学位論文要旨



No 114051
著者(漢字) 槙,亙介
著者(英字)
著者(カナ) マキ,コウスケ
標題(和) スタフィロコッカル・ヌクレアーゼのフォールディング機構の研究
標題(洋) A study of folding mechanism of staphylococcal nuclease
報告番号 114051
報告番号 甲14051
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3540号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 教授 若林,健之
内容要旨

 タンパク質のフォールディング(折れ畳み)とは、生合成されたアミノ酸ポリペプチド鎖がそのタンパク質固有の機能を持つ天然構造を獲得する過程のことである。DNAの遺伝情報はRNAを介してアミノ酸の1次配列に翻訳され、然る後に、その1次配列の情報をもとにしてタンパク質ポリペプチドは活性を持つ立体構造を獲得する。即ち、タンパク質のフォールディングとはDNAの遺伝情報が生物学的機能を発現する過程の最終段階である。一方、試験管内では、分子量が小さいタンパク質については、変性状態にある分子を生理的条件下におくと、自発的に活性を持つ天然構造をとることが分かっている。このように、変性状態にあるタンパク質分子が天然構造を獲得する過程もまた、フォールディングという。変性状態のタンパク質分子が生理的条件下で自発的にフォールディングするということは、アミノ酸の1次配列の情報がタンパク質分子の天然構造を定めるということを意味する。更に天然状態から変性状態へと至る過程(アンフォールディング)は可逆的であるということをも意味する。これらの事実は、フォールディング・アンフォールディングを熱力学によって記述することができ、天然状態とはタンパク質分子がとる様々な状態のうち自由エネルギーが最小のものであるということを示唆する。この仮説は広く支持されており,タンパク質のフォールディングの研究の基礎となっている。この仮説によって、タンパク質の天然状態を物理的に基礎付けることは可能になったが、フォールディング過程それ自体、即ち変性状態のタンパク質分子はどのようにして天然構造を獲得するのかは明らかではない。この問題に端を発して、タンパク質のフォールディングを速度論的に解析し、フォールディングのモデルを追及するという研究が盛んになった。現在様々なフォールディングのモデルが提出されている。

 多くのタンパク質は、分子内にプロリン残基を持つ。他のアミノ酸残基と異なりプロリン残基があると、その直前のアミノ酸残基とのペプチド結合がシス型とトランス型とをとり得る。タンパク質分子が天然構造を取っているときには、殆どの場合、この結合はシス型かトランス型かのどちらかしか取らないことが分かっている。しかしながら、変性状態においてはこのプロリン残基のペプチド結合は、シス型とトランス型との間で平衡状態となる。従って、タンパク質がフォールディングする際には、プロリン残基のペプチド結合もまた天然のペプチド結合の状態へと異性化する。この過程はフォールディングの速度に比べて著しく遅い(約0.01s-1)ことが分かっている。従って、フォールディングの速度過程を測定するときには、プロリン残基のペプチド結合の異性化反応をも測定してしまうため、この異性化反応はフォールディング速度過程の解析を阻害するものである。また、細胞内にはプロリン残基のペプチド結合の異性化反応を触媒する酵素(Peptidyl Prolyl Isomerase(PPIase))が存在することも知られている。

 スタフィロコッカル・ヌクレアーゼ(SNase)は149残基からなる球状タンパク質である。このタンパク質はフォールディングの研究において古くから用いられてきたもので、高分解能のX線結晶構造が既知であり、また分子内にS-S結合含まない典型的な+型タンパク質である。SNaseはその分子内に6個のプロリン残基を含む。そのフォールディング過程は3相からなり、特に最も遅い(約0.01s-1)相はプロリン残基のペプチド結合の異性化反応であると言われている。我々は、SNaseのフォールディング過程を明らかにするために、まずSNase内の6個のプロリン残基それぞれの異性化反応のフォールディング過程への寄与を調べた。以前の研究から、SNase分子のプロリン残基を他のアミノ酸残基に部位特異的に置換した二種の一重変異体(P47T、P117G)とそれらの二重変異体(P47T/P117G)の天然状態の安定性とフォールディング速度過程は調べられており、それらの結果からPro47のペプチド結合の異性化反応は天然状態の安定性にもフォールディング速度にも影響を与えないこと、Pro117のGlyへの置換により天然状態は1.2kcal/molほど安定化し、フォールディング速度過程は4相になることが分かっている。

