本論文は、水素原子が吸着したシリコン表面上の静的な原子配列構造および原子振動特性について、理論的に明らかにした研究である。系の電子状態を計算してポテンシャルエネルギー面を求めながら行う新しい強結合分子動力学法を開発した。それによって、第一原理計算では取り扱えない大規模系に適用したり、原子振動の緩和などの現象を解析するための長時間シミュレーションが可能になった。その結果、水素吸着表面の超構造での安定な原子配列およびドメイン境界の生成などが導き出された。また、走査トンネル顕微鏡(STM)探針で励起された特定の一つの原子間結合の振動が局在すること、またその局在の原因を明らかにすることができた。この研究によって、STMを用いた原子レベルの極微構造の形成メカニズムの一端が明かとなり、これからの実験および理論的研究に重要な示唆を与えるものである。特に、物性物理学としての興味だけでなく、原子尺度の極微構造をデバイスに利用した、将来のナノスケールデバイスへの応用研究にとっても重要な知見を与える研究である。 本論文は五つの章から構成され、第1章では本研究の背景、特に、すでに明らかになっている実験事実をまとめ、その中から生まれた問題意識を明らかにし、本研究の目的が述べられている。第2章では本研究で用いた理論的計算手法、特に、新しい強結合モデルおよび、分子動力学法について述べられている。第3章では水素吸着シリコン(001)表面の静的な原子配列構造と原子振動の状態密度の計算結果について述べられている。第4章では特定の一つの水素・シリコン原子結合に振動を励起したときの系全体の原子振動の様子、特に、特定の振動モードの局在現象と振動エネルギーの散逸過程についての計算結果を述べ、、最後に第5章で本論文で明らかにされた結果をまとめている。 最近の表面物理の分野での研究の進展は目ざましく、表面近傍での特殊な原子配列構造や個々の原子の結合状態などの電子構造が明らかにされつつある。特に、STMを利用して原子1個1個を操作して所望の位置に並べたり、所望の位置の原子を引き抜くことが可能になってきた。そうすると、特異な電子状態が形成され、新規な物性の発現が期待できる。本論文は、実験で実際に作られている水素吸着シリコン(001)表面の安定原子配列構造を理論的に明らかにし、さらにSTMを持ちいて実際に行われている特定の水素原子の「引き抜き」という現象について、そのメカニズムを理論的に明らかにした先駆的研究である。 計算に用いたモデルは、シリコン原子層5層からなる系で、底面は水素終端された理想表面、上面は水素の吸着量に応じて、2×1(モノハイドライド・ダイマーSi)、3×1(モノハイドライド・ダイマーSiとダイハイドライドSi)、および1×1(ダイハイドライドSi)超構造をとる。 解析の結果以下のことが明かとなった。 (1)本研究で開発した強結合モデルで求めた最安定原子配列構造は、第一原理計算の結果と良く一致した。特に、1×1表面では、水素原子間の斥力によって、傾いたダイハイドライド構造を再現した。また、本研究で行った大規模計算で初めて明らかになったことは、ダイハイドライドの傾く方向が反対向きのドメインを形成し、その間に特異な構造を持つドメイン境界が形成されうることである。 (2)振動状態密度を計算し、表面最上層のSi-H原子間の伸縮振動、はさみ振動、および、曲がり振動モードを各表面で求め、構造に依存して振動数が異なることを明らかにした。 (3)STMによる局所的な原子振動の励起を想定して、一つのH-Si結合間の振動を励起させ、そのあとの振動エネルギーの拡散の様子を長時間シミュレーションで追跡した。その結果、 (a)Si-Hの伸縮振動は、2×1と3×1表面では、そのSi-Hボンドだけに振動エネルギーが局在し、周囲の原子に散逸しないことが明かとなった。この現象によって、STM探針直下の水素原子だけが、振動の多重励起によって脱離することが説明できる。 (b)この振動エネルギーの局在は、Si-Hボンドの強い非線型性に起因することを明らかにした。 (c)1×1表面では、傾いたダイハイドライドを介して振動エネルギーが散逸してしまうことがわかり、これによって、この表面では、2×1や3×1表面と異なり、STM探針によって局所的に原子を引き抜くことは難しいと予想される。 (d)3×1表面では、励起されたボンドの振動エネルギーが徐々に散逸されるのではなく、多量のエネルギーが一挙に放出されるphonon burstという現象が起きることを見いだした。これは、基板温度が高いときに起こりやすく、振動エネルギーの散逸を速める作用をする。これは、基板温度の上昇とともに、所望の水素原子をSTM探針で引き抜くことが難しいという実験事実と矛盾しない。 以上のように、論文提出者は、水素が吸着したシリコン表面上に形成される超構造に対して、原子配列および原子振動の励起・散逸について強結合モデルに基づいた分子動力学法による計算を実行し、第一原理では取り扱えない大規模系および長時間にわたる振動シミュレーションを行ない、実験で見い出されている現象の微視的なメカニズムを解明するとともに、特異な原子配列構造も予言した。このように本研究は、実験にさきがける先駆的な研究でもあり、その独創性が認められたため、博士(理学)の学位論文として十分の内容をもつものと認定し、審査員全員で合格と判定した。なお、本論文は、共同研究者らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって計算および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 |