学位論文要旨



No 114074
著者(漢字) 橋本,成司
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ジョウジ
標題(和) 金星気候システムの安定性
標題(洋) Stability of Venus’Climate
報告番号 114074
報告番号 甲14074
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3563号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 松田,佳久
 東京大学 助教授 佐々木,晶
 東京大学 助教授 阿部,豊
 東京大学 助教授 岩上,直幹
 東京大学 助教授 松井,孝典
内容要旨 0.はじめに

 金星の気候システムが45億年の時間スケールでどのように進化してきたかを明らかにすることは、地球と金星でその表層環境が大きく異なっていることの意味を考える上でも重要な問題である.気候進化を論じるためには、気候システムをコントロールするメカニズムを特定しその影響を理解する必要がある.

 金星気候システムを理解する試みとしてBullock and Grinspoon(1996,1998)は金星気候モデルを用いた研究をおこない、現在の金星の気候状態は不安定であり数百万年の時間スケールで平衡状態へと遷移している途中にあるという結果を得た.またSolomon et al.(1998)は彼らの結果に基づいて、地表温度の変動が金星表面に地形を形成する可能性を論じた.

 しかし現在の金星の気候状態は遷移の途中であるとするBullock and Grinspoon(1998)の結果が正しいとすると、現在の金星については何も説明がされず偶然あのような状態にあるとしか言うことができなくなる.そこで本研究では3つのパートからなる研究をおこなった.

 1.現在の金星気候の安定性

 2.気候コントロールメカニズムとその気候進化への影響

 3.火成活動と気候変動

 まず1ではBullock and Grinspoon(1996,1998)の気候モデルで不安定が発生した原因について考察し、必ずしも不安定が発生する必要がないことを示した.2では気候システムをコントロールするメカニズムとして大気温度と大気組成の相互作用によって生じるフィードバックに着目して金星の気候システムをコントロールする新しいメカニズムを提案した.またこのメカニズムによって生じる金星気候システムの特質を明らかにするため、金星気候モデルを構築し境界条件の変化に対する気候システムの応答を調べた.3では我々の気候モデルとSolomon et al.(1998)の結果を対応させるため、2で提案した気候コントロールメカニズムが働いているときにどのような気候変動が起こり得るかを検討した.以下に、それぞれの内容について述べる.

1.現在の金星気候の安定性

 Bullock and Grinspoon(1996,1998)は現在の金星の気候状態が不安定であると結論したが、この不安定は金星地表に炭酸塩が存在するとした彼らの仮定から導かれた結論であった.地表の炭酸塩は大気中のSO2と反応して硫酸塩を生成することによって大気中のSO2量を減少させる.金星大気においてSO2は微量成分にすぎないがその温室効果は大きく、SO2が減少したことによって地表温度の低下が引き起こされた.金星地表に炭酸塩が存在することを確認した観測がないにも関わらずBullock and Grinspoon(1996,1998)が金星地表に炭酸塩が存在すると仮定した根拠は、炭酸塩が存在すると炭酸塩と珪酸塩の化学反応の化学平衡によって現在の金星大気の大気量を非常によく説明できると考えられていたからであった.そこで本研究では炭酸塩と珪酸塩の化学平衡によって金星大気の大気量を説明することができるかについて検討をおこなった.その結果、従来見落とされていたCO2の温室効果によって地表温度が変化する効果が重要であり、炭酸塩と珪酸塩の化学平衡によって現在の金星大気の大気量を説明することはできないことを明らかにした.したがって金星表面に炭酸塩が存在すると考えるべき積極的な根拠は失われたことになり、現在の金星の気候状態が不安定であると考えるべき理由もなくなった.

2.気候コントロールメカニズムとその気候進化への影響

 大気温度と大気組成の相互作用によって生じるフィードバックが気候システムにおいて果たしている役割の重要性は、近年の研究によって明らかにされつつある.本研究では金星の気候システムをコントロールするメカニズムとして、SO2を仲立ちとした大気温度と大気組成の相互作用によって生じるフィードバック・ループ「化学・アルベド・温室効果=フィードバック」を提案したいと思う(図1).このフィードバックは地表面における化学反応で大気中のSO2量をコントロールするメカニズムと、大気中のSO2量によってアルベド・温室効果が変化するメカニズムが結合したものである.