 本論文には、SNase分子のその他のプロリン残基の各々を更に他のアミノ酸残基に部位特異的に置換した4種の一重変異体(P11A、P31A、P42A、P56A)と複数個のプロリン残基を他の残基に部位特異的に置換した多重変異体(P11A/P47T/P117G、P11A/P31A/P47T/P117G、P11A/P31A/P42A/P47T/P117G、P11A/P31A/P42A/P47T/P56A/P117G(Pro-))を作成して、それらのフォールディング速度過程を円偏光二色性(CD)ストップト・フロー法を用いて研究し、天然状態の平衡論的な安定性をCDスペクトルを用いて研究した内容が述べられている。

 P11A、P31A、P42Aのいずれの置換によっても天然状態の安定性は殆ど変化しなかったが、P56Aの置換は天然状態を0.5kcal/molほど安定化した。P56Aの置換により天然状態が安定化したのは、Pro56-ヘリックスのN端に存在しており、-ヘリックスを不安定化するプロリン残基がそれを安定化するアラニン残基に置換されたからであると思われる。しかしながら、フォールディング速度過程に対してはP11A、P31A、P56Aの3個のいずれの置換も影響を及ぼした。具体的には、SNaseのフォールディング過程で観測される3相のうち最も遅い相の振幅が、これらの置換によって減少した。多重変異体についても同様の結果が得られた。即ち、SNase分子内のプロリン残基の数を置換によって減少させると共にフォールディングの最も遅い相の振幅は減少し、特にPro-のフォールディング過程では、最も遅い相は観測されなかった。この結果はSNaseのフォールディングにおいて見られる最も遅い相はSNase分子内のプロリン残基のペプチド結合の異性化反応に起因するということを示している。この解釈を確かめるため、野生型SNaseのフォールディングをPPIaseであるシクロフィリンA(CyPA)の存在下で測定したところ、最も遅い相のみについて速度定数の増加が観測された。最も速い相(約10s-1)と中間相(約1s-1)はCyPAの存在によらず速度定数に変化はなかったが、中間相については置換したプロリン残基の数が増加するとその振幅が減少することが観測された。

 次に我々は、SNaseのフォールディング機構を更に調べるためにPro-にA69T、A90Sなる変異を導入した多重変異体(Pro-(A69T)、Pro-(A90S))を作成し、それらの天然状態の安定性とフォールディング及びアンフォールディング速度過程の変性剤濃度依存とを測定し、これらの結果をPro-のそれと比較した。いずれの変異によっても、天然状態は不安定化し、またフォールディングの速度は減少したが、アンフォールディングの速度に変化はなかった。これらの結果はA69T、A90Sの変異によって、フォールディングの遷移状態が不安定化する一方,アンフォールディングの遷移状態には変化がないことを意味している。また、トリプトファン残基の蛍光変化を利用したPro-のフォールディングのストップト・フロー法による解析から、フォールディングの早い相以外に更に早い相(室温、中性pHで速度定数約200s-1)が存在することが分かった。

 以下のような結論が得られた。(1)P11A、P31A、P56Aの変異のフォールディング速度過程への影響から、これらのプロリン残基のペプチド結合の異性化反応はフォールディングの律速段階である。このことはPro11、Pro31、Pro56の周りの構造がフォールディングの初期に既に形成していることを示唆する。(2)最も速い相はSNase分子内の全てのプロリン残基のペプチド結合が天然状態と同じ型である分子のフォールディング過程を表している。中間相は幾つかのプロリン残基のペプチド結合が非天然の結合状態であるものの、プロリン異性化が律速ではなくフォールディングが律速となっている過程であると思われる。更に最も速い相と最も遅い相が存在するということはSNaseのフォールディングがパラレルな経路に沿って起こっていることを示唆している。(3)中間相はPro-でもPro-(A69T)、Pro-(A90S)でも存在した。このことは、プロリン残基のペプチド結合の異性化が律速ではないが、他のコンフォメーション変化によりフォールディングが減速する過程が存在することを示唆する。(4)Pro-(A69T)およびPro-(A90S)とPro-とのフォールディングの比較の結果から、Ala69とAla90の周りの構造はフォールディングの遷移状態において既に形成されている。Pro11、Pro31、Pro56の周りの構造もフォールディングの初期に形成されていることとも考慮に入れると、SNaseのフォールディングでは5本のストランドから成るN端ドメインの形成がC端ドメインの形成よりも早くに起こると思われる。(5)室温、中性pHにおいて速度定数約200s-1の相が蛍光ストップト・フロー法によって発見された。

審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は序論にあてられ、第2章では、モデルタンパク質としてスタフィロコッカル・ヌクレアーゼ(SNase)及びその変異体を用いて、タンパク質のフォールディングに対するプロリン残基のペプチド結合のシス・トランス異性化反応(以下、プロリン異性化反応と呼ぶ)の影響について、第3章は、第2章で得られた分子内にプロリン残基を含まないSNase変異体(SNasePro-)のフォールディング機構について述べられており、第4章は全体の結論である。

