学位論文要旨



No 114080
著者(漢字) 殷,熙洙
著者(英字)
著者(カナ) ウン,ヒースー
標題(和) 水晶振動子微量天秤に固定した自己組織化配向単分子膜上の結晶成長過程に基づく新規化学センシング法
標題(洋) A New Chemical Sensing Method Based on Crystal Growth on Quartz Crystal Microbalances Modified with Functional Self-Assembled Monolayers
報告番号 114080
報告番号 甲14080
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3569号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 巻出,義紘
 東京大学 助教授 小林,昭子
 東京大学 助教授 斉木,幸一朗
内容要旨 【1・2章】

 自然界に幅広く観察されるイオン間の選択的相互作用による水溶液中での難溶性沈殿形成(たとえば,AgCl.BaSO4など)は,結晶生成過程が化学選択的であるため,新規イオン検出法及び分離・精製方法として興味深い.このような化学選択的沈殿形成現象は,古くからバルク分析手法である沈殿滴定,沈殿形成を伴う重量分析など,実際これまで重要な分析化学的手法として利用されてきた.特に,沈殿形成過程を利用した重量分析法は,結晶形成が検知できる物質であれば,分析化学に応用できる可能性があり,極めて高い一般性を有した手法である.しかしながら,化学選択的結晶形成過程を内在する難溶性無機化合物を用いた分析化学への応用は,その高い一般性にもかかわらず,近年見るべき発展を遂げていない.主に,界面分析手法として1960年代にPungorらにより提案された難溶性無機化合物を用いたイオン選択的電荷分離に基づく電位差測定,いわゆる固体膜イオン選択性電極が開発されてきたが,膜電位測定に感応膜の電気伝導性を必要とするなどの様々な問題があるため利用可能な難溶性無機化合物は制限され,取り組み難い分野であった.

 一方,近年,本研究室により固液界面のイオン選択吸着現象に基づいたQCM(uartz rystal icrobalance)無機リン酸イオンセンサーが報告された.しかし,この方法ではQCM電極上に難溶性無機リン酸化合物を接着材を用いて固定するため,作製した電極間の再現性や接着材成分による応答などの問題点を残した.さらに,その応答が単分子吸着によって生じるものであるために小さく,その変化を定量的に評価することが困難であった.

 そこで,本研究では上記の理由で従来感応膜材料として応用不可能であったものまで固液界面という限定された微小領域をイオンや分子の選択認識場とする化学センシングへの取り組みを機能性単分子膜(11-mercapto-1-undecanol(MUD)や11-mercaptoundecanoic acid(MUA))を用い,QCM金電極上に自己組織化配向単分子膜を形成し,その膜上に分析対象になるイオンや分子を含んでいる難溶性化合物を固定する方法を用いることにより,固液界面のイオンや分子の選択的吸着現象を詳しく研究し、それに基づく新規イオン検出法を開発する事を目的とした.また、以前の研究から単分子吸着による応答の小ささが,評価を困難にしていたことを考慮し、本研究はその応答が比較的大きいと予想される結晶成長を観察することにより精度を上げることを試みた.

 まず,水溶液中での結晶成長研究において典型的モデルであり,その結晶成長過程がよく知られている硫酸バリウムを用いて硫酸バリウムの結晶成長に基づく硫酸イオンの検出法について検討を行った.それから,近年,産業・環境・医学などの分野で分析のニーズが増え続けている亜セレン酸イオンの検出法を亜セレン酸カドミウムの結晶成長を用いて試みた.さらに,最も分析対象として困難であるキラル化合物の識別・検出を目的にし,必須アミノ酸であるL-leucineを用いてその可能性を検討した.

【3章】硫酸バリウムの結晶成長を用いた硫酸イオンセンサー

 自己組織化配向単分子膜は電気化学的検討を行った結果,11-mercapto-1-undecanol(MUD)が水晶振動子金電極上に化学的に安定なSAM(Self Assembly Monolayer)膜を形成することが分かった.そこでMUDを合成し,ethanol中で修飾し,さらにその末端の水酸基をリン酸化することにより,分析対象になる目的イオン(SO42-)を含んでいる硫酸バリウム(BaSO4)を固定させた(Fig.1).その各々の水晶振動子金電極上の修飾過程はX線光電子分光法(XPS)および原子間力顕微鏡(AFM)を用いてその表面変化を観察することによって表面キャラクタリゼイションを行った.こうして作製した水晶振動子はSO42-イオンを含んでいるBaSO4の飽和溶液を浸した後,SO42-イオンを加えることにより,溶液を飽和から過飽和状態に変化させ,この際生じる結晶成長をその場で観察した.さらに目的イオンと他イオンとの選択性を検討した.

