本論文は原子核を標的とする入射エネルギー数100MeVの陽子の非弾性散乱および荷電交換反応における2段階過程の寄与を研究したもので、6章から成る。 第1章は序論で、この研究の背景と論文の構成が述べられている。数100MeVの陽子非弾性散乱、(p,p’)、および荷電交換反応、(p,n)、は原子核のスピン、アイソスピン励起に対する応答を調べる上で有効な実験的手段と考えられてきたが、その分析では、励起が1回の相互作用(1段階過程)で記述されるとする歪曲波衝撃近似(DWIA)が用いられてきた。こうした分析は、反応でのエネルギー移行が小さい領域では、実験で測定された微分断面積をよく説明したが、エネルギー移行が大きな領域での断面積、特にスピン依存相互作用が寄与する偏極断面積を過小評価するという問題が残っている。この領域では、2回の励起相互作用が働く2段階過程が無視できないのではないかとの予想に基づき、その寄与を半定量的に評価するのが、本論文の目的である。2段階過程の1段階過程に対する相対的な寄与を調べるのが目的なので、両者に共通に効くと考えられる歪曲波の影響は無視し、平面波近似を用いる。 第2章では、陽子の原子核標的による散乱、反応過程に対するLippmann-Schwinger方程式から出発して、1段階過程と2段階過程の定式化を行っている。まず、1段階過程では、平面波衝撃近似での微分断面積が陽子-核子散乱のT-行列と、標的核の応答関数で表されることを示し、多くの複雑な状態が寄与するとの仮定の下に、応答関数は1粒子-1空孔状態の強度分布で表されるとする近似を用いる。2段階過程に対しては、2回の相互作用により励起される標的核の終状態が1段階過程のそれとは異なるとして、両者の干渉を無視し、相互作用間の陽子の伝播を一様な核媒質中での伝播で近似して、前と同様な仮定の下に、微分断面積が運動量表示で非対角的な応答関数で表されることを示す。この章では、微分断面積の具体的表式は非偏極の場合に与えられている。 第3章では、第2章の定式化を偏極断面積に拡張し、実験で観測されている運動量移行に対して縦方向および横方向の偏極断面積(IDqおよびIDp)に対する表式を与えている。 第4章では具体的な計算の過程が説明されている。まず4.1節で、2段階過程を相互作用に関与する粒子の種類(陽子か中性子か)によって分類する。例えば、(p,n)反応の場合、(p,p’),(p,n)と(p,n),(n,n’)があり、それぞれ、(p,n)では標的核の中性子しか関与しないが、(p,p’)や(n,n’)では標的核の陽子、中性子ともに関与するので、4種類の過程が存在することになる。4.2節では2回の相互作用の間での核子の伝播に対して、on-shell近似を用いて計算を簡単化することが述べられている。4.3節は核子-核子散乱のT-行列の記述にあてられている。4.4節では、標的核の応答関数を1粒子-1空孔状態の強度分布から計算する手法が述べられている。1粒子ポテンシャルは虚数部を含むWood-Saxon型に選び、スピンに依存する応答関数については、標的核でスピンが飽和しているとする近似を用いる。こうした道具立てに基づいて、4.5節では、1段階過程での非偏極微分断面積、縦方向偏極微分断面積(IDq)、および横方向偏極微分断面積(IDp)の表式が与えられ、2段階過程でのこれらの量の計算法が説明されている。 第5章では、計算結果が与えられ、実験との比較が行われる。具体的な計算は荷電交換反応の偏極断面積でDWIAでの計算と実験とのくい違いが問題となっている次の場合に行われた。即ち、陽子の入射エネルギーと散乱角は、それぞれ、494MeVと18°および346MeVと22°で、標的核は12Cと40Caの場合の、非弾性散乱、(p,p’)、の非偏極偏極微分断面積、荷電交換反応、(p,n)、の縦方向および横方向偏極微分断面積、IDqおよびIDpである。 計算結果は次のようにまとめられる。まず一般的にいえることは、2段階過程の重要度は、入射エネルギーにはあまり依存しないが、エネルギー移行が大きくなるに従って増加し、標的核が重くなると増加すること、また、反応の種類に強く依存することである。定量的には、2段階過程と1段階過程との相対比は、(p,p’)の非偏極断面積では小さく、最も大きくなる40Ca標的で、エネルギー移行が大きい場合にも7%程度である。しかし、(p,n)の偏極断面積では事情は異なり、エネルギー移行が大きい領域でのIDqでは30〜45%、IDpでは70〜90%近くにも達した。こうして、偏極断面積での2段階過程の重要性が明らかになった。また、縦方向偏極と横方向偏極で相当な差があることも興味深く、核子-核子散乱振幅のスピン依存性に関係していると考えられる。 実験との比較においては、平面波近似で計算された上の相対比をDWIAで計算された1段階過程の断面積に掛けることにより、2段階過程の寄与を評価した。その結果、2段階過程の寄与はDWIAによる計算と実験とのくい違いを、完全にではないが、相当部分説明することがわかった。 第6章では、こうした結果のまとめと結論が述べられている。 本論文では、入射エネルギー数100MeVの陽子の原子核による非弾性散乱、荷電交換反応において、従来あまり重要でないと考えられていた2段階過程の寄与を評価し、エネルギー移行の大きい領域での偏極断面積では、1段階過程と同程度の寄与をする場合があることを示して、後者による計算と実験とのくい違いの相当部分を説明することに成功した。これは、原子核のスピン、アイソスピン励起に対する応答を研究する上で、非常に重要な意味を持ち、原子核反応、原子核構造両分野への大きな貢献であると考えられる。 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |