序論 スピングラスはスピン間相互作用における不均一性とフラストレーションの効果によりスピングラス固有の協力現象を引き起こし、強磁性体などの均一系とは質的に異なる諸物性を示す。転移温度Tc以下のスピングラス秩序相で観測される"遅い緩和"現象(スローダイナミクス)は、スピングラスを特徴づける代表的な性質の一つである。静的性質は常磁性的であるTc以上の高温においても、Tcのごく近傍ばかりでなく広い温度領域で非指数関数型の"遅い緩和"が観測され、’グリフィス相’と呼ばれている。これらの遅い緩和の機構を調べることはスピングラスの基本的性質を解明する上で重要であると考えられている。本論文ではモンテカルロ法(MC)により三次元イジングスピングラス模型の計算機実験を行ない、以下に述べるように’グリフィス相’におけるクラスター緩和の振舞と、スピングラス秩序相におけるエイジング現象の振舞を明らかにした。 ’グリフィス相’におけるクラスター緩和 スピングラスの’グリフィス相’における遅い緩和現象は、実験では主に交流帯磁率の測定で観測されてきた。Tcより高温の広い温度領域において、低周波印加磁場による交流帯磁率に周波数()依存性が観測される。強磁性体などの均一系の場合、数ヘルツ程度の低周波領域では依存性は観測されない。さらにこの依存性はDebye則では記述できず、緩和時間が広い時間領域にわたり分布していることを示唆している。実験結果から導出された自己相関関数q(t)は単純な指数関数型ではなく引き延ばされた指数関数、 で記述される。またMCによる研究によっても(1)式の緩和関数が支持されている。 Randeriaらのクラスター理論は、このような’グリフィス相’での遅い緩和機構の説明を試みた次のような現象論である。スピングラスの転移点Tcは、対応する均一系の転移点よりも低い値である。これは相互作用のフラストレーションの効果によるものだが、このフラストレーション濃度は不均一性の効果で局所的に揺らいでいると考えられる。フラストレーション濃度の低い領域のスピンは、Tc<T<の温度領域(’グリフィス相’)においてクラスターを形成し、アレニウス則で全反転する遅い緩和を行う。クラスターの分布を統計的に処理することで、q(t)の関数型として速い冪則、 が予想された。しかし(2)式は実験やMCの示唆する(1)式とは一致しない。 我々は、実験やMCの時間スケールは(2)式の要求する漸近領域に達していないが、実際にはクラスター緩和は起っているのではないかと考えた。クラスター理論の要諦は系の不均一性にある。そこで系全体で平均された後の緩和関数q(t)を解析するのではなく、個々のスピンについてその緩和関数を計算し、その緩和時間分布(ln)を導出して解析することによってクラスター緩和の検証をすることを試みた。その結果、(ln)からクラスター緩和の証拠が検出されたが、理論の予想する緩和時間分布とは単純には一致しないことが分かった。つまり(ln)には温度に依存する特性緩和時間cが存在し、>cの領域でのみ(ln)はクラスター理論と一致することが分かった。一方cはT→Tcに向かって発散し、<cの(ln)は、臨界緩和を示す冪的なq(t)を与える分布形をしている。すなわち(ln)はcを境にして、臨界緩和とクラスター緩和の2つの部分で構成されていることが明らかになった。この結果から、一定温度で測定時間を十分大きくすれば、q(t)は(2)式へ漸近するが、温度をTcに近付けるとスピングラス秩序の相関が成長し、クラスターは飲み込まれていくという描像が得られる。実験などの観測で(1)式のように見えたのはこの2つの緩和が交差する領域で測定していたためだと考えられる。 エイジング現象におけるエネルギー緩和と障壁エネルギー 次にスピングラス相(T<Tc)における遅い緩和を調べた。高温の常磁性相からT<Tcのスピングラス相へ急冷された系では、非平衡緩和現象が観測され続ける。例えば急冷後ある待ち時間twだけ平衡化過程を経験させた系に磁場をかけると、磁化曲線M(;tw)が誘起されるが、数時間以上のtwでもM(;tw)はtwに非常に強く依存している。さらに緩和率S(;tw)≡dM(;tw)/dlnはちょうど〜twに頂上をもつ山なりの曲線になる。このような非平衡緩和現象は"エイジング"と呼ばれ、最近特に注目を集めている。 FisherとHuseはスピングラス相の性質をスケーリングの議論で説明することを試みた。彼等の液滴模型によれば、短距離相互作用をするスピングラス系の純状態は全反転対称な1組しかなく、秩序相の性質はこの純状態から液滴と呼ばれるスピン集団による低励起状態で記述される。この液滴はそれぞれの長さスケールRで定義されその励起エネルギーの平均値FRは、 のようにRに対して冪則で記述される。