学位論文要旨



No 114043
著者(漢字) 武田,さくら
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,サクラ
標題(和) シリコン表面上のインジウムの吸着構造と電子構造の研究
標題(洋)
報告番号 114043
報告番号 甲14043
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3532号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 寿栄松,宏仁
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 助教授 渡邉,聡
内容要旨

 超高真空中の結晶の清浄表面や吸着表面では、その構成要素である基板原子や吸着原子のバルク結晶構造とは全く異なる原子配列、電子状態を持つ表面超構造が形成される。また、表面吸着量が増加すると、数Å〜数nmの厚さを持った超薄膜や、微結晶が表面超構造の影響下で形成される。サイズ効果により、これらもまた結晶内部と異なる物理的性質を持つ。

 表面構造は低次元系という観点からも興味が持たれる。低次元物質ではその低次元性に由来して、相転移における大きな臨界揺動、パイエルス転移、また1次元電子系の朝永-ラッティンジャー流体としての振るまい等が発現する。低次元物質としてはこれまでにカルコゲナイト酸化物、遷移金属酸化物、1次元有機伝導体等が用いられて研究が行われてきたが、低次元物質である表面構造でもこれらの性質の発現が期待される。

 本研究では低温におけるIn吸着Si(111)表面構造について調べた。In吸着Si(111)表面は特に多様な超構造を形成する表面として知られている。さらにここ数年、これまでに報告のない新たなIn吸着構造が室温で現われれることが報告されている。本研究ではまず、低温までのIn/Si(111)吸着構造の物性を調べるために、高磁場印可型MBE超高真空装置、及び低温型試料ホルダーを製作した。この装置を用いて、室温から100Kの温度領域におけるIn吸着/Si(111)表面構造の相図を高速電子回折(RHEED)の観察結果をもとに作成した。この観察から新たに、低温7×7表面上に吸着したInが層状成長すること、およそ140K以下で8×2構造が現れることを見い出した。また、今まで知られていた-In、4×1-In及び7×7清浄表面上のIn吸着構造について、RHEED、X線光電子分光(XPS)、角度分解光電子分光(ARUPS)、低温走査トンネル電子顕微鏡(STM)、電気伝導度測定により以下の研究を行った。

(1)蒸着による表面構造の変化に伴う電気伝導度の変化

 室温Si(111)--In表面にInを蒸着する間に起こる表面構造転移(→2×2→)及び、構造転移に対応して現われる試料の伝導度の変化を測定し、原因を調べた。X線光電子分光(XPS)を用いてSi2p内殻準位を測定しバンド湾曲量を求め、そこから構造転移に伴う空間電荷層の変化がどの程度伝導度の変化をもたらすか計算した。その結果、空間電荷層の変化による寄与が小さいことがわかり、測定した伝導度は表面電子状態を経由していることを明らかにした。また、In蒸着を中断すると伝導度が減少することを見出し、蒸着中のみ伝導的なIn層が形成されているというモデルで説明した。

(2)エピタキシャル成長中の伝導度の変化

 RHEED観察から150K以下のSi(111)-7×7表面にInを蒸着すると、Inは層状に成長することがわかった。またこのIn成長中に試料の伝導度は2.5MLを臨界膜厚とするパーコレーションとして説明できる増加を示した。低温STMで成長過程を観察し、最初に1MLの絶縁的なIn膜が成長し、その膜上で数十Å程度の大きさの微結晶が徐々に密になり2.5MLでパーコレートすることがわかった。

(3)4×1-In8×2-In相転移

 Si(111)表面にInを約1ML蒸着して形成される高温(室温)相4×1-In超構造が130K付近で8×2構造に転移することを見い出し、転移の過程をRHEEDで調べた。4倍8倍転移と1倍2倍転移が異なる機構による独立な転移であることがわかった。また×2ストリークのRHEED強度の温度依存性を測定し、この転移が温度に、(Tc-T)0.24という指数で依存していることがわかった。

