114022
報告番号 甲14022
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3511号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 教授 小谷,章雄
 東京大学 教授 壽榮松,宏仁
 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 助教授 福山,寛
内容要旨

 銅酸化物系における高温超伝導機構の解明は現代物性物理学における最も重要な問題の一つである。銅酸化物系は、CuO2面にホールをドープすると反強磁性モット絶縁体から超伝導体、そして常伝導金属へと大きく物性が変わるため、その背後にある電子構造がホール・ドープとともにどのように変化していくのかが、この系の本質を理解する鍵となるだろう。実際に、超伝導体に関してはBi2Sr2CaCu2O8+y系で、ドープされていない反強磁性絶縁体に関してはSr2CuO2Cl2で、バンド分散などが光電子分光で研究されているが、一番興味深い所、つまり反強磁性絶縁体と超伝導体の間や、超伝導体と常伝導金属の間で、電子構造がどう変化しているのかについての直接的な情報はまだ得られていない。一方、近年、低ドープ領域の銅酸化物が、超伝導転移点より少し上の温度でギャップ的な振舞い(スピンギャップ、常伝導ギャップなど)を示すこと、また超伝導転移点より数倍高い温度で帯磁率やホール係数に異常があらわれることなどがわかってきた。これらの現象と、電子構造のホール濃度依存性との関係も重要な問題である。ホール濃度依存性の研究には、数ある銅酸化物系の中でもLa2-xSrxCuO4系が適している。というのも、La2-xSrxCuO4を用いれば反強磁性絶縁体、超伝導体、常伝導金属のすべてを連続的にホール濃度を変えて研究できるからだ。また、最近、La2-xSrxCuO4系ではストライプ型のスピン・電荷整列への揺らぎが強いと言われており、他の系と比較すればストライプ揺らぎと超伝導の関係も調べられるだろう。しかし光電子分光では、La2-xSrxCuO4の測定は劈開性や表面の安定性などの面で他の系より難しく今まで後回しにされてきた。従って本研究では、La2-xSrxCuO4系に注目し、化学ポテンシャル(フェルミ準位)、運動量について積分した電子状態密度、フェルミ面、エネルギーギャップ、バンド分散などの電子構造のホール濃度依存性を、角度積分型・分解型光電子分光法および逆光電子分光法を用いて徹底的に調べた。

 銅酸化物のモット絶縁体にホールをドープしたとき化学ポテンシャルがどのようにシフトするのかは、今まで大きな争点となってきた。化学ポテンシャルのシフトはフェルミ流体論では有効質量の逆数に比例する。チタン酸化物などの通常のモット転移系では金属-絶縁体転移近傍で有効質量が発散するのに対し、La2-xSrxCuO4では電子比熱係数の測定から転移点近傍に向かって有効質量が減少することが示されている。光電子分光を用いると、内殻準位のスペクトルのシフトから化学ポテンシャルのシフトを見積もることができる。X線光電子分光スペクトルを測定・解析した結果、化学ポテンシャルのホール・ドープによるシフトは、図1のように、高ドープ領域(x>0.15)では∂/∂x〜-1.5eVであるが、低ドープ領域(x<0.15)では非常に遅くなっている(|∂/∂x|<0.2eV)ことがわかった。高ドープ領域においては、化学ポテンシャルのシフトと比熱係数の振る舞いは、ランダウパラメーターがF0s〜7±2程度の電子間相互作用の強いフェルミ流体のものとして解釈できるが、低ドープ領域では同様のフェルミ流体的解釈は破綻する。ホール濃度xが減るにつれて化学ポテンシャルのシフトと比熱係数が同時に抑えられる(x→0のとき∂/∂x→0かつ→0)という非フェルミ流体的な現象は、化学ポテンシャルの近傍でギャップが開いているとすれば可能であると考えた。低ドープ領域で化学ポテンシャルがシフトしない理由としては、近年盛んに議論されているように、ホールが動的な揺らぎとしてストライプ状に反強磁性領域から分離している可能性が考えられる。

