学位論文要旨



No 114086
著者(漢字) 上口,賢
著者(英字) Kamiguchi,Satoshi
著者(カナ) カミグチ,サトシ
標題(和) クロムカルコゲニドクラスター錯体の研究
標題(洋) Study on Chromium Chalcogenide Cluster Complexes
報告番号 114086
報告番号 甲14086
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3575号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 助教授 田島,裕之
内容要旨

 近年、金属カルコゲニドクラスター錯体の研究が盛んである。3d金属のクラスター錯体では、4d、5d金属の錯体に比べて金属-金属結合が弱いため、温度依存の不対電子数変化に基づく特徴的な磁性を示す。しかし、クラスター錯体磁性の詳細な研究は少なく、磁性-構造相関に関する情報は乏しい。新規クラスター錯体を合成し、構造や磁性を研究することはこうした性質の解明に不可欠である。このようなことを念頭に置き、筆者は八面体M6E8(E=Se,S)骨格を持つクロムのクラスター錯体に関して以下の研究を行った。

第1章.クロムカルコゲニド6核クラスター錯体の研究

 当研究室が以前報告した八面体骨格を持つクロムのクラスター錯体[Cr6Se8(PEt3)6],[Cr6S8(PEt3)6]においては、磁化率の測定から、不対電子数が温度低下につれ減少し、極低温で1個分に近づくことが示されていた。しかし、[Cr6E8(PEt3)6]の分子式から導かれるクラスター骨格電子数は20個であるため、基底状態における不対電子数が奇数個であることを示す測定結果を説明できなかった。これは、単結晶X線構造解析では検出できなかった余分の水素原子に起因するものと推定された。これらの錯体について本研究で詳しく検討した結果、従来の合成法で得られるセレニド錯体は[Cr6Se8(PEt3)6](1)と八面体骨格中に1個の水素を内包した[Cr6Se8(H)(PEt3)6](2)の混合物であること、また、スルフィド錯体は[Cr6S8(PEt3)6]ではなく、2と類似の水素内包型錯体[Cr6S8(H)(PEt3)6](3)であることを発見した。2,3は水素原子内包型カルコゲニドクラスター錯体として初めての例である。そこで、2つのセレニド錯体1,2の単離と1,2,3の構造決定を行った。また、金属-金属結合を有するクラスター錯体ではこれまで殆ど行われていない温度依存常磁性の理論解析を行った。

1)合成と構造セレニド錯体の合成と同定

 CrCl2にNa2SexとPEt3を低温で反応させることにより、酸化還元電位が異なる2種類の錯体1,2が混合物として得られる(図1)。1,2は有機溶媒に対する溶解性が近く、溶媒抽出による分離ができない。そこで、酸化還元電位の違いを利用して1,2を分離した。2は1に比べ、より負側の電位で酸化されるため、酸化剤Fc+PF6-を反応させることにより、2のみを選択的に2+に酸化できる。2+は1と溶解性が異なるため、溶媒抽出で2+を除くことにより1を単離できる。また、抽出した2+をCp2Coで還元することにより、2が単離できることがわかった(Scheme1)。

図1.サイクリックボルタモグラムScheme 1

 1,2における水素の存在は、FABマススペクトルによって確認した。1,2の分子イオンピークを図2に示す。1のピークの同位体分布パターンは[Cr6Se8(PEt3)6]+の式から計算されるものと一致する。これに対し、2では1に比べ水素1個分だけ質量数が大きく、2のパターンは[Cr6Se8(H)(PEt3)6]+の式から計算されるものと一致した。これから、1は20電子錯体[Cr6Se8(PEt3)6]であり、2は八面体骨格中に1個の水素原子が配位した21電子錯体[Cr6Se8(H)(PEt3)6]であることがわかった。

図2.1,2の測定スペクトルと[Cr6Se8(H)(PEt3)6]+の計算スペクトル

 スルフィド錯体の合成と同定スルフィド錯体の合成では、Na2Sexの代わりにNaSxHを用いる他、セレニド錯体の場合と同様の方法を用いる(Scheme2)。

Scheme 2

 この反応では、セレニド錯体の場合と異なり、単一の化合物3が得られる。FABマススペクトルの測定で得られた3の分子イオンピークは[Cr6S8(H)(PEt3)6]+の式から計算されるパターンと一致することから、3は20電子錯体[Cr6S8(PEt3)6]ではなく、2と同様の水素配位型21電子錯体[Cr6S8(H)(PEt3)6]であることがわかった。

 構造1,2,3について構造決定を行った。単結晶X線構造解析から、いずれの錯体もCr6E8(E=Se,S)の八面体骨格を持つことが示された(図3)。6個のクロムはほぼ完全な正八面体を作っており、Cr-Crの距離は3(2.59Å)<2(2.66Å)<1(2.81Å)の順に長くなる。また、本研究で初めて存在が明らかとなった2,3の水素は、Cr6八面体の中心に内包されていることが次の2点から強く示唆された。1)八面体骨格の外側に配位する水素は通常ルイス塩基と反応して引き抜かれるのに対し、2,3の水素はルイス塩基と全く反応しない。2)2ではCr-Cr結合が同じセレニド錯体1に比べて短く、6つのクロムが八面体の中心へ引き寄せられており、クロムと八面体の中心にある水素との結合の存在が示唆される。

