学位論文要旨



No 114039
著者(漢字) 杉田,篤史
著者(英字)
著者(カナ) スギタ,アツシ
標題(和) 超高速可視・近赤外分光による擬一次元ハロゲン架橋白金混合原子価錯体の励起状態の動力学
標題(洋) Dynamics of excited states in quasi-one-dimensional halogen-bridged mixed-valence platinum complexes by ultrafast visible and near-intrared spectroscopy
報告番号 114039
報告番号 甲14039
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3528号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 助教授 山本,智
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨

 擬一次元ハロゲン架橋金属錯体は遷移金属イオンと架橋ハロゲンイオンとが直線状に交互に並んだ構造の擬一次元物質である。この錯体の最も重要な特徴の一つは、電子格子相互作用が大きい点であり、基底状態はハロゲンイオンが金属イオン間の中心から変位した位置に安定に存在する電荷密度波状態である。また、強い電子格子相互作用は励起状態の格子緩和過程に反映されており、これまでの研究から自己束縛励起子、ソリトン、ポーラロン等の非線形素励起状態の生成が確認されている。さて、従来の非線形素励起状態に関する研究は、一部の例外を除いて比較的時間スケールの遅いマイクロ秒、ミリ秒領域の研究が主であった。しかしながら、非線形素励起状態の性格を決定する上で重要な動的過程の起こる時間はフォノンがコヒーレントに運動しているフェムト秒ピコ秒の時間領域にあると考えられる。従ってこの物質の励起状態の緩和過程を正確に理解するために、この時間領域の動的過程を研究することは、最も重要でかつ、非常に興味のある課題である。本論文では、このような観点から3種類の擬一次元ハロゲン架橋白金錯体([Pt(en)2][Pt(en)2X2](ClO4)4(X=Cl,Br,I))を選び、その非線形素励起状態の超高速過程を研究した。以下Pt-X(X=Cl,Br,I)と呼ぶことにする。

 実験方法はフェムト秒ポンププローブ分光法による時間分解吸収スペクトルの測定である。光源はチタンサファイア再生増幅器からのフェムト秒出力パルスである。試料を光励起するためのポンプ光には増幅パルス光の基本波光(0.775m)及び第二高調波光(0.388m)を用いた。一方、吸光度変化は0.5-2.7mの広いスペクトル領域で測定した。プローブ光として0.5-1.6mの可視から近赤外光領域の測定には自己位相変調効果によって得らたフェムト秒白色光を、1.2-2.7mの近赤外光はパラメトリック増幅過程により得られた差周波光を用いている。

 まず、Pt-Brについての超高速過程の研究をした。光子エネルギー1.6eV(0.775mに対応)、3.2eV(同0.388m)の光はそれぞれ励起子吸収帯、伝導帯を光励起する。図1に過渡吸収スペクトルを示す。0.9eVよりも高エネルギー側と0.8eVよりも低エネルギー側の2つの領域において過渡吸収が観測された。3.2eV励起においても同様の吸収スペクトルが観測されたが、スペクトルはおおむね同様なものであった。

図1室温におけるPt-Brの過渡吸収スペクトル。励起光エネルギーは1.60eVであり、励起光、プローブ光の変更及び試料の配向方向は互いに平行である。励起密度は1.3×1016photons/cm2である。

 高エネルギー側の吸収は中性ソリトンによる吸収、低エネルギー側の吸収は自己束縛励起子による吸収と同定した。最初に自己束縛励起子の吸収について議論する。その時間変化は式(1)のように2つの指数間数型の減衰をする成分の和で表わされた(図2(a))。

 

 最小二乗法により、0.7eVにおいて時定数1=700±20fs、2=170±10psと見積もられた。ここで1は励起子の熱化に要する時間、2は熱化した自己束縛励起子の寿命である。このうち、1は高エネルギーになるほどその値が大きくなるというエネルギー依存性が観測された。また、光励起後5ps以内では過渡吸収スペクトルのピークエネルギーが時間と共に高エネルギー側へと青方偏移する様子も観測された。これらは自己束縛励起子の分布が熱化過程の間にポテンシャル面の高い部分から低い部分へと再分配されたことを反映する結果である。また、熱化過程の前後を比較すると、スペクトル積分した吸光度の大きさが約70%減少することが見出された。これは励起子の熱化の際に大部分の励起子が、他の状態へと無輻射的に遷移したことを意味するものと言える。時定数の温度依存性及び基底状態の退色が回復するに要する時間を考慮すると分布の減少は励起子が直接基底状態へと緩和したためであると思われる。