<電子状態の変化>

 ARUPSを用いて、高温相4×1-Inが3つの金属バンドを持つというこれまでの報告を確認した。またフェルミ面マッピングの測定を行い、高温相4×1-Inが極めて1次元的な電子状態を持つことを明らかにした。ARUPSから電子状態の変化を測定し、相転移によって4×1-Inの1次元金属電子状態の金属端の強度が低温で著しく減少することから、金属・非金属転移であることがわかった。また他のバンドの分散幅がおよそ0.15eV程度広がることがわかった

<STMによる室温相と低温相の観察>

 室温での4×1表面(室温相)と60Kでの8×2表面(低温相)をSTMで観察した(図1)。室温相についてSTM像から構造モデルを提案した。

 低温相について、単位胞の形状が原子鎖(4×1単位胞の×1方向の連なり)毎に異なっていることを、原子の変位から説明した。欠陥近傍で、原子の変位量が欠陥からの距離に依存して変化していることから、この構造形成には長距離力が大きく関与していることがわかった。STM像中に位相のはっきりしない領域がしばしば現れていた。そのSTM像を図2に示す。隣接する原子鎖の位相との関係から、この領域は図で示したバーガーズベクトルで表せられる転位が存在していることが分かった。位相のはっきりしない領域の両端から少し離れたところで、原子鎖に欠陥があったことから、この領域は欠陥で異なる位相にピニングされた原子鎖が、欠陥と欠陥の間で転位を自発的に解消している領域であると結論した。欠陥による位相の空間的なずれをモデルをたて定量的に解析した。

図1(a)室温におけるIn-4×1構造のSTM像。Vt=1.2[V],It=0.6[nA],電流像。(b)60KにおけるIn-8×2構造のSTM像。Vt=1.5[V],It=0.5[nA],電流像。図2(a)60KにおけるIn-8×2構造のSTM像。Vt=1.9[V],It=0.35[nA],電流像。位相不確定領域が見られる。図中の矢印は欠陥を示すバーガーズベクトル。
<相転移の起源についての考察>

 相転移の起源について考察し、フェルミ面マッピングで決定されたネスティングベクトルがRHEEDで観察された低温での×2超周期構造に一致すること、また金属非金属転移であることから、この転移がパイエルス転移であると可能性が非常に強いと結論した。しかし、光電子スペクトルの温度依存性、×8周期の形成についてはパイエルス転移の平均場近似描像と異なっていた。転移の起源についてこれ以上議論を深めるためには、より詳細な光電子スペルトルの温度変化、STM観察等の実験、および計算機シュミレーションによる安定構造の同定等理論的アプローチが必要である。

 以上、本研究は多様な相を持つインジウム吸着Si(111)表面について原子配列構造、電子状態、及び電気伝導について多角的に調べ、今まで知られていなかった相転移等、新たな知見を得た。

審査要旨

 半導体表面の原子配列構造および電気的性質の研究は、固体表面相および低次元物質系に関する物性物理学の基礎課題であると同時に、最先端の電子デバイスの基礎研究としての意義が重要である。本論文は、シリコン表面上に成長させたインジウム吸着原子層について、ミクロスコピックな実験手法を駆使し、原子配列構造と電子構造の双方から研究を進め、低温において発見した構造相転移が低次元系に特徴的なパイエルス転移である可能性を明らかにしたものである。

 本論文は、7章からなり、第1章では、シリコン表面上のインジウム吸着原子層について、従来の研究のレビュおよび本研究の目的と位置づけが記述されている。第2章は、実験方法について、低温での吸着層の超格子構造と電子構造を測定するための超高真空分子ビームエピタキシィ(MBE)装置を試作し、これに反射高速電子線回折(RHEED)、X線光電子分光(XPS)、角度分解光電子分光(ARUPS)、表面電気伝導度および走査トンネル電子顕微鏡(STM)の測定システムを組み込んだ装置の作製が記述されている。第3章では、まず、シリコン表面上に吸着したインジウム(In)原子層について、吸着温度によって異なる表面構造をRHEED観測によって観測し、In被覆率と温度に関する相図を決定した。特に、高温で安定な4x1構造が低温で8x2超格子構造に相転移することを明かにした。

