学位論文要旨



No 114036
著者(漢字) 河野,俊介
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,シュンスケ
標題(和) 共鳴蛍光にみられる亜酸化銅のオルソ励起子のコヒーレンスと緩和の研究
標題(洋)
報告番号 114036
報告番号 甲14036
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3525号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 助教授 山本,智
内容要旨

 亜酸化銅はワニエ励起子のモデル物質として有名な半導体である.結晶のもつ反転対称性を反映して,黄色励起子系列の1sオルソ励起子への1光子遷移は電気双極子禁制で,電気4重極子相互作用を通じて電磁場と結合する.

 近年,高速パルスレーザー光による時間分解分光法がこの励起子に適用され,励起子のポラリトン分散によるpropagation beatやコヒーレント光照射によって発生するZeemanサブ準位間の量子干渉効果が観測された.一方,励起子系のBose-Einstein凝縮や超流動性の研究も話題となっている.

 このような背景のもとで,本研究は,磁場中におけるこの励起子の低温での共鳴発光の偏光特性や磁場効果に注目し,1)Zeeman分裂が励起子準位の自然幅より小さい領域で形成されている量子力学的重ね合わせ状態,および,2)Zeeman分裂が励起子準位の自然幅より十分大きな領域でのサブ準位間の励起子系の分布を分光学的手法によって調べたものである.特に,2光子分光法の利点を生かすことを企てた.

 試料は天然の単結晶を用いた.2光子分光法や共鳴発光の偏光特性を生かした研究を行なうためには,結晶の方位やそれに対する光の波数の方向などを厳密に制御しつつ励起子の対称性をあらかじめ検討しておく必要がある.そこで本研究では,このために,X線回折法および,新たに試作した3軸可変試料ホルダによって結晶の方位と光の波数ベクトルの方向とをできる限り正しく制御して実験を行なった.これによって磁場中の励起子の対称性と1光子および2光子遷移の選択則を実験的に吟味でき,次の結果が得られた.

 1)Faraday配置での実験結果より,Zeemanサブ準位の基底が磁気量子数m=+1,0,-1に対して,各々|x〉+i|y〉,|z〉,|x〉-i|y〉であり,電気4重極子1光子遷移はm=±1で許容であることが確認された.また,電気双極子2光子遷移はm=0で許容であることが確認された.しかし,m=0に対応する2光子遷移によって1光子禁制の共鳴発光も観測されることが確認された.

 2)Voigt配置での実験結果より,Zeemanサブ準位の基底が磁気量子数m=+1,0,-1に対して,各々|y〉+i|z〉,|x〉,|y〉-i|z〉であり,電気4重極子1光子遷移はm=+1,0,-1で許容であることが確認された.また,電気双極子2光子遷移はm=±1で許容であることが確認された.しかし,対称性から禁制と予想されるm=0に対応する2光子遷移による1光子共鳴発光も観測されることが確認された.

 以上の結果を基礎として,磁場中での励起子状態のコヒーレンスや緩和に関して次の2種類の実験を行なった.

1)1sオルソ励起子のHanle効果の観測

 Voigt配置におけるAr+イオンレーザー光照射によるバンド間励起を行ない共鳴発光の磁場依存性を測定した.図1(a)は検光子をx方向に配置したときの,m=+1,-1に対応する1光子遷移による発光の積分強度の磁場依存性である.ゼロ磁場の付近に構造が見られる.しかし,(b)は検光子をy方向に配置したときのm=0に対応する1光子遷移による発光の積分強度の磁場依存性であるが,対応する構造は見られなかった.本研究ではこの現象が原子や分子分光学で知られているHanle効果によるものと解釈した.これはZeeman分裂が励起子準位の自然幅より小さい領域で形成される量子力学的重ね合わせ状態によるものである.この解釈にたつと,1sオルソ励起子の準位の低温での幅は8.8eVであると評価でき,文献値5eVの約1.5倍である.この違いはポラリトン分散によるものとの提案を行なった.

図1:Voigt配置の磁場中で(001)面をバンド間励起した際の共鳴発光の磁場依存性.

 本研究では、2光子共鳴励起によって特定の分極を選択的に励起するのに便利なFaraday配置でも同様な実験を,YAGレーザー励起のLiFカラーセンターレーザーからの近赤外単色光を光源として行ない,図2で示すような類似の結果を得た.しかし,励起光強度依存性などは今のところ顕著にはみられなかった.

図2:Faraday配置の磁場中で(110)面を2光子共鳴励起した際の共鳴発光の磁場依存性

 本研究で採用した方法の利点は,汎用単色計によっては非常に測定の困難な狭い準位幅を精度よく簡便に測定できることにある.この方法は今後より高密度に作られた励起子系がBEC状態など巨視的なコヒーレンスを新たに発生するかどうかの判定などへの応用を開くものと期待される.

2)Zeemanサブ準位間における励起子の準熱平衡状態の吟味

 Zeeman分裂が励起子準位の自然幅より十分大きな領域で,Zeemanサブ準位間の励起子の分布に関する実験を行なった.図3にFaraday配置の磁場中(0B8T)でのバンド間励起による共鳴発光スペクトル,および通常光による1光子透過スペクトルを示す.これらのデータをもとに各共鳴発光の積分強度比を解析した.この結果を図4に示す.これより分裂準位間において励起子系は低密度極限におけるMaxwell-Boltzmann分布に従うことが確認され,準熱平衡状態にある励起子系の温度は結晶温度1.6Kに近い約4Kであることが評価された.また,励起子系がこのような準熱平衡状態にあることは分裂準位に対応した1LOフォノンサイドバンド発光の形状を解析することでも確認された.

