学位論文要旨



No 114042
著者(漢字) 田上,勝規
著者(英字)
著者(カナ) タガミ,カツノリ
標題(和) 強結合分子動力学法による水素終端Si(001)表面の動的性質
標題(洋) Dynamic Properties of Hydrogen Terminated Si(001)Surfaces Studied by Tight-Binding MD Method
報告番号 114042
報告番号 甲14042
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3531号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 助教授 吉信,淳
 東京大学 助教授 河野,公俊
 東京大学 教授 西永,頌
内容要旨

 現在、半導体集積回路に対しその小型化及び集積性が益々求められているが、近い将来、原子サイズでの加工が要求されると思われる。が、今ある表面加工技術では、微細加工という点で限界を迎えつつある。しかし、近年、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いた半導体表面の加工が原子スケールでも可能であることが発表され、大いなる注目を浴びている。STMといえば金属表面などで原子の移動をさせるといった話が有名だが、新しい手法は、試料と探針の間を流れるトンネル電流および電圧を制御することにより、表面に極めて安定に化学吸着した原子をも脱離させるというものである。この脱離メカニズムは工業的に重要であるのみならず、物理現象としても非常に興味のある内容を豊富に含んでいる。一方、加工されるべき試料の作成技術も改善されつつあり、表面構造やそのダイナミクスに対し理論的側面からの研究も今までにまして重要になってきている。

 脱離は強電場のもとでは、直接的な電子励起により起こると考えられている。しかし、電圧がさほど大きくなくても、電流を増やすことにより脱離は起こせるのである。これは、電子刺激により探針下の吸着子の振動励起を蓄積させ、やがて脱離にまで至るというものである。しかもこのとき、脱離は原子スケールで制御可能であり、工業的にも非常に重要である。ここで、振動励起といっても実際には、励起と散逸の競合過程であり(図1)、散逸速度のいかんにより、脱離量は大きく影響される。本論文では、その脱離メカニズムの研究の第一歩として、半導体吸着表面の中から、とりわけ重要なH/Si(001)表面の散逸過程について研究する。

 我々は、提案されている脱離メカニズムに対し、以下のような疑問を感じた。

 1.蓄積される振動励起は、Si-Hボンドの伸縮振動のみか。

 2.調和近似の議論で充分か。

 3.表面構造等の環境が散逸にどのように影響するか。

 これらの問題を、強結合分子動力学法(tight-binding molecular-dynamics method)を用いて、解明する。なお、この手法は、第一原理計算ほどの精度は出ないが、系の電子状態を解いているため、現象論的なポテンシャルに頼る計算に比べ信頼性が高い。しかも、我々の扱う計算は大規模系であったり、長時間のシミュレーションが求められ、第一原理計算では到達できないものである。

 我々の本論文における興味は、系のdynamicな性質であるが、これは表面構造等のstaticな性質に大きく依存する。従って、staticな構造についての研究は欠かせないものである。Si(001)/H表面には、水素の吸着量に応じて、2×1、3×1、1×1の3つの構造が知られている。まず、これらの相の安定構造を計算し、いずれの構造とも第一原理計算とよく一致する結果を得た。特に、1×1表面では吸着した水素間の斥力が強く、もはやsymmetricな構造はとれず、ダイハイドライドが傾いてしまう。この水素原子間の斥力的相互作用は、振動状態密度にも新たなピークとして顔を出すのみならず、表面にドメインウォールをも生成しうることも発見した。後者については、大規模系の計算から初めて明らかになったものである。なお、ドメインウォールを1つ生成するのに、1.3-1.5eV要することが分かったが、我々のモデルは、ダイハイドライドが傾くことで得られる安定化エネルギーが過大評価される傾向にあり、このことを考慮すれば、このエネルギーはもっと少なくてすむだろう。従って、極めて広い領域にわたり、連続したSi(001)/H(1×1)表面が実験的に作成されれば、その表面ではドメインウォールの移動が室温程度でも観測される可能性がある。