 第4章では、Si(111)表面-114043f05.gifIn表面へのInの吸着層の電気伝導度の測定を行ない、In被覆率の増加に従い変化する超構造によって伝導度が変化することを見いだし、第5章では、Si(111)-7x7清浄表面上のIn吸着について述べられ、150K以下の低温での吸着では層状成長するのに対し、高温では島状成長すること、また低温での電気伝導度の被覆率依存性の測定では2.5原子層以上で急激に伝導度が増加することを観測し、これがパーコレーション現象であることを明らかにした。また、STMによる表面原子像観測でもこの現象を確認した。

 第6章は、Si(111)-4x1In構造の低温における相転移に関する研究であり、本論文の最も重要な部分である。高温(450℃)でSi(111)清浄表面にInを約1原子層成長させると4x1超格子構造が現れるが、これが140K以下の低温で周期が2倍の8x2超格子構造の低温相に相転移することを初めて明らかにした。低温でのRHEED観察により、この相転移が、まず、室温相4x1から8x1構造に転移し、引き続き8x1から8x2構造に転移する2段階の相転移であること、RHEED反射の強度の温度依存性から2次転移であることを明らかにした。さらに、STM測定によって、室温相4x1構造が[110]方向に伸びるストライプ構造を持ちストライプ間は溝で隔てられた1次元配列となっていること、これが低温相8x2構造では2列のストライプが対をなす構造を持ち、8x2単位格子内では2倍周期の内部変調構造を伴うことを極めて明瞭なSTM像で示した。この観測されたSTM像をもとに、これらの高温相および低温相構造についてIn-Si表面原子構造モデルを提案した。一方、この相転移の起因を明らかにするため、高分解能の角度分解光電子分光測定によるIn原子層の電子構造を研究し、高温相におけるエネルギー分散関係と同時にフェルミ面の2次元マッピングを完成し、このフェルミ面が極めて1次元的特徴を持つこと、さらに、低温相における光電子スペクトルが室温相と異なり、フェルミ端における状態密度が減少する様子を明らかにした。また、電気伝導度の温度依存性には転移温度以下で顕著とはいえないが明らかな減少を観測した。これら4x1超格子構造の原子配列と電子構造における1次元的特徴および相転移に伴う構造とバンド構造変化の特徴を考慮し、これが金属-非金属転移、特にパイエルス相転移に起因する可能性を指摘した。このほか、この低温相のSTM像で観測された欠陥周辺の種々の局所変調構造、例えばピニングされたソリトン構造も、この相転移に伴うものであることなど、興味深い構造を明らかにした。

 本研究は、半導体表面における金属原子層について、従来のRHEEDによる構造解析に加えSTMによる実像観察を併用することにより表面原子配列構造の詳細を明らかにしたばかりでなく、角度分解光電子分光法により金属原子層の電子構造を決定し、低温で観測された構造相転移が1次元的電子構造と密接な関係を持つことを明らかにし、これがパイエルス転移である可能性を指摘した。これらの結果は、表面金属原子層で観測された初めての実験であり、今後の研究の発展が大いに期待されるものである。

 審査委員会は、本論文が、十分注意深い実験によりデータの信頼性は高く、またその解析が適切な手法でなされていると判断し、本研究が表面金属原子層の微細構造と電子構造に重要な知見を与えたこと、特に、本研究によって初めて指摘された1次元金属原子配列構造における電子相転移の可能性は今後の表面および低次元物質研究に重要な寄与をするものであることを評価した。よって、審査委員全員が、本論文は本学博士(理学)学位論文として合格に相当するものと認めた。

 なお、本研究は、長谷川修司助教授(指導教官)、長尾忠昭助手およびHan Woong Yeom助手、Rotenbergらローレンスバークレイ研究所(ALS)の研究者との共同研究による部分を含むが、著者が研究計画から実施および解析・考察の全ての段階で主導的な役割を果たしており、主体的寄与があったものと認められた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54060