図2Pt-Brの過渡吸収の時間変化。実験条件は図1と同じである。図2(b)は励起光強度が1.3×1016(○)及び1.3×1015photons/cm2(●)の2つの場合について示した。図中の実線は式(1)、(2)に基づいてフィッティングを行った結果である。

 一方、高エネルギー側には2種類の中性ソリトンによる吸収が観測された。吸収の時間変化は両対数表示すると、このスケールで直線的な変化をすることが分かる(図3)。これは一次元線上で対となる励起状態が酔歩運動後対消滅する過程を表わし、

 

 と記述される。ここでn1=0.80±0.04、1=0.83±0.05ps-1、n2=0.45±0.03、2=(2.0±0.7)×10-2ps-1と見積もられた。以下、式(2)の第1項の速く減衰する中性ソリトンをソリトンA、第2項の遅く減衰する中性ソリトンをソリトンBと呼ぶことにする。対生成されたソリトンの運動はその冪の値から特徴づけられる。理想的な一次元線上での対消滅過程の場合、冪の値は0.5である。従って、ソリトン対Bは冪の値がn2=0.45と、理想的な一元系の場合と近い値を持っていることが分かる。この場合、ソリトン・反ソリトン対は互いに十分離れており、酔歩運動においてソリトンが反ソリトンに近づく確率は遠ざかる確率と同じであるものと考えられる。一方、ソリトンAではn1=0.80と0.5よりもかなり大きいことが分かる。この理由として、ソリトンが反ソリトンに近づく確率は遠ざかる確率よりも大きく、理想的な一次元系と比較して実効的にソリトン対は速く減衰するという点が挙げられる。理論的にソリトン-反ソリトン間の距離が近い場合、これらの間の相互作用は引力的であることが示されている。この引力のためにソリトン対は空間的に限られた領域に閉じ込められており、対消滅の確率が増加したものと考えている。

図3Pt-Brの過渡吸収の時間変化。ポンプ光、プローブ光はそれぞれ1.6eV、1.2eVである。励起光強度はそれぞれ(a)1.3×1015,(b)1.3×1016photons/cm2である

 Pt-Cl、Pt-Iについての過渡吸収スペクトルを求め、Pt-Brにおける実験結果と比較したが、緩和過程は同様に記述され、非線形励起状態として自己束縛励起子、2種類の中性ソリトンの生成が確認された。これまでの研究からハロゲンイオンを置換すると電子格子相互作用の大きさと金属サイト間のトランスファーエネルギーの大きさを変化させられることが知られている。すなわちハロゲンイオンの半径が大きいほど電子格子相互作用は小さく、逆にトランスファーエネルギーは大きくなる。従って、Pt-Cl、Pt-Br,Pt-Iの順で電荷移動が起りやすくなる。この影響は早く減衰する中性ソリトンAの拡散レートの大きさに表われている。拡散レートはPt-Cl,Pt-Br、Pt-Iの順で、0.67、0.83、1.47ps-1とハロゲンハロゲンの半径が増加すると共に値は増加する傾向が見られた。拡散レートの値が大きいということはそれだけサイト間のホッピングが起りやすいということを意味する。Pt-Cl、Pt-Br、Pt-Iの順でホッピングが起こりやすいという結果はトランスファーエネルギーのハロゲンイオン依存性を考えると妥当であるといえる。

 一方、励起子の熱化の速さにもハロゲンイオン依存性が観測されており、Pt-Cl,Pt-Br,Pt-Iの順で速くなることが分かった。先に延べたように励起子の熱化の際、その分布の一部は量子力学的なトンネル効果により基底状態へ無輻射的に緩和しているということが示された。したがって、緩和の速さは振動緩和のレートとトンネル効果による緩和レートの2種類の緩和過程の寄与によって決定される。このうち、励起子の緩和の速さは主にトンネル効果の起りやすさによって決定されていることが分かった。その傾向は簡単な調和振動子モデルを用いることで定性的に説明された。

審査要旨

 この論文は7章からなり、擬一次元ハロゲン架橋白金錯体の励起状態の動力学を超高速可視・近赤外分光によって研究した結果を英文でまとめている.