 次に、dynamicな性質、すなわち局所的に励起された振動エネルギーの散逸の様子を調べた。時刻t=0にて、平衡状態にある系の表面の、1つのSi-Hボンドを叩いてやり、その後のエネルギーの流れを分子動力学により追跡した。この、単一ボンドの刺激は、STMの探針直下で起きると考えられている状況をまねたものである。結果、Si-Hボンドをbendingの方向に刺激した場合、局所的に与えた振動エネルギーは、隣のSi-Hボンドのみならず、バルク中にも効率よく伝わっていくことが分かった。これに対し、stretchingの方向に刺激すると、極めて安定にエネルギーが局在した。これは、2つの理由によると考えられる。まず、伸縮振動モード自体が非常に振動数が高く、バルクの振動数から大きく離れている。このため、伸縮振動モードが表面近傍に局在するのである。そして、伸縮振動のポテンシャルの非線形性がこの局在をさらに強め、エネルギーを単一のボンド中に閉じこめてしまうのである。従って、脱離現象の記述にも、この種の非線形効果を取り入れる必要があると考えられる。

 こういった、ボンドの非線形性による振動の局在は理論的側面から研究されてきていたが、実際に3次元的な表面で議論したものは少なく、ごく最近数例あるのみである。従って、Si(001)/H表面でも振動が局在しうることを示したのは意味がある。実験的には、こうした局在モードを確認するのが難しいものの、水素吸着表面は、観測しうる可能性のある系と考えられ、非線形ダイナミクスの分野では益々注目されると思われる。

 この局在した振動エネルギーは、系の温度を高くするにつれ、その散逸が速くなる傾向があることが分かった。この傾向は、種々の表面で観測される振動モードの寿命でもみられている。また、特に重要なのは、表面構造の違いが大きく散逸メカニズムに影響するという点である。2×1表面では、加えられた振動エネルギーはゆっくりと穏やかに減衰したが、3×1表面では、phonon burstのような現象がみられ、drasticな減衰がみられた。これは、3×1表面上のダイハイドライドが大きく関与していると考えられた。すなわち、モノハイドライドからダイハイドライドにエネルギーが流れやすいと思われる。実際、ダイハイドライド終端のSi(111)テラス上のSi-H伸縮振動の寿命も同様の傾向を示している。最後に、1×1表面では、さらに別のエネルギーの流れが見つかった。この表面では、基板を介さず、直接、隣接した水素原子間をを伝わる散逸機構が有効に働き、極めて短時間でエネルギーを非局在化させられた。以上のように、表面により全く異なる散逸メカニズムが働くのである。

 本研究を通じ、静的並びに動的性質において表面におけるダイハイドライドの存在が鍵となることが分かった。

Figure1:トンネル電流による振動励起は、散逸との競合過程にある。
審査要旨

 本論文は、水素原子が吸着したシリコン表面上の静的な原子配列構造および原子振動特性について、理論的に明らかにした研究である。系の電子状態を計算してポテンシャルエネルギー面を求めながら行う新しい強結合分子動力学法を開発した。それによって、第一原理計算では取り扱えない大規模系に適用したり、原子振動の緩和などの現象を解析するための長時間シミュレーションが可能になった。その結果、水素吸着表面の超構造での安定な原子配列およびドメイン境界の生成などが導き出された。また、走査トンネル顕微鏡(STM)探針で励起された特定の一つの原子間結合の振動が局在すること、またその局在の原因を明らかにすることができた。この研究によって、STMを用いた原子レベルの極微構造の形成メカニズムの一端が明かとなり、これからの実験および理論的研究に重要な示唆を与えるものである。特に、物性物理学としての興味だけでなく、原子尺度の極微構造をデバイスに利用した、将来のナノスケールデバイスへの応用研究にとっても重要な知見を与える研究である。