 分子内にプロリン残基を含むタンパク質は、フォールディングにおいてプロリン異性化反応を伴う。即ち、プロリン異性化反応はフォールディングの研究において、タンパク質の種類によらず普遍的に直面する問題であり、その分子的な詳細について研究することは重要である。本論文ではこの目的のために、SNaseをモデルタンパク質として研究している。SNaseはフォールディングの研究において古くから用いられてきた代表的なタンパク質であり、その分子内に6個のプロリン残基を含むのでフォールディングへのプロリン異性化反応の影響を調べるのには最適なタンパク質である。SNase分子内のプロリン残基を他のアミノ酸残基に置換することにより、分子内の幾つかのプロリン残基(Pro47,Pro117)についてはその異性化反応の影響が調べられてきたが、その他のプロリン残基(Pro11,Pro31,Pro42,Pro56)の異性化反応への影響については不明確であった。更にプロリン異性化反応が存在するため、SNaseのフォールディング機構自体も不明確なままであった。

 第2章には、SNase分子のプロリン残基の各々を他のアミノ酸残基に部位特異的に置換した4種の一重変異体(P11A、P31A、P42A、P56A)と複数個のプロリン残基を他の残基に部位特異的に置換した多重変異体(P11A/P47T/P117G、P11A/P31A/P47T/P117G、P11A/P31A/P42A/P47T/P117G、P11A/P31A/P42A/P47T/P56A/P117G(Pro-))を作成して、それらの天然状態の平衡論的な安定性とフォールディング速度過程を研究した内容が述べられている。安定性はP56Aの置換においてのみ0.5kcal/mol程安定化したが、その他の置換では変化がなかった。他方、フォールディング速度過程に関しては、野生型SNaseのフォールディングが速い相、中間相、及び遅い相の3個の相で記述されることが分かっている。これらの3個の速度論的な相のうち、P11A,P31A,P56Aの置換により遅い相の振幅が減少する一方、P42Aの置換は遅い相には影響を及ぼさなかった。これらの結果から、Pro11,Pro31,Pro56のプロリン異性化反応はPro42のそれとは異なり、フォールディングの律速段階である事が初めて明らかになった。更にこのことから、Pro11、Pro31、Pro56の周りの構造がフォールディングの初期に既に形成されており、逆にPro42の周りの構造はフォールディング初期には形成されていないことが示された。従って、SNaseのフォールディングでは5本のストランドから成るN端ドメインの形成がC端ドメインの形成よりも早くに起こることが示唆される。この様に、プロリン異性化反応のフォールディングへの影響をプローブとして、一般的にフォールディング過程についての知見を得るという方法論の可能性を示した。また、Pro-のフォールディング過程及び野生型SNaseのPPIase存在下でのフォールディング過程から、SNaseのフォールディングにおいて見られる最も遅い相はSNase分子内のプロリン残基のペプチド結合の異性化反応に起因するということが明らかになった。一方、フォールディングの中間相は、幾つかのプロリン残基のペプチド結合が非天然の結合状態であるものの、プロリン異性化が律速ではなくフォールディングが律速となっている過程であることも明らかになった。

 第3章においては、SNaseのフォールディング機構を更に調べるためにPro-にA69T、A90Sなる変異を導入した多重変異体(Pro-(A69T)、Pro-(A90S))を作成し、それらの天然状態の安定性とフォールディング及びアンフォールディング速度過程の変性剤濃度依存とを測定して、これらの結果をPro-のそれと比較している。いずれの変異によっても、天然状態は不安定化し、またフォールディングの速度は減少したが、アンフォールディングの速度に変化はなかった。これらの変異がPro-のフォールディングに及ぼす影響から、SNaseのフォールディングはそのプロリン異性化反応を除いてもパラレルな経路に沿って起こるという可能性が示唆される。

 本論文により、SNaseのフォールディングに対する個々のプロリン残基の異性化反応の影響が異なることが明らかになった。また、プロリン異性化反応がフォールディングに及ぼす影響からフォールディング過程についての知見を得るという一般的な方法論の可能性も示された。これらの結果は、タンパク質フォールディング研究に対して、大きな寄与をなしたと言える。尚、本論文は伊倉貞吉氏、早野俊哉氏、高橋信弘氏、桑島邦博氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、審査員一同は同提出者に博士(理学)の学位を授与するのに十分であると判断した。

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