学位論文要旨



No 114048
著者(漢字) 長野,邦浩
著者(英字)
著者(カナ) ナガノ,クニヒロ
標題(和) 重心系エネルギー300GeVにおける陽電子・陽子深非弾性荷電流散乱断面積の測定
標題(洋) Measurement of Charged-Current e+p Deep Inelastic Scattering Cross Sections at =300 GeV
報告番号 114048
報告番号 甲14048
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3537号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,富雄
 東京大学 教授 荒船,次郎
 東京大学 教授 鈴木,洋一郎
 東京大学 教授 西川,公一郎
 東京大学 助教授 相原,博昭
内容要旨

 高エネルギー電子・陽子衝突における非弾性散乱反応は、2個の独立な運動学変数を用いて記述される。ドイツ電子シンクロトロン研究所HERA加速器は世界唯一の電子・陽子衝突型加速器であり、研究可能な運動学的領域を飛躍的に広げる。4元運動量移行の2乗Q2とビヨルケンxなどがそれら運動学的変数として用いられるが、いずれの変数においてもこれまでの固定標的型実験において研究されてきた領域より、2桁以上も領域を広げることが出来る。電子・陽子の深非弾性散乱反応のうち、入射電子が陽子との間にWボソンを交換してニュートリノに変わる反応を荷電カレント反応と言う。今までこの逆反応についてはニュートリノビームを用いた固定標的実験で主にデータが得られてきたが、電子・陽子衝突における荷電カレントの測定はHERA加速器における実験が初である。この研究では、Q2200GeV2領域における荷電カレント反応の散乱断面積を求める。このQ2領域での測定は10-3fm程度の空間分解能で陽子構造を探ることに対応する。

 1994年から1997年までにZEUS実験において取得された陽電子・陽子散乱データ(46.6pb-1)を用いて解析を行った。

 ZEUS検出器カロリメーターのエネルギー分解能は、電磁シャワーに対してはで、ハドロンシャワーに対してはである。ハドロンシャワーのエネルギー分解能は世界最高峰である。荷電粒子の飛跡は、中央飛跡検出器(CTD)により測定され、反応バーテックスの再構成精度は、ビームパイプ方向で0.4cmである。

 荷電カレント反応の特徴として、ニュートリノが観測にかからず運動量を持ち去るのでカロリメーターにおいて失われた横運動量(P/T)が存在する。運動学的変数Q2,x,y等は、全エネルギーから陽子の進行方向の運動量を引いた量(E-Pz)とP/Tとから求められる。カロリメーター到達以前に失うエネルギー分を補正してこれらの変数を求めた。Q2の分解能は15-30%程度、xの分解能は7-30%程度である。

 P/Tは事象選定の主要なシグナルとなる。その一方で、事象全体の運動学と密接に関係するので、低いQ2領域において運動学的領域に偏りを生じさせないよう、P/T>12GeVの下限を設定した。低いしきい値から入り込んでくる光生成反応については小さいP/Tを持つ事象についてカットを厳しくすることにより、低いQ2領域でも10%、その他の領域では最大でも2-3%程度に抑えることに成功した。

 また、荷電カレント反応においては、ハドロン系の角度を特徴付ける運動学的変数が小さい領域においてはハドロン系が陽子の進行方向に対してほぼ平行でビームパイプに近くなるためCTDによる飛跡検出が難しくなり、反応バーテックスの測定効率および精度とも下がる。このような領域において、我々は前方カロリメーターで測定された到達時間を用いてバーテックスの位置を測定する手法を開発した。事象選定にもCTDによるトラックの要求をせずカロリメーター内のシャワーの広がりによりバックグラウンドを排除する手法を確立し、これにより測定可能な運動学的領域を広げることに成功した。全データから1088事象が選定された。

 実験系統誤差として最も大きいのはカロリメーターのエネルギースケールの不定性である。電磁シャワー、ハドロンシャワーいずれにおいても現時点では±2%の不定性があり、断面積を求める際に高いQ2領域では最大で40%程度の不定性を、高いx領域では最大で30%の不定性を与えると評価した。ハドロン化模型依存性は7-8%以下、また、事象選定に用いたカットのしきい値による系統誤差は一部を除いて1%程度であると見積もった。

 得られた事象数からバックグラウンドを引いた後、検出器効率を補正して散乱断面積を求めた。更にそれに対して量子電気力学による輻射補正を行い、ボルン散乱断面積を求めた。輻射補正は約5%程度である。Q2,x,yの1階微分断面積とx,Q2の2階微分断面積を求めた。図1は、測定されたQ2の1階微分断面積を標準模型の予想と比較したものである。上図に示されてるように、得られた断面積はQ2にして2桁、断面積で3桁に渡って標準模型と実験誤差内でよい一致をみた。