図1:化学・アルベド・温室効果=フィードバックの概念図

 現在の金星大気で観測されているSO2の量は金星地表面のパイライト・マグネタイトとの化学反応[3FeS2+16CO2=Fe3O4+6SO2+16CO]によってその量がコントロールされていると考えるとよく説明されることが知られている.大気のSO2量が地表面での化学反応によって決まっているのなら、それは地表温度に対応して変化する.一方SO2は温室効果気体であるので、その大気中の量の変化は地表温度に影響を与えるが、それ以上に雲を通じて地表温度に大きな影響を与えている.金星の雲は大気中のSO2とH2Oを材料物質として光化学反応によって生成した硫酸が凝結することで形成されている.雲は金星の全面を覆っていることからアルベド・温室効果の両方で地表温度に大きな影響を持っている.したがって大気のSO2量と地表温度の間には強いフィードバックのループがつくられることになる.

 本研究ではこのフィードバック・ループの特質を明らかにするため、金星気候モデルを構築して太陽放射定数、大気量、大気のH2O量、が変化したときの地表温度の変動を調べた.本研究で用いた金星気候モデルは、化学モデル・雲モデル・大気構造モデルを結合させたものである.化学モデルはHashimoto et al.(1997)の定式化に従って、地表温度が与えられたときにパイライト・マグネタイトとの化学平衡から大気のSO2量を決定する.また雲モデルはHashimoto and Abe(1996)による雲モデルを用いて大気組成と大気構造が与えられたときに雲の構造を決定する.大気構造はCO2・H2O・SO2・雲の温室効果を考慮してNakajima et al.(1992)の1次元灰色放射対流平衡モデルを用いて決定した.

 太陽放射定数、大気量、大気のH2O量、それぞれの変化に対する地表温度の変化を計算した結果が図2〜4である.これらはいずれも45億年の間に変化してきたと考えられているものであるが、化学・アルベド・温室効果=フィードバックは広いパラメタ範囲にわたって地表温度の変動を小さく抑えている.すなわち化学・アルベド・温室効果=フィードバックは金星の地表温度を安定化し、金星の気候状態を現在あるような状態に保つ働きをしていると言うことができる.このことは現在の金星があのような状態にあることに対して説明を与えているのかもしれない.

図2(右上):太陽放射フラックスの変化に対する地表温度の変化.横軸は現在の太陽放射で規格化してある.黒丸は化学・アルベド・温室効果=フィードバックが働いた場合.白丸は大気のSO2量が変化せず一定の場合.図3(右中):大気量の変化に対する地表温度の変化.黒丸・白丸は図2に同じ.図4(右下):大気中のH2O量の変化に対する地表温度の変化.黒丸・白丸は図2に同じ.
3.火成活動と気候変動

 火成活動は惑星内部の揮発性物質を大気へ放出することによって大気組成を変化させる.この大気組成の変化は大気のエネルギーバランス変化させ気候変動を引き起こす.金星においては地質学的な証拠から3〜7億年前に全球規模の激しい火成活動があったと考えられており、この火成活動によってどのような気候変動が引き起こされたかを考えることは興味深い.また最近の研究で〜100K程度の地表温度の変動によって惑星表面に地形が形成される可能性が指摘されている.そこで2で構築した金星気候モデルを用いて、大気組成の変化によってどのような気候変動が引き起こされる可能性があるのかについて検討した.

 図5は数値計算の結果で大気のH2O量・SO2量に対して地表温度を表してある.この結果を見ると、火成活動によって引き起こされた気候変動で惑星表面に地形を形成するような地表温度の変動が起こり得ることがわかる.また脱ガスするガスの組成によって引き起こされる気候変動の種類や大きさが異なることも示されている.もし仮に金星表面の地形から過去の地表温度を復元することができるようになれば、図5を用いて過去の大気組成を復元することも可能になるかもしれない.

図5:大気中のH2O,SO2量に対する地表温度.右下のハッチの領域では水の雲が生成する条件が満足される.
審査要旨

 本論文は、金星の気候システム(温度構造や大気組成)の安定性を、大気化学と大気物理学の視点から研究したものである。

 ここで扱う気候とは、二酸化硫黄などの大気組成と硫酸の雲の状態及び温度の鉛直構造を意味する。この意味の気候を、化学モデル、雲モデル及び大気構造モデルを組み合わせた鉛直1次元モデルによって研究している。このモデルにより、金星の地表面温度が、太陽光フラックスなどにどのように依存するかを調べ、金星の気候の安定性を調べている。

 第1章の序論の後、先ず、第2章において、金星表面において炭酸塩が存在するという理由がないことを示している。Bullock and Grinspoon(1996,1998)は炭酸塩が存在すると、炭酸塩と珪酸塩の化学反応の化学平衡により、現在の金星大気の二酸化炭素量をうまく説明出来ると考えた。しかし、今まで考慮されていなかった二酸化炭素の温度効果を取り入れると、炭酸塩と珪酸塩の化学平衡によっては、金星の二酸化炭素量が説明できないことが示された。これにより、本研究では金星に炭酸塩が存在しないという前提の下に議論が進められる。

 第3章においては、特に二酸化硫黄に注目し、二酸化硫黄を媒介として、化学反応、アルベード、温室効果を考慮したフィードバックループが提案されている。二酸化硫黄量は、地表面におけるパイライト、マグネタイトとの化学反応によって規定されているとしている。二酸化硫黄は温室効果気体なので、その量が地表面温度に影響する。それだけではなく、二酸化硫黄を原料として、硫酸の雲が生成されるので、雲のアルベード、温室効果を通して、地表面温度に影響を与える。

 以上のようなプロセスを取り入れた、化学モデル、雲モデル、大気構造モデルを結合したモデルにより、太陽放射定数、大気量、大気中の水の量が変化したときの、地表温度の変動を調べている。但し、モデルは鉛直1次元モデルで、温室効果は二酸化炭素、水蒸気、二酸化硫黄、雲の赤外線吸収を考慮した灰色の放射対流平衡モデルである。このモデルによって計算された現在の金星の鉛直温度分布は、比較的よく観測値を再現している。

 計算結果によると、このモデルで考慮した化学、アルベード、温室効果の相互作用は広いパラメータ範囲にわたって地表面温度を安定化し、金星の気候を現在の状態に維持するように働くことが示された。

 第4章においては、第3章において構築したモデルを用いて、大気組成の変化による気候変動の可能性を検討している。具体的には、水蒸気量と二酸化硫黄量を広い範囲にわたって変化させ、得られる地表面温度を計算している。その結果によると、100K程度の地表面温度の変動は、これらの成分の変動により可能なようである。

 本研究のユニークな点は、今まで別個に研究されていた地表面の化学反応と雲の生成過程と放射対流の過程を結合して考察したことである。この点が、この研究の新しい寄与をもたらしたものであると考えられる。その結果として、第2章では、金星表面では炭酸塩が存在する積極的理由がないことが示された。また、第3章では、現在の金星の気候が再現されただけではなく、安定であるという事が示された。しかし、このモデルでは、炭酸塩が存在しないと仮定していることもあり、二酸化炭素の量がモデルの中では全く決まらないという問題がある。その他、ここで用いたモデルが鉛直1次元の簡単なモデルであり、灰色近似の限界や雲層の子午面循環の効果が取り入れられないなどの欠点もある。しかし、これらの問題は今後の研究に期待すべきであり、本研究の成果だけでも、十分興味深い結果であり、惑星科学に対する重要な寄与と考えられる。

 なお、本論文は一部、阿部豊氏と佐々木晶氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって、審査委員会は全員の一致した意見により、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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