内容要旨 | | 原子構造の理論計算では通常核を点電荷と仮定する。この描像に基づいて求められた原子エネルギー準位に対し、本来備わっている核の有限質量、有限体積、あるいは核の分極は重要な補正を与える。これらの補正は、原子の分光を通じて核の内部構造を調べるための道具として利用されてきた。近年、レーザー分光技術の進歩やイオントラップの導入により原子の分光精度はさらに向上し、得られる核特性の精度が格段に上がるとともに、これまで測定が困難であった核特性が測れる可能性が出てきた。例えば、つい最近、水素原子と重水素原子間の同位体シフトが精密に測定され、この測定から重陽子の電荷半径が2桁も改良された。また原子準位の超微細構造の測定からは核の多重極モーメントが求まるが、核の磁化構造も議論することができる。 一方、多価イオンの研究が進み、ほとんどの電子を剥ぎ取られた重いイオン(例、ウランの水素様イオン)の精密分光がおこなえるようになってきた。このようなイオンでは、電子が強く核に束縛されているため、原子スペクトルに対する核特性の効果が顕著に現れる。従って、これまで無視されてきた高次の効果が現れる可能性があり、それらは核構造を理解するための新たな道具となる。例えば、束縛電子の軌道運動に伴う核分極の効果が原子スペクトルに影響を与え、その精密測定から核励起に関する新たな知見が得られる。 ところで、原子の精密分光を用いて核特性を求めるには、原子構造について高精度の計算をおこない、それと精密実験とを比較しなければならない。その際、2つの問題に直面する。まず1つめは、核特性の効果を正確に理解した上で原子構造を求めなければならない。もちろん競合する効果も正確に計算しなければならない。もう1つは、水素様原子以外では束縛電子間の相関効果があり、それを十分な精度で取り入れる必要がある。その際、問題となる核特性の効果に応じて影響を及ぼす電子相関に特徴がある。その特徴に従って電子相関を考慮することにより、相関の効果を効率良く取り入れることができる。本論文の目的は、上述した実験技術の進歩をふまえて、可能な限り高精度な計算をおこうことにより、原子構造への核特性の効果をこれまで以上に明らかにすることである。 まずはじめに、3電子原子系であるLi様原子において質量分極効果を考える。この効果は核の質量が有限であることに起因し、軽原子における同位体シフトの主要部分を与える。またこれは原子の重心座標系における2個の電子の運動量間の相関の効果であり、従って電子相関に非常に敏感である。ここでは配置間相互作用(Configuration Interaction)を取り入れた波動関数を用いて、Li I-Ne VIIIにおける1s22s2S,1s22p2P状態に対する質量分極効果を計算した。図1に質量分極パラメータS(=i>j〈pi・pj〉)を示す。ここで質量分極効果によるエネルギー補正はE=S/M(Mは核質量)と求められる。簡単なCI波動関数を用いたモデル計算から、この系の質量分極効果には1s2コア内の電子間の相関およびコアとバレンス軌道の電子の間の交換相互作用が重要であることが分かった。図の曲線はそのようなモデルで良く理解でき、それぞれの曲線のZ比例項がコア電子相関、-Z2項がコア-バレンス交換相互作用で説明される。なお質量分極パラメータが正であるということは、原子の中で電子が常に全体として同じ方向に運動していることを意味する。2S状態ではどのイオンでもそうなっているが、2P状態ではイオンにより電子間の運動の相関の様子が異なることがわかる。 図1:Li様原子(Z=3〜10)における1s22s2Sおよび1s22p2P状態の質量分極パラメータ(原子単位系) そこでコア電子間の相関を十分精度良く取り入れるような波動関数を作り、7,10,11Be+-9Be+における2Sと2P状態間の遷移エネルギーに対するSpecific Mass Shift(同位体間の質量分極補正の差)を計算した。計算精度のチェックのために、6Li-7Liに対し同様のSMS計算をおこなったところ、実験値との極めて良い一致が得られた。