Fig.1 The reaction scheme of chemical modification sequence for BaSO4 crystallization on phosphorylated 11-mercapto-1-undecanol(MUD).

 Fig.1に示した方法により作製した電極はX線光電子分光法(XPS)を用いてその表面変化を観察した結果(Table1),リン酸化されたMUD単分子膜上に硫酸バリウムが固定されたことが分かった.さらに原子間力顕微鏡(AFM)の結果(Fig.2)からMUDとリン酸化されたMUD単分子膜の表面はほぼ同様な荒さを示していることに対し,リン酸化されたMUD単分子膜上に硫酸バリウムが成長した場合はその表面が平らになっていった.これはおそらく硫酸バリウム結晶成長によるものであると考えられる.

Table 1.XPS data for the modified QCM gold surfacesFig.2 AFM images(a-c)of 10×10m arca for(a)mono-layer of MUD on QCM gold electrode.(b)phosphorylated MUD,and(c)BaSO4 crystallization on(b).

 硫酸イオンに対する濃度依存性をQCMを用いて調べた結果,6.8×10-5Mから4.5×10-3Mの範囲で比例(<S.D.3%)することが分かった(Fig.3).また,他陰イオンとの選択性はSO42->CO32->>NO3-,I-,Br-,SCN-であった.このような選択性はバリウムイオンと陰イオンとの相互作用,すなわち溶解度積および溶解度に基づくものであると考えられる(Table2).

Fig.3 Concentration dependence of the frequency changes during 10 minutes(-F)for sulfate and other anions on the response of a QCM oscillator modified with harium sulfate crystal grown on phosphorylated MUD self-assembly monolayers.Table 2.Ion selectivity of the present QCM sulfate ion sensor
【4章】亜セレン酸カドミウムの結晶成長を用いた亜セレン酸イオンセンサー

 3章の硫酸イオンセンサーとほぼ同様な方法を用いて亜セレン酸カドミウム結晶(CdSeO3)を固定した.ethanol中で11-mercapto-1-undecanol(MUD)を用いて水晶振動子金電極上に自己組織化配向単分子膜を形成し,その末端の水酸基をリン酸化することにより,分析対象になる目的イオン(SeO32-)を含んでいる亜セレン酸カドミウム結晶(CdSeO3)を固定させた(Fig.4).その各々の水晶振動子金電極上の修飾過程はX線光電子分光法(XPS)および原子間力顕微鏡(AFM)を用いてその表面変化を観察することによって表面キャラクタリゼイションを行った.こうして作製した水晶振動子はSeO32-イオンを含んでいるCdSeO3の飽和溶液を浸した後,SeO32-イオンを加えることにより,溶液を飽和から過飽和状態に変化させ,この際生じる結晶成長をその場で観察した.さらに目的イオンと他イオンとの選択性を検討した.

Fig.4 The reaction scheme of chemical modification sequence for CdSeO3 crystallization on phosphorylated 11-mercapto-1-undecanol(MUD).

 Fig.4に示した方法により作製した電極はX線光電子分光法(XPS)を用いてその表面変化を観察した結果(Table3),リン酸化されたMUD単分子膜上に亜セレン酸カドミウムが固定されたことが分かった.さらに原子間力顕微鏡(AFM)の結果(Fig.5)からMUDとリン酸化されたMUD単分子膜の表面はほぼ同様な荒さを示していることに対し,リン酸化されたMUD単分子膜上に亜セレン酸カドミウムが成長した場合はその表面が平らになっていった.これはおそらく亜セレン酸カドミウムの結晶成長によるものであると考えられる.

Table 3.XPS data for the modified QCM gold surfacesFig.5 AFM images(a-c)of 2×2m area for(a)monolayer of MUD on QCM gold electrode,(b)phosphorylated MUD,and (c)CdSeO3 crystallization on (b).

 それから亜セレン酸イオンに対し,9.7×10-5Mから9.0×10-4Mの範囲で比例(<S.D.5%)することが分かった.また,他陰イオンとの選択性(Fig.6)はSeO32->>CO32->SeO42-,SO42-,Br-,I-,NO3-の序列を示した.このような選択性は基本的に溶解度積および溶解度に基づくものであると考えられる(Table4).