図3.[Cr6Se8(H)(PEt3)6](2)のORTEP図

 以上から、当研究室が報告していたセレニド錯体が[Cr6Se8(PEt3)6](1)と[Cr6Se8(H)(PEt3)6](2)の混合物であり、スルフィド錯体が[Cr6S8(H)(PEt3)6](3)であることを明らかにした。2,3は、八面体骨格を持ち、水素内包型構造をとるクラスター錯体として初めてのものである。

 2)磁性eff-T図で表した1,2,3の磁化率の測定結果を図4(プロット)に示す。どの錯体も常磁性の化合物である。1は2.0Kでeff0であり、基底状態で不対電子を持たない。これに対し、2,3は2.0Kでeff1.7Bであり、基底状態で1個の不対電子を持つ。これは、骨格電子数が1では偶数(20個)であるのに対し、2,3では奇数(21個)であることに対応している。

図4.1,2,3のeff-T図

 1,2,3では、温度の低下につれeffが減少しており、6つのクロム間に反強磁性的相互作用が働いていることが示唆された。そこで、各錯体における磁気構造を比較するために、Heisenbergモデルを用いた磁性の解析を行った。いずれの錯体でも、6つのクロムの中に4個の不対電子(S=2)を持つものと、3個の不対電子(S=3/2)を持つものがあると考えた。互いにシス位にあるクロム間にのみ反強磁性的相互作用(-J)が働くと考えると(図5)、スピン間相互作用に関係するハミルトニアンHは式(1)のようになった。

図5.Cr6E8骨格におけるクロム間のスピンースピン相互作用

 

 この式を用いて得られる磁化率の理論式を測定結果に適用し、最小二乗法を用いてJについて最適化を行った。但し2では、スピン-軌道間の相互作用に起因すると推定される有効磁気モーメントの顕著な減少が100K以下で観測されたので、計算にはこの相互作用による影響が小さい100K以上の測定結果のみを用いた。

 どの錯体でも得られた計算曲線が測定結果とよく一致した(図4実線)。各錯体をクロム間の反強磁性的相互作用の強い順に並べると、2(374cm-1)>3(306cm-1)>1(88cm-1)となる。これらの相互作用はCr-Cr結合とカルコゲンの2種類の経路を介して働くと考えられる。2つのセレニド錯体で比較すると、2では1に比べて相互作用が強い。これは、2ではCr-Cr結合が短く、この結合を通して働く相互作用が1に比べて強いためと考えられる。一方、スルフィド錯体3では2に比べてCr-Cr結合がさらに短いにもかかわらず、相互作用は逆に弱くなる。これは、カルコゲンがセレンから硫黄に変わると、カルコゲンを介して働く相互作用が弱くなることを示している。

 以上から、これらの錯体の磁性が、骨格に内包される水素の有無、Cr-Crの距離、カルコゲンの種類など構造的特徴に著しく影響されることを明らかにした。

第2章クロムスルフィド12核クラスター錯体の研究

 修士課程では、上述のスルフィド6核クラスター錯体3を二量化することにより、八面体骨格の縮合が可能であることを発見した。クラスター単位が多量化した化合物では、クラスター間に相互作用が働くため、単量体クラスターにはない新たな性質が観測されると考えられる。そこで、本研究ではこの錯体について構造や磁性を詳しく調べた。

 単結晶X線構造解析とFABマススペクトルから、この錯体は各八面体骨格に1個ずつ水素原子が配位した新規12核クラスター錯体[Cr12S16(H)2(PEt3)10](4)であることがわかった。4では、2つの八面体骨格が2本のCr-S結合で結ばれている。また、骨格間のCr-Cr距離が近づいて結合が形成されることによって、各骨格が歪んでいる(図6)。これは同構造のモリブデンの錯体で、骨格の歪みがなく、骨格間のMo-Mo結合もないことと対照的である。クロムの錯体では、骨格内の金属-金属結合が弱く、さらに不対電子を持つ各骨格の間に反強磁性的相互作用が働いて骨格間に金属-金属結合が形成されるために、骨格が歪むと考えられる。

図6.[Cr12S16(H)2(PEt3)10](4)のORTEP図

 磁化率の測定では、4も温度に依存して不対電子数が変化することがわかった。また、4における2つの骨格の持つ磁化率は全測定温度範囲において単量体3における骨格の磁化率の2倍よりも小さくなっており、骨格間に反強磁性的相互作用が働いていることがわかった。これは、各骨格の構造の歪みが磁気的相互作用に起因していることを裏付ける結果ともなっている。