図1:測定されたQ2の1階微分断面積。

 Q210000GeV2では標準模型よりやや多めの傾向にはあるが、系統誤差、統計誤差ともに大きく、また、理論予想の不定性も大きいことから考えて標準模型内で一致していると言える。散乱断面積の理論計算の不定性は高いQ2領域においては大きく、30%程度にもなる。これは固定標的型実験から求められているdクォーク密度の不定性が大きいことによる。

 図2に示されているように、測定された(x,Q2)の2階微分断面積は標準模型の予想とよい一致をみた。ただし、高いx領域においてはQ2にほぼ依らず標準模型よりやや高めの散乱断面積を得た。近年、固定標的型実験で得られた重陽子散乱データに陽子と中性子の間の束縛力を補正してdクォーク密度を求め直す理論モデルが提唱されており、それによると高いxにおいて散乱断面積が大きくなると予想される。我々の測定の示す傾向はそのモデルを支持しているが、そのモデル予想よりややまだ高めである。

図2:測定されたx,Q2の2階微分断面積。
審査要旨

 本論文は9章からなり、第1章では、この研究の背景および動機となるレプトン・核子深非弾性散乱に関する説明とその実験的現状について述べられている。これまでレプトン・核子深非弾性散乱における荷電カレント反応の測定は、ニュートリノビームを用いた固定標的実験で行われてきたが、衝突型加速器HERAを用いた陽電子・陽子衝突では、反応の運動量移行(Q2)がこれまでにない高い領域での研究が行える。

 第2章では、陽電子・陽子深非弾性散乱の理論的記述について述べられている。

 第3章では、実験に用いられたZEUS測定器について述べられている。特に本研究において重要な役割を果たすカロリメータについて詳しく論じられている。

 第4章では運動学的変数の再構成方法とハドロンエネルギーの補正方法について、第5章では事象選定の手法について述べられている。本論文では特にハドロン系の角度が小さい領域に到るまで選定効率を上げている。このような領域では荷電粒子の飛跡検出が難しくなり、飛跡を用いた反応バーテックスの測定効率や精度が下がる。これらを改良するため、前方カロリメータで測定された到達時間を用いて反応バーテックスの位置を測定する手法を開発し、また、カロリメータ内のシャワーの広がりによりバックグラウンドを排除する手法も確立し、これらにより測定可能な運動学的領域を広げた。

 第6章では散乱断面積を求めるための手法について、第7章ではそれに対する系統誤差の評価について述べられている。量子電磁力学による輻射補正を行い、ボルン散乱断面積を得た。実験系統誤差としては、カロリメータのエネルギースケールの不定性による誤差が主要であると見積もられている。実験系統誤差は、ほぼすべての運動学的領域において、統計誤差より低く抑えられている。

 第8章では、得られた散乱断面積と標準模型の予想との比較について述べられている。散乱断面積は、Q2、ビヨルケン変数x、陽電子の非弾性度yそれぞれに対する1階微分とQ2、xの2階微分について求められた。本論文より前にZEUS実験は、1994年データ(本論文の1/15のデータ量に相当)を用いて1階微分散乱断面積を測定しているが、それらに比べて、統計誤差、系統誤差共に小さな測定がなされている。運動学的領域もQ2で6500GeVから30000GeVと飛躍的に高い領域に広げられた。また2階微分断面積の測定は本論文が最初のものである。標準模型の予想との比較は、3つの異なったパートン分布を用いてそれぞれ計算された。パートン分布は低エネルギー深非弾性散乱実験データをフィットすることにより得られるが、高いQ2領域までは量子色力学の発展方程式に従って外挿することにより求められる。測定された断面積は、標準模型の予想とよい一致をみた。ただし、高いx領域においては標準模型よりもやや高い散乱断面積を得た。高いx領域においては、陽電子・陽子荷電カレント散乱はdクォークからの寄与が主要であると考えられ、従ってdクォーク密度が現在知られている分布関数よりも高い可能性を示唆している。これは、固定標的型実験で得られた重陽子散乱データをもとに、陽子と中性子の間の束縛力を補正した理論的解釈とも定性的に一致している。更に、このように高いQ2領域になると弱相互作用を媒介するWボソンの質量の効果が散乱断面積に現れてくるため、得られた散乱断面積に最小2乗フィットを行うことにより、Wボソン質量も求められる。この結果はLEPやTevatronでの直接測定の結果と測定誤差の範囲で一致している。

 第9章は以上のまとめである。

 なお、ZEUS実験自体は複数の研究者との共同実験であるが、論文提出者はデータ収集系のトリガー部分を担当し、本論文の研究については、事象選定方法の確立、散乱断面積の測定、系統誤差の評価等のデータ解析はすべて論文提出者自身が行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54061