図1La2-xSrxCuO4の化学ポテンシャルのホール濃度依存性

 高分解能光電子分光と逆光電子分光を用いて、La2-xSrxCuO4の角度積分型スペクトルを、ホールを多くドープした常伝導金属(x=0.30)から反強磁性絶縁体(x=0)まで測定した。電荷移動ギャップ(〜1.5eV)程度のエネルギー・スケールでは、ホールをドープすることによってスペクトルの重みが上部ハバード・バンドから、+1eVを中心として電荷移動ギャップ全体の領域に移動することがわかった。図2に示すように、フェルミ準位近傍では〜0.1eVのエネルギー・スケールでスペクトルの強度が擬ギャップ的に抑えられている。これを「高エネルギー擬ギャップ」または「弱い擬ギャップ」と呼ぶ。金属-絶縁体転移に向かってホール濃度xが減ると、フェルミ準位上でのスペクトル状態密度が徐々に減少するが、そのホール濃度依存性は電子比熱係数のホール濃度依存性とよく合うことがわかった。また、擬ギャップのエネルギー幅PGはxが減るにつれて大きくなり、帯磁率やホール係数に見られる特徴的な温度が反強磁性絶縁体(x=0)に向かって大きくなるのとよく似たホール濃度依存性を示す。擬ギャップ的なスペクトルはコヒーレンス温度が低いことも示唆しており、低ドープ領域での伝導特性はインコヒーレントな金属のものと考えられうることを提唱する。角度積分型スペクトルで観測される擬ギャップは、その大きさ(〜0.1eV)やホール濃度依存性から、銅スピン間の反強磁性相関に由来することが示唆される。

図2La2-xSrxCuO4の光電子分光スペクトルにおける擬ギャップ

 角度分解型光電子分光を用いて、La2-xSrxCuO4のフェルミ面、フェルミ面上のエネルギーギャップ、フェルミ準位近傍の占有状態のバンドの分散、およびそれらのドーピング依存性を0.03≦x≦0.30という広いホール濃度領域で調べた。その結果、図3に示すように、最適および低ドープ領域(x≦0.15)では、他の銅酸化物と同様にk=(,)を中心とするホール型のフェルミ面となっているが、多くのホールをドープすると(x=0.30)、k=(0,0)を中心とする電子型のフェルミ面へと変化することがわかった。一方、ホール濃度が減るにつれて、11Kでの超伝導ギャップ(x=0.15で2SC=18±6meV)は一様に大きくなり続け、x=0.05で観測された常伝導ギャップ(2NG=48±9meV、「低エネルギー擬ギャップ」または「強い擬ギャップ」とも呼ぶ)へと連続的に発展しているように見える。驚くべきことには、最適ドープ領域(x=0.15)から低ドープ領域(x=0.10)に行くと、運動量空間でブリルアン域の斜め方向〔(0,0)-(,)方向〕の準粒子バンドおよびフェルミ面やが消えてしまう。これは、斜め方向で鋭い準粒子ピークが見られるBi2Sr2CaCu2O8+y系のスペクトルと極めて対照的である。さらに、超伝導-絶縁体転移近傍(x〜0.05)では、図4に示すように角度分解スペクトルに二つの構造が共存しており、ホール・ドープによって二つの構造の間でスペクトルの重みが移動するという現象を見い出した。これは、転移点近傍でホール濃度が微視的な大きさで不均一に揺らいでいることを示唆していると考えられる。低ドープ領域で見られたLa2-xSrxCuO4系とBi2Sr2CaCu2O8+y系のスペクトルの違いは、La2-xSrxCuO4系で特に強いと言われる動的なストライプ型の揺らぎと関連しているように見える。電荷ストライプ間の反強磁性領域にホールが少ないため、縦や横のストライプと同じ向きの運動量の電子状態では金属的な準粒子ピークを見せるのに対して、ストライプを横切る斜め方向の運動量をもつ電子状態は伝搬が抑えられるものと考えられる。ホールをドープするとともに、絶縁体でホールが微視的に分離し縦と横に並んで反強磁性領域の境界をなしている状態から、ストライプ揺らぎのある超伝導体へと連続的に発展していくという描像が実験結果より示唆される。

図3La2-xSrxCuO4のフェルミ面のホール濃度依存性図4La2-xSrxCuO4の超伝導-絶縁体転移近傍でのバンド構造のホール濃度依存性

 以上の結果を合わせると、銅酸化物系の電子構造は、低ドープ領域で増大する二つのエネルギー・スケール、即ち高エネルギー擬ギャップ(PG〜100meV)と超・常伝導ギャップ(SC,NG〜10meV)によって特徴づけられることがわかった。本実験から示唆される描像では、ホールをドープするとともにともにLa2-xSrxCuO4系は、反強磁性絶縁体(x〜0)から、微視的な大きさで相分離した絶縁体(x≦0.05)、擬ギャップ構造と動的なストライプ揺らぎの強い超伝導体(0.052-xSrxCuO4系の光電子分光によって、多くの新しい情報を得ることができた。高温超伝導機構の理解のためには、さらにLa2-xSrxCuO4系を研究するとともに、多様な銅酸化物系を系統的に光電子分光で研究する必要があるだろう。

審査要旨

 近年、光電子分光による強相関電子系の研究の進展は著しい。銅酸化物高温超伝導体に対しても、ドープされていない反強磁性絶縁体Sr2CuO2Cl2や、超伝導体では系でバンド分散が観測され電子状態の基本的性質の直接的研究が可能になりつつある。しかしながら、系は基本的に高ドープの領域にあると考えられ、高温超伝導体の最適ドープから低ドープ領域についての光電子分光による研究はこれまで存在していなかった。高ドープの領域についてはフェルミ液体的描像が成り立つことがほぼコンセンサスとして成立しつつあるが、低ドープ領域の性質については今後の研究の進展に待つところが大きい。当学位論文では、反強磁性絶縁相から、低ドープ須域、最適ドープ領域を経て高ドープ領域となり超伝導が消えるところまで広い組成範囲を研究することが可能なLa2-xSrxCuO4系について、光電子分光による系統的研究をしている。

 本論文は6章から成り立っている。全体の序章である短い第1章に続き第2章では本研究の背景がまとめられている。銅酸化物超伝導体の基本的性質をLa2-xSrxCuO4系についてまとめ、低ドープ領域における擬ギャップ及び、いわゆる1/8問題から派生してきたストライプ秩序とその揺らぎといった現在銅酸化物超伝導体研究の焦点となっている問題点がまとめられた後、ここで用いられる研究手段である光電子分光について簡潔な要約がなされている。

 第3章では、内殻準位の光電子分光を用いて化学ポテンシャルのドープ量依存性が議論される。高ドープ領域では化学ポテンシャルのドープ量依存性は大きく、比熱係数のドープ量依存性ともランダウパラメーターの大きなフェルミ液体と考えることによって矛盾はない。これに対して、低ドープ領域では化学ポテンシャルのドープ量依存性は小さくなっている。低ドープ領域では比熱係数もドープ量を減らすにしたがって小さくなり、これらは非フェルミ液体的性質として捉えられている。その原因としては、低ドープ領域において化学ポテンシャル近傍にギャップが形成されている可能性、ストライプの揺らぎの可能性が指摘されている。

 フェルミエネルギー近傍の状態密度については、角度積分型の光電子分光および逆光電子分光を用いた研究を実行し、その結果が第4章で議論されている。フェルミエネルギーの上下約10eVの範囲の大きな構造を議論した後、ドーピングの効果が上部ハバード・バンドから電荷移動ギャップ内へのスペクトルの重みの移動となって現れることを明らかにしている。さらに詳細に0.1eV程度のエネルギー・スケールで光電子分光のスペクトルを見ると、フェルミ準位近傍でスペクトルの強度が擬ギャップ的に抑えられていることが分かった。この擬ギャップの大きさは、ドープ量を減らすとともに大きくなり、帯磁率やホール係数に見られる特徴的エネルギースケールと定性的に同じ振舞いを示すことが明らかにされた。本論文では、この擬ギャップを高エネルギー擬ギャップと呼んで後に出てくるより小さなエネルギースケールを持つ擬ギャップと区別している。

 第5章には角度分解型光電子分光を用いて明らかにされたLa2-xSrxCuO4系のフェルミ面近傍の電子状態がまとめられている。低ドープ領域から最適ドープ領域にかけては、他の銅酸化物同様(,)を中心とする正孔面であるが、ドープ量を増やすにつれ点を中心とする電子面へと変化することが明らかとなった。準粒子ピークの移り変わりを求めフェルミ面をよぎる点を求めることによってバンド分散とフェルミ面の形について議論している。低ドープ領域では、スペクトルに現れる超伝導ギャップを観測し、さらにドーピング量を減らすことによってそれが常伝導ギャップに連続的につながっていることを明らかにした。この擬ギャップを本論文では、低エネルギー擬ギャップと定義している。

 以上見てきたように、本論文の研究内容は高温超伝導体の電子状態について、光電子分光を用いた最先端の研究内容であり、その成果は高く評価される。低ドープ領域における化学ポテンシャルのシフトの欠如に対する解釈のように、今後のより詳細な検討を要する見解も一部見受けられるが、光電子分光から一つの考え方を提示したものとして積極的に評価したい。

 なお本論文の主要部分については著者の属する藤森研究室における研究成果であり、角度分解光電子分光についてはShen教授のグループとの共同研究であるが、論文提出者の寄与は本質的で十分であると判断される。

 よって論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54678