 以上から、この12核クラスター錯体では、金属-金属結合の弱さと、磁性や構造との相関を明らかにすることができた。

審査要旨

 本論文は2章からなり、第1章ではクロムカルコゲニド6核クラスター錯体の研究、第2章ではクロムスルフィド12核クラスター錯体の研究について述べられている。

 従来、八面体骨格を持つクロムのクラスター錯体Cr6Se8(PEt3)6及びCr6S8(PEt3)6においては、磁化率の測定から、不対電子数が温度低下につれ減少し、極低温で1個分に近づくことが示されていた。しかし、Cr6E8(PEt3)6の分子式から導かれるクラスター骨格電子数は20個であるため、基底状態における不対電子数が奇数個であることを示す測定結果を説明できなかった。これは、単結晶X線構造解析では検出できなかった余分の水素原子に起因するものと推定された。そこで本研究でこれらの錯体について詳しく検討した結果、従来の合成法で得られるセレニド錯体はCr6Se8(PEt3)6[1]と八面体骨格中に1個の水素を内包したCr6Se8(H)(PEt3)6[2]の混合物であること、また、スルフィド錯体はCr6S8(PEt3)6ではなく、[2]と類似の水素内包型錯体Cr6S8(H)(PEt3)6[3]であることが明らかにされた。

 [1]、[2]における水素の存在は、FABマススペクトルによって確認された。すなわち[1]の質量スペクトルの同位体分布パターンはCr6Se8(PEt3)6+の式から計算されるものとよく一致すること、またこれに対し、[2]では[1]に比べ水素1個分だけ質量数が大きく、Cr6Se8(H)(PEt3)6+の式から計算されるものとよく一致する事が判明した。一方、単結晶X線構造解析から、[1],[2],[3]の錯体は、いずれもCr6E8(E=Se,S)の八面体骨格を持つことが示された。6個のクロムはほぼ完全な正八面体を作っており、Cr-Crの距離は、[3](2.59Å)<[2](2.66Å)<[1](2.81Å)の順に長くなっている。また、本研究で初めて存在が明らかとなった[2]、[3]の水素は、1)八面体骨格の外側に配位する水素は通常ルイス塩基と反応して引き抜かれるのに対し、[2]、[3]の水素はルイス塩基と全く反応しない、2)[2]ではCr-Cr結合が同じセレニド錯体[1]に比べて短く、6つのクロムが八面体の中心へ引き寄せられており、クロムと八面体の中心にある水素との結合の存在が示唆される、との理由からCr6八面体の中心に内包されていることが強く示唆された。なお、上述の錯体[2]、[3]は、八面体骨格を持ち、水素内包型構造をとるクラスター錯体として初めてのものである。

 本研究では磁性についても詳しい解明がなされた。測定の結果、いずれの錯体も常磁性の化合物であり、[1]は2.0Kでmeffは0であって、基底状態で不対電子を持たない。これに対し、[2]、[3]は2.0Kでmeff=1.7Bであり、基底状態で1個の不対電子を持つ。これは、骨格電子数が[1]では偶数(20個)であるのに対し、[2]、[3]では奇数(21個)であることに対応している。また[1]、[2]、[3]では、温度の低下につれmeffが減少しており、6つのクロム間に反強磁性的相互作用が働いていることが示唆された。そこで各錯体における磁気構造を比較するために、Heisenbergモデルを用いた磁性の解析を行った結果、どの錯体でも得られた計算曲線が測定結果とよく一致した。

 第2章では、上述のスルフィド6核クラスター錯体[3]を二量化することにより、12核クラスター錯体の合成を試みた結果について述べられている。単結晶X線構造解析とFABマススペクトルから、この錯体は各八面体骨格に1個ずつ水素原子が配位した新規12核クラスター錯体Cr12S16(H)2(PEt3)10[4]であることが判明した。[4]では、2つの八面体骨格が2本のCr-S結合で結ばれている。また、骨格間のCr-Cr距離が近づいて結合が形成されることによって、各骨格が歪んでいる。これは同構造のモリブデンの錯体で、骨格の歪みがなく、骨格間のMo-Mo結合もないことと対照的である。クロムの錯体では、骨格内の金属-金属結合が弱く、さらに不対電子を持つ各骨格の間に反強磁性的相互作用が働いて骨格間に金属-金属結合が形成されるために、骨格が歪むと考えられる。

 磁化率の測定では、錯体[4]も温度に依存して不対電子数が変化することがわかった。また、[4]における2つの骨格の持つ磁化率は全測定温度範囲において単量体[3]における骨格の磁化率の2倍よりも小さくなっており、骨格間に反強磁性的相互作用が働いていることがわかった。これは、各骨格の構造の歪みが磁気的相互作用に起因していることを裏付ける結果ともなっている。以上から、この12核クラスター錯体では、金属-金属結合の弱さと、磁性や構造との相関を明らかにすることができた。

 以上述べたように,本論文によって,八面体骨格を持つクロムのクラスター錯体ならびにその2量体の単離、構造決定、磁性の解明がなされた。とくに、八面体骨格を持ち、水素内包型構造をとるクラスター錯体の存在を初めて明らかにされている。なお、本論文の第1,2章は、齋藤太郎氏、井本英夫氏、千原貞次氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54681