擬一次元ハロゲン架橋金属錯体は遷移金属イオンと架橋ハロゲンイオンとが直線状に交互に並んだ構造の擬一次元物質である。この錯体の最も重要な特徴の一つは、電子格子相互作用が大きい点であり、基底状態はハロゲンイオンが金属イオン間の中心から変位した位置に安定に存在する電荷密度波状態である。また、強い電子格子相互作用は励起状態の格子緩和過程に反映されており、これまでの研究から自己束縛励起子、ソリトン、ポーラロン等の非線形素励起状態の生成が確認されている。さて、従来の非線形素励起状態に関する研究は、一部の例外を除いて比較的時間スケールの遅いマイクロ秒、ミリ秒領域の研究が主であった。しかしながら、非線形素励起状態の性格を決定する上で重要な動的過程の起こる時間はフォノンがコヒーレントに運動しているフェムト秒ピコ秒の時間領域にあると考えられる。従ってこの物質の励起状態の緩和過程を正確に理解するために、この時間領域の動的過程を研究することは、最も重要でかつ、非常に興味のある課題である。本論文では、このような観点から3種類の擬一次元ハロゲン架橋白金錯体([Pt(en)2][Pt(en)2X2](ClO4)4(X=Cl,Br,I))を選び、その非線形素励起状態の超高速過程を研究した。以下Pt-X(X=Cl,Br,I)と呼ぶことにする。 実験方法はフェムト秒ポンププローブ分光法による時間分解吸収スペクトルの測定である。光源はチタンサファイア再生増幅器からのフェムト秒出力パルスである。試料を光励起するためのポンプ光には増幅パルス光の基本波光(0.775m)及び第二高調波光(0.388m)を用いた。一方、吸光度変化は0.5-2.7mの広いスペクトル領域で測定した。プローブ光として0.5-1.6mの可視から近赤外光領域の測定には自己位相変調効果によって得らたフェムト秒白色光を、1.2-2.7mの近赤外光はパラメトリック増幅過程により得られた差周波光を用いている。 まず、Pt-Brについての超高速過程の研究をした。光子エネルギー1.6eV(0.775mに対応)、3.2eV(同0.388m)の光はそれぞれ励起子吸収帯、伝導帯を光励起する。図1に過渡吸収スペクトルを示す。0.9eVよりも高エネルギー側と0.8eVよりも低エネルギー側の2つの領域において過渡吸収が観測された。3.2eV励起においても同様の吸収スペクトルが観測されたが、スペクトルはおおむね同様なものであった。 図1室温におけるPt-Brの過渡吸収スペクトル。励起光エネルギーは1.60eVであり、励起光、プローブ光の変更及び試料の配向方向は互いに平行である。励起密度は1.3×1016photons/cm2である。 高エネルギー側の吸収は中性ソリトンによる吸収、低エネルギー側の吸収は自己束縛励起子による吸収と同定した。最初に自己束縛励起子の吸収について議論する。その時間変化は式(1)のように2つの指数間数型の減衰をする成分の和で表わされた(図2(a))。 最小二乗法により、0.7eVにおいて時定数1=700±20fs、2=170±10psと見積もられた。ここで1は励起子の熱化に要する時間、2は熱化した自己束縛励起子の寿命である。このうち、1は高エネルギーになるほどその値が大きくなるというエネルギー依存性が観測された。また、光励起後5ps以内では過渡吸収スペクトルのピークエネルギーが時間と共に高エネルギー側へと青方偏移する様子も観測された。これらは自己束縛励起子の分布が熱化過程の間にポテンシャル面の高い部分から低い部分へと再分配されたことを反映する結果である。また、熱化過程の前後を比較すると、スペクトル積分した吸光度の大きさが約70%減少することが見出された。これは励起子の熱化の際に大部分の励起子が、他の状態へと無輻射的に遷移したことを意味するものと言える。時定数の温度依存性及び基底状態の退色が回復するに要する時間を考慮すると分布の減少は励起子が直接基底状態へと緩和したためであると思われる。 