これにもう1つの有限の核質量の効果であるNormal Mass Shift(同位体間の換算質量補正の差)を加えたものを同位体シフトの実験値と比較することができれば、その差から核の体積効果が求まり、核の電荷半径を決めることができる。これはBe不安定核の研究に大きな寄与をなすと期待される。 次に7Liと9Be+の2Sおよび2P準位の超微細構造を計算した。超微細構造では電子間の相関により、1s2コアの分極が重要になる。特に2S状態では、コア電子とバレンス電子の間のスピン依存交換相互作用の影響が強く、その結果核の位置でのスピン密度の不均衡をもたらすスピン分極が重要になる。2P状態では、非球対称軌道をもつバレンス電子との相互作用でコアが変形する軌道分極が加わる。これらの効果を精度良く取り入れた波動関数を作成して超微細構造の計算をおこなった。さらに、核の有限質量および有限体積、相対論、QED効果に対する補正を加えた。これらの補正を3電子系について厳密に求めるのは困難なので、ここでは1電子近似を用いた。例として2S状態の磁気双極子超微細構造の電子部分を記述するFermi contactパラメータを表1に示す。精密分光の結果との一致は非常に良い。ここでは核の有限体積効果として、核の電荷分布、磁化分布を考慮してある。特に7,10,11Beの磁化分布(Bohr-Weisskopf効果)を研究するため、それらのLi様イオンの超微細構造の精密測定がおこなわれている。しかしそれを確定するには相対論に基づいたより詳しい計算をおこなう必要があることが表1から分かる。 表1:7Liおよび9Be+の1s22s2S状態に対するFermi contactパラメータ(原子単位系)。非相対論的計算値に対し様々な効果による補正を評価した。相対論、核の有限体積(電荷分布および磁化分布(Bohr-Weisskopf効果))、QED補正はバレンス2s電子についての1電子近似に基づいて評価した。質量分極効果に対する補正はYan et al.の計算値を引用した。相対論およびQED補正に対し1s2コア電子による遮蔽効果を、核電荷および核磁化分布による補正に対し電荷および磁化半径の不確かさを誤差として括弧内に与えた。Fermi contactパラメータの計算誤差はそれらの絶対値の総和で与えた。 最後に、208Pbおよび238Uの水素様イオンの基底状態に対し核分極効果によるエネルギー補正を計算した。まず束縛状態QEDに基づいて核分極補正を定式化した。ここで束縛電子と核の間のクーロン相互作用だけでなく、これまで無視されていた横波光子の交換による相互作用も考慮した。それに対応して核分極補正は縦(L)成分と2種類の横成分(磁気と電気(E))に分類される。核構造については、換算多重極遷移確率(B値)を使って記述し、経験的な核データを用いる。計算結果を表2に示す。ここで磁気成分は小さいと予想されるので無視した。縦成分は最近の他の計算と良く一致している。横成分はこれまでの計算では無視されていた。本計算は横成分が重要であることを初めて示したものである。ここで得られた核分極補正の値は、例えば水素様238Uの基底状態に対し-522.8meVである。現在の対応するLambシフトの実験値は470(16)eVであるから、実験の精度がもう2桁上がれば、核分極の効果を見ることが可能になる。重い多価イオンの精密分光は主として強いクーロン場の中の電子に対するQEDの検証を目的としている。しかし、核特性の効果に基づく補正はそのような研究の限界を与える。その意味でも本研究の意義は大きい。 表2:水素様およびイオンの基底状態に対する核分極効果によるエネルギー補正(meV)。これらの核に対し核分極補正の電気(E)および縦(L)成分を評価した。磁気成分は小さいと予想されるので無視した。 |
審査要旨 | | 本論文は11章からなる.第1章において本研究全体の動機と背景を述べた後,3部に分け,第1部(第2章〜第4章)は同位体シフト,第2部(題5章〜第7章)は超微細構造,第3部(題8章〜第10章)は核分極にあてられ,第11章には本研究全体のまとめと結論が述べられているが,各部毎にまとめと付録があり独立した構成になっている.また索引が付けられているので研究者が参考にするのに便利である. 第1部では3電子原子系であるLi様原子において,核の質量が有限であることによって生ずる質量分極効果についての研究が述べられている.論文提出者はLi I〜Ne VIIIにおける1s22s2Sと1s22p2P状態の質量分極効果を計算した.質量分極効果によるエネルギー補正EはMを核質量とすると質量分極パラメタS=i>j〈pi・pj〉によってE=S/Mで与えられる.質量分極パラメタは原子の重心座標系における2電子の運動量相関効果であるから電子相関に非常に敏感である.論文提出者は簡単な配置間相互作用波動関数を用いたモデル計算から,分極パラメタを原子数Zの関数として示し,Z比例項が1s2芯内の電子相関,-Z2項が芯電子-殻外軌道電子間の交換相互作用で説明されることを示した.また2S状態では質量分極パラメタが正になるので原子中の電子が全体として同じ方向に運動しているが,2P状態ではイオンにより電子間の運動の相関の様子が異なることを示した.この結果を踏まえて,他の研究者が膨大な次元の配置間相互作用を取り入れた計算を行っているのに対し,論文提出者は芯電子間の相関を十分精度良く取り入れながら本質的に重要な配置を選ぶことによって極めて効率よく波動関数を構成し,それを用いて,7,10,11Be+-9Be+における2Sと2P状態間の遷移エネルギーに対する同位体間の質量分極補正の差を計算した.6Li-7Liに対しても同様の計算を行った結果,実験値との極めて良い一致が得られた. 第2部では7Liと9Be+の2Sおよび2P準位の超微細構造の計算ついての研究が述べられている.論文提出者は,超微細構造では電子間の相関により1s2芯の分極が重要になることに注意し,特に2S状態では芯電子-殻外電子間のスピン依存交換相互作用の強い影響のため核の位置でのスピン密度に不均衡をもたらすスピン分極効果,2P状態では非球対称軌道を持つ殻外電子との相互作用で芯が変形する軌道分極効果を精度良く取り入れた波動関数を構成して超微細構造の計算を行った.さらに,核の有限質量および有限体積,相対論,QED効果による補正を1電子近似のもとに評価した.論文提出者が核の電荷分布,磁化分布を考慮して計算した2S状態のフェルミ接触パラメタは精密分光の結果と非常に良い一致を示した. 第3部では論文提出者は束縛状態QEDに基づいて核分極補正を定式化した.論文提出者は従来の束縛電子と核間のクーロン相亙作用だけでなく,これまで考慮されることがなかった横波光子交換相互作用を取り入れた(小さいと予想される磁気成分は計算しなかった).論文提出者の定式化では核構造の効果は換算多重極遷移確率の形で取り入れられているが,これに経験的な核データを用いることによって208Pbおよび238Uの水素様イオンの基底状態に対し核分極効果によるエネルギー補正を計算した.論文提出者の計算結果は,縦成分については最近の他の計算と良く一致しているが,これまでの計算では無視されていた横成分横成分が縦成分と同程度以上に重要であることを初めて示したものである.論文提出者が得た核分極補正の値は,重い多価イオンの精密分光から強いクーロン場中の電子に対するQEDの検証を目指す研究の限界を与えていると考えられる. 原子の精密分光の実験結果からを用いて核特性を求めるには,原子構造について高精度の計算を行い,それと精密実験とを比較しなければならない.その際,核特性の効果を正確に評価した上で原子構造を求めなければならない.また束縛電子間の相関効果があり,それを十分な精度で取り入れる必要がある.本論文では可能な限り高精度な計算を行うことにより,原子構造への核特性の効果をこれまで以上に明らかにしたと評価される. なお,本論文は市村淳氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって定式化と数値計算を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する. したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める. |