Fig.6 Concentration dependence of the frequency changes during 10 minutes(-F)for selenite and other anions on the response of a QCM oscillator modified with cadmium selenite crystal grown on phosphorylated MUD self-assembly monolayers.Table 4.Ion selectivity of the present QCM selenite ion sensor
【5章】L-leucineの結晶成長を用いたL-leucine(chiral)センサー

 自己組織化配向単分子膜として11-mercapto-1-undecanoic acid(MUA)を合成し,ethanol中で水晶振動子金電極上に自己組織化配向単分子膜を形成し,その上に1-ethyl-3-(3-dimethylaminopropyl)-carbodiimide hydrochloride(WSC)とN-hydroxysuccinimide(NHS)を用いてペプチド合成方法によってL-leucineを結合させた(Fig.7).こうして作製した水晶振動子はDL-leucineのラセミ飽和溶液を浸した後,L-leucineを加えることにより,溶液を飽和から過飽和状態に変化させ,この際生じる結晶成長をその場で観察した.さらにL-leucineとD-leucineとの選択性を検討した.

Fig.7 The reaction scheme of chemical modification sequence for L-leucine-seed on 11-mercapto-1-undecanoic acid(MUA).

 キラル精製・分離方法として知られている優先晶出法(preferential crystallization)はラセミ体の溶液中に一方の活性体の種を加えることによって優先的に一方の結晶のみを成長させる一般的方法である.このような原理に基づいてDL-leucineのラセミ飽和溶液に一方の活性体であるL-leucineを加えることにより修飾した水晶振動子電極上にL-leucineを晶出させた(Fig.8).また,L-leucineとD-leucineの選択性を検討した結果,8.0×10-5Mから6.0×10-4Mの範囲(<S.D.7%)でD-leucineには応答せず,L-leucineのみ応答することがわかった(Fig.9).このような特異的選択性で,修飾したL-leucine種結晶上にL-leucine分子のみがキラル識別され,優先的に晶出されるものであると思われ,今後新たなキラル分析法として有用であることを示した。

Fig.8 A typical time course of the QCM frequency change of the L-leucine-seed-modified QCM oscillator.(a)L-leucine saturated condition,(b)L-leucine supersaturated condition.Fig.9 Concentration dependence of the frequency changes during 10 minutes(-F)for L-leucine and D-leucine on the QCM oscillator modified with L-leucine crystal grown on MUA self-assembly monolayers.
【6章】改良策及び展望

 第3章〜5章で示したように本法は硫酸,亜セレン酸,L-leucineの新規分析法として利用できる可能性があることを示した.しかし,本法は結晶成長過程を観察するため,イオン・分子の認識場になる結晶の表面状態が大きく変化する場合,アナルナイト濃度に対するQCM応答は濃度依存性を失う傾向がある.そのため,検量範囲が狭くなってしまう問題点を残した.この問題点の改良策としてまず,原子間力顕微鏡(AFM)を用いて目的物質の濃度変化に対する結晶表面状態の変化をリアルタイムで観察することにより,どのようなメカニズムで結晶成長が行われているかを明らかにする必要がある.また,本法にフローシステムを導入すれば,実用化できると思われる.

【7章】結論

 本研究では機能性自己組織化配向単分子膜上に感応化合物を固定した水晶振動子を用い,結晶成長過程に基づく新規化学センシング法を提案した.また,本法のQCMの周波数変化は結晶成長をその場で示していることが分かった.さらに,本法は従来の分析法(たとえば,HPLC,イオンクロマトグラフィー)に比べ,感度および選択性の観点から優れていることが分かった.また,本法は高い一般性を持つため結晶成長を伴う無機または有機化合物を用いれば,界面でのその結晶成長あるいは単分子・イオン吸着過程に基づき,どのようなイオン・分子の分析方法としても利用できる可能性があることを示した.

審査要旨

 本学位論文は,化学選択的結晶成長過程を新規イオン・分子検出法としてより一般的に取り入れるための研究である.

 第1章は要旨,第2章は序論,第3章は硫酸イオン検出法作製,第4章は亜セレン酸イオン検出法の作製,第5章はL-ロイシンの不斉識別検出法の作製が記述される.第6章は,提案した方法の一般的評価を行い,第7章は結論である.

 第2章の序論では,分析化学における結晶成長の重要性について述べている.分析化学で用いられている難溶性沈殿形成反応について,歴史的にそれが重量分析,沈殿滴定,固体膜イオン選択性電極など分析化学的方法論とどのように関わりをもってきたか述べている.