図2Pt-Brの過渡吸収の時間変化。実験条件は図1と同じである。図2(b)は励起光強度が1.3×1016(○)及び1.3×1015photons/cm2(●)の2つの場合について示した。図中の実線は式(1)、(2)に基づいてフィッティングを行った結果である。 一方、高エネルギー側には2種類の中性ソリトンによる吸収が観測された。吸収の時間変化は両対数表示すると、このスケールで直線的な変化をすることが分かる(図3)。これは一次元線上で対となる励起状態が酔歩運動後対消滅する過程を表わし、 と記述される。ここでn1=0.80±0.04、1=0.83±0.05ps-1、n2=0.45±0.03、2=(2.0±0.7)×10-2ps-1と見積もられた。以下、式(2)の第1項の速く減衰する中性ソリトンをソリトンA、第2項の遅く減衰する中性ソリトンをソリトンBと呼ぶことにする。対生成されたソリトンの運動はその冪の値から特徴づけられる。理想的な一次元線上での対消滅過程の場合、冪の値は0.5である。従って、ソリトン対Bは冪の値がn2=0.45と、理想的な一元系の場合と近い値を持っていることが分かる。この場合、ソリトン・反ソリトン対は互いに十分離れており、酔歩運動においてソリトンが反ソリトンに近づく確率は遠ざかる確率と同じであるものと考えられる。一方、ソリトンAではn1=0.80と0.5よりもかなり大きいことが分かる。この理由として、ソリトンが反ソリトンに近づく確率は遠ざかる確率よりも大きく、理想的な一次元系と比較して実効的にソリトン対は速く減衰するという点が挙げられる。理論的にソリトン-反ソリトン間の距離が近い場合、これらの間の相互作用は引力的であることが示されている。この引力のためにソリトン対は空間的に限られた領域に閉じ込められており、対消滅の確率が増加したものと考えている。 図3Pt-Brの過渡吸収の時間変化。ポンプ光、プローブ光はそれぞれ1.6eV、1.2eVである。励起光強度はそれぞれ(a)1.3×1015,(b)1.3×1016photons/cm2である Pt-Cl、Pt-Iについての過渡吸収スペクトルを求め、Pt-Brにおける実験結果と比較したが、緩和過程は同様に記述され、非線形励起状態として自己束縛励起子、2種類の中性ソリトンの生成が確認された。これまでの研究からハロゲンイオンを置換すると電子格子相互作用の大きさと金属サイト間のトランスファーエネルギーの大きさを変化させられることが知られている。すなわちハロゲンイオンの半径が大きいほど電子格子相互作用は小さく、逆にトランスファーエネルギーは大きくなる。従って、Pt-Cl、Pt-Br,Pt-Iの順で電荷移動が起りやすくなる。この影響は早く減衰する中性ソリトンAの拡散レートの大きさに表われている。拡散レートはPt-Cl,Pt-Br、Pt-Iの順で、0.67、0.83、1.47ps-1とハロゲンハロゲンの半径が増加すると共に値は増加する傾向が見られた。拡散レートの値が大きいということはそれだけサイト間のホッピングが起りやすいということを意味する。Pt-Cl、Pt-Br、Pt-Iの順でホッピングが起こりやすいという結果はトランスファーエネルギーのハロゲンイオン依存性を考えると妥当であるといえる。 一方、励起子の熱化の速さにもハロゲンイオン依存性が観測されており、Pt-Cl,Pt-Br,Pt-Iの順で速くなることが分かった。先に延べたように励起子の熱化の際、その分布の一部は量子力学的なトンネル効果により基底状態へ無輻射的に緩和しているということが示された。したがって、緩和の速さは振動緩和のレートとトンネル効果による緩和レートの2種類の緩和過程の寄与によって決定される。このうち、励起子の緩和の速さは主にトンネル効果の起りやすさによって決定されていることが分かった。その傾向は簡単な調和振動子モデルを用いることで定性的に説明された。 |