 本論文は五つの章から構成され、第1章では本研究の背景、特に、すでに明らかになっている実験事実をまとめ、その中から生まれた問題意識を明らかにし、本研究の目的が述べられている。第2章では本研究で用いた理論的計算手法、特に、新しい強結合モデルおよび、分子動力学法について述べられている。第3章では水素吸着シリコン(001)表面の静的な原子配列構造と原子振動の状態密度の計算結果について述べられている。第4章では特定の一つの水素・シリコン原子結合に振動を励起したときの系全体の原子振動の様子、特に、特定の振動モードの局在現象と振動エネルギーの散逸過程についての計算結果を述べ、、最後に第5章で本論文で明らかにされた結果をまとめている。

 最近の表面物理の分野での研究の進展は目ざましく、表面近傍での特殊な原子配列構造や個々の原子の結合状態などの電子構造が明らかにされつつある。特に、STMを利用して原子1個1個を操作して所望の位置に並べたり、所望の位置の原子を引き抜くことが可能になってきた。そうすると、特異な電子状態が形成され、新規な物性の発現が期待できる。本論文は、実験で実際に作られている水素吸着シリコン(001)表面の安定原子配列構造を理論的に明らかにし、さらにSTMを持ちいて実際に行われている特定の水素原子の「引き抜き」という現象について、そのメカニズムを理論的に明らかにした先駆的研究である。

 計算に用いたモデルは、シリコン原子層5層からなる系で、底面は水素終端された理想表面、上面は水素の吸着量に応じて、2×1(モノハイドライド・ダイマーSi)、3×1(モノハイドライド・ダイマーSiとダイハイドライドSi)、および1×1(ダイハイドライドSi)超構造をとる。

 解析の結果以下のことが明かとなった。

 (1)本研究で開発した強結合モデルで求めた最安定原子配列構造は、第一原理計算の結果と良く一致した。特に、1×1表面では、水素原子間の斥力によって、傾いたダイハイドライド構造を再現した。また、本研究で行った大規模計算で初めて明らかになったことは、ダイハイドライドの傾く方向が反対向きのドメインを形成し、その間に特異な構造を持つドメイン境界が形成されうることである。

 (2)振動状態密度を計算し、表面最上層のSi-H原子間の伸縮振動、はさみ振動、および、曲がり振動モードを各表面で求め、構造に依存して振動数が異なることを明らかにした。

 (3)STMによる局所的な原子振動の励起を想定して、一つのH-Si結合間の振動を励起させ、そのあとの振動エネルギーの拡散の様子を長時間シミュレーションで追跡した。その結果、

 (a)Si-Hの伸縮振動は、2×1と3×1表面では、そのSi-Hボンドだけに振動エネルギーが局在し、周囲の原子に散逸しないことが明かとなった。この現象によって、STM探針直下の水素原子だけが、振動の多重励起によって脱離することが説明できる。

 (b)この振動エネルギーの局在は、Si-Hボンドの強い非線型性に起因することを明らかにした。

 (c)1×1表面では、傾いたダイハイドライドを介して振動エネルギーが散逸してしまうことがわかり、これによって、この表面では、2×1や3×1表面と異なり、STM探針によって局所的に原子を引き抜くことは難しいと予想される。

 (d)3×1表面では、励起されたボンドの振動エネルギーが徐々に散逸されるのではなく、多量のエネルギーが一挙に放出されるphonon burstという現象が起きることを見いだした。これは、基板温度が高いときに起こりやすく、振動エネルギーの散逸を速める作用をする。これは、基板温度の上昇とともに、所望の水素原子をSTM探針で引き抜くことが難しいという実験事実と矛盾しない。

 以上のように、論文提出者は、水素が吸着したシリコン表面上に形成される超構造に対して、原子配列および原子振動の励起・散逸について強結合モデルに基づいた分子動力学法による計算を実行し、第一原理では取り扱えない大規模系および長時間にわたる振動シミュレーションを行ない、実験で見い出されている現象の微視的なメカニズムを解明するとともに、特異な原子配列構造も予言した。このように本研究は、実験にさきがける先駆的な研究でもあり、その独創性が認められたため、博士(理学)の学位論文として十分の内容をもつものと認定し、審査員全員で合格と判定した。なお、本論文は、共同研究者らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって計算および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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