図3:Faraday配置,1.6Kにおける(a)バンド間励起発光スペクトル,(b)1光子透過スペクトル.磁場の大きさは最下段を0Tとして8Tまで1Tずつ変化させている.図4:分裂準位のエネルギーに対する図3の1sオルソ励起子の共鳴発光の積分強度.記号はそれぞれ,+:5T,○:6T,●:7T,◎:8Tである.図中の破線は4.4KのMaxwell-Boltzmann分布を例としてプロットした.

 次に,高密度励起の試みとして,磁場中で特定の分裂準位を2光子共鳴励起し,発光スペクトルを観測した(図5).バンド間励起の場合とは異なり,この場合では2光子共鳴励起を行なった準位からの共鳴発光が強く,励起子系に非平衡状態が実現されていることが示唆された.

図5:Voigt配置の磁場中(5T)における2光子共鳴発光スペクトル.図中の白抜き矢印は入射光の2光子エネルギーの値を示す.(a):|y〉+i|z〉に観測される共鳴発光スペクトル,(b):(a)に対し,増幅率を30倍した共鳴発光スペクトル.|y〉-i|z〉(2.0326eV)に微弱な発光が観測された.

 以上の結果から,励起密度が低い極限では励起子系は全体として格子温度に近い温度での準熱平衡状態にあることが結論できる.これまで,高い密度における励起子系の分布に興味が集中するあまり,その基礎になる低密度での統一的な研究は必ずしも十分ではなかった.本研究は,より高い密度での励起子系の量子統計現象に対する信頼性の高い実験や解釈の基礎を高めるという意義がある.実際,2光子選択励起では非平衡状態を示唆する予備的な結果が得られたが,本研究ではその機構を解明することはできなかった.しかし,今後の課題として十分期待できることが明らかになった.

 以上のように,本研究では亜酸化銅のオルソ励起子の磁場中での1光子および2光子遷移の特性とそれに関与する励起子準位の対称性を詳しく実験的に吟味し,それに基づいて,励起子準位のコヒーレンスおよび緩和の結果として実現する準熱平衡状態に関する新たな知見を得た.特にHanle効果を利用した励起子の準位幅を比較的簡便に精度良く測定する新しい方法の有効性が確認された.

審査要旨

 本論文は、共鳴蛍光にみられる亜酸化銅のオルソ励起子のコヒーレンスと緩和の実験的研究を、7章からなる和文でまとめたものである。

 本論文第1章では、研究の背景と目的が述べられている。亜酸化銅はワニエ励起子のモデル物質として良く知られた半導体である。結晶の持つ反転対称性を反映して、黄色励起子系列の1sオルソ励起子への1光子遷移は電気双極子禁制となり電気4重極子相互作用を通じて電磁場と結合する。近年発達したレーザーや時間分解分光手法がこの励起子に適用され、励起子ポラリトン分散による分布ビートや、コヒーレント光照射によって発生するゼーマンサブ準位間の量子干渉効果などが観測され、また、励起子系のボーズ凝縮や超流動性の研究も注目を集めている。このような背景のもと、本論文では、低温かつ磁場中における励起子の偏光特性やスペクトル形状に着目し、ゼーマン分裂が励起子準位の自然幅よりも小さな領域で形成される量子力学的重ね合わせ状態と、逆に大きな領域でおこる分布の様子を分光的手法、特に2光子分光法の利点を生かして研究することを目的としている。

 本論文第2章では、この論文の実験で共通に使用された試料及び実験装置についての説明がなされている。試料には、天然の単結晶が用いられている。2光子分光法や共鳴発光の偏光特性を精密に議論するために、本人によって新たに開発された3軸可変試料ホルダーが紹介されている。このような研究手法は、独創性が高いものと認められる。

 本論文第3章では、磁場によって分裂した1sオルソ励起子準位に関与する光学遷移(1光子透過スペクトル、バンド間励起発光スペクトル、2光子共鳴励起発光スペクトル)がファラデーおよびフォークト配置の両方で調べられている。理論的に予想される分裂準位の対称性を考察し実験結果と比較したところ、定量的な評価や起源の解明には至らなかったが禁制遷移が明確に確認された様子が述べられている。

 本論文第4章では、磁場が弱い極限の場合として1sオルソ励起子におけるハンル効果の発現が、バンド間励起・2光子共鳴励起の双方について試みられ観測された様子が述べられている。ハンル効果は、原子系では詳しく議論された効果であるが、固体励起子系での議論はこれまで少なく、しかも束縛励起子系に関するものだけしか無かった。自由励起子系について実験研究がなされたのは本研究が初めてであり、独創性が高いものと認められる。

 本論文第5章では、磁場による分裂が十分に大きい場合として、バンド間励起によって生成された励起子の分裂準位間での分布について議論がなされている。分裂準位間からの直接発光の強度を解析することで、励起子系の温度を評価することに成功した。さらにこの章では、バンド間励起を2光子共鳴励起に置き換えて分裂準位からの直接発光が観測された結果および、バンド間励起の場合との比較が述べられている。これらは、近年注目されている励起子系のボーズ凝縮や超流動性の研究の基礎をなすものであり重要と認められる。

 本論文第6章では、本論文において得られた結果のまとめがなされ、また、本論文第7章では本研究で解決できなかった問題が言及され今後の発展についての展望が述べられている。

 以上のように本研究は、亜酸化銅のオルソ励起子の共鳴蛍光にみられるコヒーレンスと緩和に対して、精密な磁場中の分光学的手法を実践し新たな知見を得たものであり、大いに評価できる。

 なお、本研究は指導教官との共同研究の形で行われているが、測定装置の開発、分光実験の遂行、結果の解析、など本人の寄与が本質的であることが認められた。

 よって、本論文をもって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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