動的性質については、液滴がアレニウス則に従って障壁エネルギーを越える素過程で記述し、障壁エネルギーの平均値BRは と想定された。Fisherらは、以上の基本的な仮定からスピングラス相の性質に関する議論を展開した。特に急冷後の非平衡緩和については、秩序化された連結空間領域R(t)がアレニウス的緩和により対数則で成長し、その結果他の物理量も対数的時間依存性をすると予想した。しかしこれまでのMCの結果は、液滴模型の予想とは異なり冪的に成長するR(t)を支持している。 そこでこの不一致の理由を探るために、液滴模型の基本的仮定である(3)式と(4)式について別々に検証を行った。急冷後のエイジング過程にある系では秩序化領域R(t)が成長していると考えられる。我々はそのときの系の1スピン当たりのエネルギーeT(t)は、(3)式によりと記述できるのではないかと考え(は熱力学極限の平衡エネルギー)、T〜0.7Tc程度の温度へ急冷後のeT(t)について、次の有限サイズスケーリング を試みた。その結果R(t)∝t1/z(T)としたとき(5)式のスケーリングが成立し、z(T)の値はスピン相関から直接計算したR(t)のz(T)の値と一致した。このことは(5)式のスケーリングの考え方と(3)式の励起エネルギーの予想が正しいことを示唆している。またスケーリングで得られたの値はT=0の基底状態で計算された液滴模型の指数と一致している。 しかし他のMCの結果と同様に秩序化領域成長の時間依存性は冪則(R(t)〜t1/z(T))であり、液滴理論とは一致しない。そこで(4)式の、障壁エネルギーBRを乗り越えるアレニウス的動的過程の予想をより直接的に検証するために、小さい系が全反転する時間スケールの分布を計算した。その結果、緩和時間分布の温度依存性はアレニウス則を満たしていた。そこで緩和時間分布をBRの分布に読み替えたところ、異なるサイズの分布関数R(B)はBR〜lnRだけ平行移動することで一致することが明らかになった。このことは分布の幅は系の大きさに依存せず、その平均値が対数的に大きくなることを示しており液滴模型の仮定とは異なっているが、その理由は今後の課題として残されている。 温度変化を加えたときのエイジング現象 最後にスピングラス相におけるエイジング過程の途中で、温度変化させたときの系の振舞を調べた。このような温度変化を伴うエイジングの実験はこれまでに盛んに行われている。しかしこれらの実験結果を理解するための数値計算はあまり行われてこなかった。そこで我々はこれらの実験を、MCの立場から調べた。 前述のエイジング過程における緩和率S(;tw)の実験で、待ち時間twのあいだ温度をTだけ測定温度Tより変化させておいて、磁場の印加と同時に温度をTにし、誘起磁化を測定すると、温度変化をさせない場合に比べてS(;tw)の頂上が平行移動する現象がみられる。この頂上の移動は温度の違いTによる有効待ち時間のtwからのずれとみなすことができる。実験ではTが小さい場合、T>(<)0のときとなっており、温度が高いと緩和が速く、逆に低いと遅いという解釈ができる。我々はこの解釈を、急冷後の秩序化領域R(t)の成長過程の解析から確かめることを試みた。その結果R(t)は温度変化後も連続的に成長し,のT依存性は、秩序化領域成長R(t)〜t1/z(T)の指数z(T)の温度依存性と関係していることを明らかにした。 一方Tが大きい場合、実験ではTの符合によらずS(;tw)曲線はT=0のS(;tw=0)と一致することが報告されている。これはスピングラス相の純状態が温度によって異なるスピン配置を持っており、Tがある程度大きいと新しい純状態へ最初から緩和をやり直すためではないかと考えられ、カオス効果と呼ばれている。しかし我々のR(t)の解析からはこのようなカオス効果は認められなかった。一方短い時間スケールでの系の応答を詳しく解析するために、交流帯磁率の計算を徐冷をしながら行った。その結果、対応する実験でカオス効果によるものと考えられている現象がMCでも再現された。しかしその効果は実験に比べるとかなり弱いものであり、我々のイジング模型における結果と実験によるカオス効果の振る舞いの間の対応は今のところ明らかではない。今後ハイゼンベルグスピン模型等実験系に近い模型での解析が必要である。 まとめ 我々はMCによる解析を通して、スピングラスの遅い緩和現象における興味深い現象を明らかにすることができた。まだその一部を理解するにとどまっているが、クラスター理論や液滴理論の示すように、フラストレーションと不均一性の効果がスピングラスの遅い緩和現象に大きく貢献していることは間違いなさそうである。今後はMC法の特性をいかし、巨視的な物理量だけではなく空間的に微視的情報を解析することが有効であると考えられる。 |