 第1章の前文で研究の意義と論文の構成を簡単に紹介している.第2章ではこの物質の構造と物性を紹介している.この論文で取り扱ったハロゲン架橋白金錯体はハロゲンイオンと白金イオンが交互に直線上に並んだ典型的な擬一次元として有名なものであり、その基底状態は白金イオンの価数が交互に変化するとともにハロゲンイオンが対称位置からずれた電荷密度波状態であること、強い電子格子相互作用のために自己束縛励起子(STE)、ソリトン、ポーラロンなど多彩な非線形励起状態が存在し、その励起状態のダイナミックスに興味がもたれていることを述べている.

 第3章では実験装置と手法について述べている.実験手法としてはフェムト秒ポンププローブ法による時間分解吸収スペクトルの測定を用いている.ポンプにはTiサファイア再生増幅パルスまたはその2倍波を用い、プローブ光としては可視から1.6mの近赤外では自己位相変調による白色光を、それより長波長2.7mまではパラメトリック増幅過程により得られた差周波を用いている.近赤外の強力なフェムト秒パルス光源は市販の装置では得ることが困難で、申請者自身の手で製作されている.これはかなり高度な実験技術であり、実験研究者としての水準の高さが伺える.

 第4章から6章はそれぞれ異なる試料についての研究結果の記述に当てられている.第4章と5章でそれぞれハロゲンイオンとして塩素および臭素を含む系(それぞれPt-Cl,Pt-Brと記す)について過渡吸収スペクトルおよび吸収強度の時間依存性の詳細な実験結果と解析を示している.スペクトルの同定と解釈はこれらの2つの系でほとんど同じなので、平行して進められている.Pt-Clでは1.5eVより高いエネルギー領域に3つの吸収帯、低いエネルギー領域で1つの吸収帯を見出し、さらにそれらの時間的な振舞いが約1.5eVを境にはっきり異なることを見出した.またPt-Brでは境界を0.8〜0.9eVとしてやはり高エネルギーと低エネルギー領域に同様のスペクトルが現れることを見出した.

 まず低エネルギー領域に現れる吸収帯の時間変化は指数関数と延伸型指数関数の和として表されることを示し、Pt-Brについてそれぞれ700fsと48psの時定数を得た.スペクトルのエネルギー位置とともに総合的に吟味した結果、前者は自己束縛励起子の熱化に要する時間、後者は熱化したSTEの寿命と同定された.また5ps以内ではピークエネルギーが時間とともに高エネルギー側へ偏移する様子も観測されているが、これは分布がポテンシャルの低い方へ再配分される過程と解釈された.また全吸収強度の減少から、熱化の際に大部分のSTEが無輻射的に他の状態へ遷移することが分かった.これは擬一次元ハロゲン架橋白金錯体における緩和機構を解明する上で重要な発見である.

 一方、高エネルギー側の吸収帯は長寿命と短寿命の2つの成分からなり、いずれも酔歩運動による対消滅に特有のべき関数で表わされる減衰を示すことがわかった.これらは何れもソリトンの対消滅によるものと解釈された.Pt-Brの場合、長寿命成分のべきは0.45と決定されたが、このべきの値は理想的な1次元系で期待される0.5に近いので、対消滅は十分に広い1次元空間におけるソリトンの拡散によるものと推定できる.また短寿命成分のべきは0.80という大きな値で、、空間的に限られた領域でのソリトンの対消滅によると解釈された.このような2種類のソリトンが具体的にどのようにして共存するかについては、この論文の範囲では解明できなかったが、現象論的な解釈としては妥当であり評価できる.これらの解釈はPt-Clについても基本的に同様である.擬一次元ハロゲン架橋白金錯体においてこのようなSTEとソリトンの生成消滅過程をこの時間領域で研究したのは初めてであり実験研究として高く評価できる.

 6章ではPt-Iについて同様の結果が示したあと、Pt-Cl、Pt-Br、Pt-Iの3種類の系における結果を比較し、ハロゲンイオンの違いによる系統的な振舞いの変化を論じた.短寿命のスピンソリトンの拡散係数と非熱化STEのソリトンへの緩和速度が、ハロゲンイオンの半径とともに増加するという系統的な変化を見出し、これらの系統的な変化に対する説明を試みている.解釈は推測の域を出ないと思われる面もあるが、少なくとも実験的には貴重な情報を提供しており、このような研究の方向は、励起状態の緩和の機構を解明する上で有意義なものであると認められる.

 以上のように、この論文では一連の擬一次元ハロゲン架橋白金錯体についてフェムト秒領域での緩和過程について実験的に多くの新しい知見が得られており、当該分野において重要な寄与をしている.また本研究はほとんど本人の独力により遂行されたものと認められる.よって審査委員全員の一致によりこの論文は博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものと判断した.

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