審査要旨 | | 本論文は5章からなり,第1章は序論,第2章はヨウ素原子を含む-d系(DI-DCNQI)2Cu塩およびその類縁体の温度-圧力相図,第3章はジチオレン金属錯体Pd(dmit)2のアニオンラジカル塩の物性(特に圧力下における超伝導の発現),第4章は「非対称」型ジチオレン金属錯体の合成と性質,第5章はまとめである。 第1章序論では,これまで開発されてきた分子性電気伝導体の構造と物性にについて概観した後に,本論文で取り扱う金属錯体系分子性導体の特徴について述べられている。ここでは,金属錯体系分子性導体は,従来の伝導電子系にd電子が加わることによって自由度が増し,特異な物性の発現が期待できる系であることが強調されている。一方,格子の「柔らかい」分子性導体では,圧力によって物性が大きく変わりうることを指摘した上で,金属錯体系分子性導体における圧力効果の研究の重要性が述べられている。そこで,本論文では,金属錯体系分子性導体に対して,「物性」開発の観点から,DCNQI-Cu塩とPd(dmit)2塩における圧力効果,「物質」開発の立場から非対称ジチオレン錯体の合成が検討されている。 第2章では,ヨウ素原子を含むDCNQI-Cu塩の高圧下における電気伝導特性について記述されている。アクセプター分子DCNQIのCu塩では,DCNQIの1次元カラムが配位結合を介して(四面体配位の)銅イオンによって3次元的に連結されており,銅は混合原子価状態にある。従来のDCNQI-Cu塩は,加圧によって金属状態から局在スピンの発生を伴う絶縁状態へと転移し,その中間領域ではリエントラント転移(金属→絶縁体→金属)を示す。この系における金属-絶縁体転移では,DCNQIカラム上の電荷密度波と銅サイトにおける電荷整列(…Cu+Cu+Cu2+…)とがカップルしている。これらの現象には,パイエルス転移,モット転移,ヤーン・テラー効果,混合原子価等の数多くの概念が関わっていることが明かとなっている。DCNQI-Cu塩の物性は,置換基によって大きく異なるが,特に置換基としてヨウ素を含む系は,特異な性質を示す。本論文では,ヨウ素原子を含むDCNQI-Cu塩において,加圧とともに低温における基底状態が金属→絶縁体→金属→絶縁体→金属と変化する現象を初めて見出している。本章の後半では,この特異な相図の原因について,強結合近似のバンド計算等に基づいて考察している。いくつかの可能なメカニズムとその問題点を指摘した上で,DCNQI上の電荷密度波と銅サイトの電荷整列の周期の整合性に着目したメカニズムを提案している。銅の価数は,加圧によって配位四面体の歪みの度合いが大きくなると増大する。一方,電荷密度波と電荷整列の周期は,銅の価数が+4/3と+1.6の時に整合する。この時,絶縁状態が安定化される,というのが要点である。このメカニズムについては,まだspeculationの域にとどまっているが,興味深い指摘である。 第3章では,ジチオレン錯体Pd(dmit)2の塩の高圧下における電気伝導特性について述べられている。高圧超伝導体-Me4N[Pd(dmit)2]2は,結晶内にPd(dmit)2分子のカラムを含み,カラム内ではPd(dmit)2分子が強く二量化している。アクセプター系では,通常LUMOが伝導バンドを形成する。しかし,この系では,HOMOとLUMOの分子軌道準位間のエネルギー差が小さく,しかも結晶内で強く二量化している結果,二量化による分裂で生じた(anti-bondingの)HOMOバンドが(bondingの)LUMOバンドより上に位置する。ここで重要な点は,各分子軌道の対称性の違いから,HOMOバンドは2次元的,LUMOバンドは1次元的である点にある。電気伝導は狭いhalf-filled HOMOバンドが担っており,常圧では,一種のモット絶縁化を起こしていると考えられる。対カチオンをMe4Z+やEt2Me2Z+(Z=P,As,Sb)に置換すると,結晶構造が若干変化するが,伝導層内のPd(dmit)2分子配列に大きな変化はない。しかし,本研究において,圧力下における電子状態が,カチオンによって大きく変化することが見出された。特に,Et2Me2P塩が圧力下で超伝導転移を示すことを発見し,この系の詳細な温度-圧力相図が明らかとされた。この系では,圧力の増加に伴い低温での安定相が絶縁体→金属→絶縁体と変化する。本論文では,この現象に対して以下のような考察を行っている。加圧すると二量化が弱くなるために各バンドの幅が拡がり,LUMOバンドがHOMOバンドと重なるようになる。すると,2つのバンド間で電子の再配分が起こってHOMOバンドがhalf-filledでなくなり金属(超伝導)状態が出現する。しかし,さらに加圧を行うと,フェルミ準位近傍で1次元的なLUMOバンドの性格が強くなり,1次元伝導電子系の不安定性が現れる。また,強結合近似のバンド計算等に基づいて,常圧でのHOMOバンドが2次元性を強く示す系ほど加圧によって金属相が現れやすい傾向があることを見出し,これによってカチオンの効果を考察している。 第4章では,「非対称型」ジチオレン金属錯体の合成について述べられている。第3章で明らかになったように,金属ジチオレン錯体は分子性導体の構成成分として非常に興味ある分子である。しかし,膨大な化合物の合成例が知られている有機電子系分子性導体に比べ,その種類は未だ限られている。これは,有機電子系では極くありふれた「非対称」分子を合成・分離する手法が確立していないことが一因となっている。本論文では,二つの異なる配位子と結合した,いわゆる「非対称」型金属ジチオレン錯体分子を合成し分離・精製するための一般的な方法について記述されている。反応そのものは単純で,2種の対称体をアセトン中で還流すると,配位子交換反応が進行し非対称体が生成する。重要な点は,非対称体をHPLC(ODP)で容易に対称体から分離できることを見いだした点にある。この方法によって多数の「非対称」型ジチオレン錯体を新規に合成している。また,これらの錯体を用いて電荷移動錯体を作成し,金属的電気伝導を示す塩も得ている。 第5章では,金属酸化物等の無機系伝導体と比較して,d電子を導入した分子性伝導体の今後の展望について述べられている。このような系の特徴の一つが「多バンド」であることを指摘した上で,本研究がこれらの開発の基礎を築く上で果たした意義について述べられている。 有機電子と金属d電子が共存する遷移金属錯体系分子性導体の特異な物性の測定(第2,3章)と新規物質の合成(第4章)に取り組んだ本研究の成果は,今後の分子性導体開発の重要な基礎となるであろう。 なお,本論文の一部は,加藤 礼三,澤 博,山浦 淳一,岡野 芳則,花咲 徳亮,田島 裕之,青沼 秀児,との共同研究であるが,論文提出者が主体となって物性評価及び合成を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める。 |