 本研究で提案し検証する方法の原理は,水晶発振子(QCM)上に固定した難溶性無機塩や有機固体の,固液界面におけるイオン・分子の選択的吸着・結晶成長過程に伴う質量変化を水晶発振子で検出するものである.これは,沈殿試薬を用いず沈殿固体界面をイオン・分子の選択認識場とする界面重量分析ともいえるもので,固体膜イオン選択性電極のような感応素子である難溶性固体バルクの電気伝導性の制約もなく,イオン種だけでなく電荷中性の分子種の結晶成長過程も利用できるため,一般性が高いことを述べている.本章はさらに,QCMの基礎を述べ,次に,感応固体膜をQCM電極上に固定するための,単分子膜分子接着剤の役割を果たす自己集合膜の化学的基礎について簡潔に記述している.また水溶液中での無機塩の溶解現象と結晶成長について,沈殿と溶解度積,過飽和,核形成などの観点から,本研究では定量分析の尺度として結晶成長速度を用いることの正当性を議論している.

 第3章では,本イオン選択検出法の作製の具体的例として,硫酸イオンセンサーを取り上げ,実験の詳細と結果の考察を行っている.まず11-メルカプト-1-ウンデカノール(MUD)をQCM金電極上に自己集合膜の形で形成させ,末端の水酸基をリン酸化することにより,分析対象になる目的イオンSO42-を含む硫酸バリウムを固定化している.この合成過程をXPS,AFMで追跡し,これを確認している.こうして作製したQCM硫酸イオンセンサーを硫酸バリウム飽和溶液に浸し,SO42-イオンを添加することにより,溶液が過飽和状態から結晶成長をする過程をQCMの周波数変化として測定している.同様に他の妨害陰イオンについても測定し,イオン選択性を評価している.こうして硫酸イオンに対する濃度依存性は6.8x10-5Mから4.5x10-3Mの範囲で直線(<S.D.3.0%)となることを示している.また他陰イオンとの選択性はSO42->CO32->>NO3-,I-,Br-,SCN-であることを示し,この序列を当該感応固体膜の溶解度積の差異に帰着させている.

 第4章は,亜セレン酸イオンセンサーに関する研究を記述している.硫酸イオンセンサーと同様に,MUD自己集合膜上に亜セレン酸カドミウムCdSeO3を結晶成長させ,これを亜セレン酸イオンセンサーの感応膜とした.XPS,AFMによる同様のキャラクタリゼションを経て後,センサーをCdSeO3飽和溶液に浸し,これにSeO2-イオン添加による結晶成長過程を測定した.第3章のSO42-イオンセンサーと同様に,亜セレン酸に対しその9.7x10-5Mから9.0x10-4Mまで直線関係が得られることを示している.また選択性はSeO32->>CO32->SeO42-,SO42-,Br-,I-,NO3-の序列であることも明らかにし,同様に基本的にCdSeO3の溶解度積とCdX2(Xは妨害イオン)の溶解度積との違いで説明している.

 第5章は,L-ロイシンの結晶成長に基づくL-ロイシン不斉センサーに関する記述である.MUDの代わりに11-メルカプト-1-ウンデカン酸をQCM金電極上に自己集合単分子膜として合成し,その上に1-エチル-(3-ジメチルアミノプロピル)カルボジイミド塩酸塩とN-ヒドロキシスクシンイミドを用いて,ペプチド合成法によりL-ロイシンを結合させている.こうして作製したQCMセンサーは,DL-ロイシンラセミ飽和溶液に浸した後,L-ロイシンを添加することにより溶液を飽和から過飽和状態に変化させ,結晶成長をその場観測した.これはキラル精製・分離法として知られる優先晶出法の原理をQCMによる表面重量分析法として用いるもので,L-ロイシンとD-ロイシンの選択性は,8.0x10-5Mから6.0x10-4Mの範囲で,D-ロイシンには応答せずL-ロイシンにのみ応答していることを示した.これにより新たなキラル識別分析法として本法の有用性を示している.

 第6章で本法の評価と限界を示した後,第7章で,本法の特長,とくに結晶成長を伴う無機・有機化合物は,溶液との界面でのその結晶成長あるいは単分子・イオン吸着過程に基づき,試料溶液中のどのようなイオン・分子の検出法としても利用できる可能性があるものとして,この分析法としての著しい一般性を強調し,結論としている.

 以上,本研究は,結晶成長過程の化学選択性をイオン・分子の一般的検出法としようとするもので,沈殿試薬を用いず,固体界面とその構成イオン・分子の選択認識場とし,QCMによる質量変化として検出するもので,分析化学の発展に寄与する成果を収めた.よって,理学博士取得を目的とする研究として十分であると審査員は全員一致で認めた.なお本論文は,各章の研究が複数の研究者との共同研究であるが,論文提出者が主体となって行ったもので,論文提出者の寄与は十分であると判断する.

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク