学位論文要旨



No 114088
著者(漢字) 小松,弘人
著者(英字)
著者(カナ) コマツ,ヒロト
標題(和) 二価有機セレン化合物におけるSe…X相互作用(X=N,O,F)の解析
標題(洋)
報告番号 114088
報告番号 甲14088
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3577号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 助教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨

 水素結合や疎水結合など,いわゆる非結合性相互作用は,分子の構造や性質を決定する重要な支配因子の一つである.このような相互作用機構の定量的解析は化学の基礎研究として重要である.最近,セレン原子などのヘテロ元素系の非結合性相互作用に関しては,生理活性,不斉反応,および酵素類似触媒反応などへの興味から大きな関心が集められている.しかし,その作用機構に関しては,多くの不明な点が残されている.例えば,セレンと酸素の相互作用の場合,GoldsteinとBartonにより,それぞれ異なった支配機構(静電相互作用機構と軌道相互作用機構)が提唱されている。

 本研究においては,ヘテロ元素系相互作用の作用機構を評価するため,セレンと酸素(Se…O)およびフッ素(Se…F)との非結合性相互作用について,窒素(Se…N)の場合も含めて系統的解析を行った.

図1.モデルと配座平衡(括弧内の置換基は理論計算モデル.)表1.モデル2-5のNMRスペクトルデータ(化学シフト()とスピン結合定数(J(Hz))).【Se…O相互作用】

 Se…O相互作用機構の解明を目的として,17O同位体で標識した三種のモデル化合物(2a-f(X=O),3a-f(X=OH),4a-f(X=OR))を合成した.17O同位体が四極子核であるために,77Se-17O間にスピン結合(JSe…O)は観測されなかった.酸素系モデル(2-4)の17O化学シフト(O)を表1に示す.2ではf→aの順に高磁場シフトし,3および4では逆にf→aの順に低磁場シフトしている.また,77Se NMR化学シフト(Se)では,3,4に比べて,2が大きく低磁場シフトしているが,これはカルボニル酸素がセレンの近くに位置することによる磁気異方性シフトと考えることができる.従ってこのことから,少なくとも2ではSe…O相互作用が存在すると考えられる.

 17O化学シフト(O)に関しては,その酸素上の総電荷量との間に直線関係が成立することが知られている.すなわち,sp3酸素(アルコール,エーテルなど)の場合,負電荷の増大と共に低磁場シフトし,sp2酸素(アルデヒド,ケトンなど)では逆に高磁場シフトする.一連の2-4の配座AおよびBにおける酸素上の電荷(qO(A),qO(B))を計算(Natural Population Analysis:NPA)により求めたところ,Se…O相互作用を有する配座AではOとqO(A)との良い相関が得られた(r2=0.90(2).0.90(3),0.66(4)).これに対し,配座BではOとqO(B)との相関は見られなかった(r2=0.37(2),0.23(3),0.01(4)).この結果,溶液中において2-4は配座Aが優勢であり,Se…O相互作用が配座決定因子として支配的に作用していることがわかった.配座A,B間の全電子エネルギー差(△EAB)においても,ほとんどの場合に配座Aの方が安定となった.NBO(Natural Bond Orbital)解析によりSe…O間の軌道相互作用エネルギー(Edel)を求めたところ,2で6.1〜16.6kcal mol-1,3と4では1.5〜6.8kcal mol-1であった.Edelに対する寄与としては,二次摂動論解析により,酸素の非共有電子対(nO)がSe-Y反結合性軌道(*Se-Y)へ非局在化することによる安定化(nO*Se-Y)が主であった.Se…O相互作用が強くなるほど酸素上の電子が増加する現象は,この支配機構から予想される電子移動と相反するが,Se…O相互作用が強くなるほどnSe*Ph機構とPh*C=O(2)(または*C-O(3.4))機構による電子非局在化が増し,この現象が説明できた.

【Se…F相互作用】

 フッ素系のモデル化合物5a-f(図1)では,77Se-19F間にスピン結合(JSe…F)が観測された(表1).セレノラートアニオン(ArSe-(X=F))においてJSe…Fが観測されなかったことから,5a-fにおけるSe…F相互作用の存在は明らかである.5a-fでは,二つの安定配座(図1)の間に速い平衡が存在し,観測された化学シフト(F,Se)およびスピン結合定数(JSe…F)は,これらの安定配座の加重平均で与えられる.そこで,とJの温度依存性の解析からSe…F相互作用の定量解析を試みた.Y=CN(5c)の場合に,重塩化メチレン(CD2Cl2)中では,2つの配座間のエンタルピー差(△HAB)が1.2±0.2kcal mol-1であるのに対し,重アセトニトリル(CD3CN)中では,4.4±0.9kcal mol-1であった.極性のより高い溶媒中で配座Aが相対的に安定化されることより,Se…F相互作用に静電相互作用機構の寄与はほとんどないことが示され,これより軌道相互作用の重要性が明らかとなった.また,NBO(Natural Bond Orbital)解析から,Se…F相互作用の作用機構はnF*Se-Y(フッ素の非共有電子対のSe-Y反結合性軌道への非局在化)機構によるDonor-Acceptor軌道相互作用であり,そのエネルギーは1.0〜3.5kcal mol-1(Edel)であることが示された.

【Se…X相互作用(X=N,O,F)における系統的解析】

 全モデル1-5における総括的な比較検討を行った.まず,それぞれの化合物1-5の15N,17O,19Fの相対化学シフト(X:比較化合物との化学シフト差)に対し,Se…X軌道相互作用の主成分であるnX*Se-Y機構による安定化エネルギー(E2nd(nX*Se-Y))をプロットした(図2).Se…X相互作用の弱い4.5の場合はa-fを通して変化が小さいため,幾らかr2が悪くなっているが,全体的に良い相関関係である.これは,Se…X相互作用の軌道相互作用支配を示し,また,15N,17O,19Fの化学シフト(X)がSe…X相互作用の良い指標であることを示す.

図2.15N.17O.19Fの相対化学シフト(X)とnX*Se-Y機構による安定化エネルギー(E2nd(nX*Se-Y))との相関(X=N,O,F).

 次に,77Seの相対化学シフト(△Se:比較化合物との化学シフト差)とnX*Se-Y機構による安定化エネルギー(E2nd(nX*Se-Y))との相関を,置換基Yごとにプロットした(図3).アルデヒド型モデル(2)はカルボニルによる磁気異方性シフトのため,他のモデルと傾向が異なった.アルデヒド型モデル(2)を除くモデルに対する直線近似は良い相関を示した.Y=SeAr(e)に関しては,SeArの一様な表現ではあるが,全モデルでSeArを異にしており,またY=Me(f)は各値がa-fを通して大きく変化しないため,相関係数(r2)が悪くなったと考えられる.これらの近似直線は全て正の傾きを持ち,Se…X相互作用が強くなるに従いSeが低磁場シフトする傾向を初めて明白に示すことができた.また,77Seの化学シフト(Se)も,Xと同様に,Se…X相互作用の良い指標であることがわかり,これによってもSe…X相互作用の軌道相互作用支配が示された.

図3.77Seの相対化学シフト(Se)とnX*Se-Y機構による安定化エネルギー(E2nd(nX*Se-Y))との相関(X=N,O,F).

 続いて,セレン上の置換基効果について検討した.二次摂動論解析の結果から,nX*Se-Y機構における電子供与軌道と受容軌道間の重なりがSe…X相互作用エネルギーの決定に大きく寄与していることがわかった.また,原子X(X=N,O,F)の電子供与能は一般的なN>O>Fの順であった.Se-Y結合の電子受容能は,置換基Yにより大きく変化する(図4).すなわち,Y=Cl(a),Br(b)の場合は,N→Fに従い電子受容能の減衰が大きく,一方,他の置換基Yでは緩やかな減衰であることがわかった.

図4.nX*Se-Y機構による安定化エネルギー(E2nd(nX*Se-Y))とセレン上の置換基効果(X=N,O,F).
【まとめ】

 結局,Se…X相互作用(X=N,O,F)はnX*Se-Y機構を主成分とする軌道相互作用が支配機構であり,静電相互作用の寄与はほとんどないことがわかった.また,15N.17O.19Fおよび77Seの化学シフト(X,Se)は,このSe…X相互作用の強さの良い指標であることが示された.さらに,Se…X相互作用におけるセレン上の置換基効果は,電子供与軌道と受容軌道間の重なりが大きく寄与していることが明らかとなった.

審査要旨

 論文題目:二価有機セレン化合物におけるSe…X相互作用(X=N,O,F)の解析

 本博士論文は全体で6章で構成されている.

 1章 序論 研究目的が述べられている.

 微弱相互作用系の機構解明と作用力の定量評価のための方法論の確立を目的として、二価有機Seをプローブに用いて、Se…F,Se…O,Se…Nの3つの相互作用を実験と理論の両面から検討した.

2章モデル化合物の選択と合成および方法論の選択に関する記述.

 窒素系は理論計算のみ..O,Fではo位に酸素(formyl基,CH2O)またはフッ素(CH2F)を持つbenzeneselenenyl誘導体(ArSeY;Y=ArSeY,Y=Cl(a),Br(b),CN(c),SPh(d),SeAr(e),CH3(f)).酸素系:17O同位体で標識した三種の酸素系モデル化合物(o-formyl(2a-f),o-hydroxymethyl(3a-f),o-isopropoxymethyl-benzeneselenenyl誘導体(4a-f);ArSeY,Y=Cl(a),Br(b),CN(c),SPh(d),SeAr(e),CH3(f)).フッ素系:(o-fluoromethyl-benzeneselenenyl誘導体(5a-f);ArSeY,Y=Cl(a),Br(b),CN(c),SPh(d),SeAr(e),CH3(f))方法論としては次のもの

 実験:NMRの通常測定.温度変化測定.

 理論:Gaussian-94計算.特にNatural Bond Orbital法による軌道相互作用解析.非線形最小自乗法

3-6章結果の記述

 相互作用の強さの順序はSe…N>Se…O>Se…F.いずれも軌道相互作用機構(donor-acceptor相互作用)でイオン性(静電相互作用)がほとんどない.特に,Se…O相互作用に関する論争に実験的決着(軌道相互作用か静電相互作用か)をつけたということが述べられております.

 以下の3つの点によって,この論文は理学博士の学位論文として評価されるものと判断され全員一致で合格という判定がなされた.

 1.微弱相互作用系の新しい実験的定量解析法を確立したこと.

 2.Se…O相互作用に関する議論(軌道相互作用か静電相互作用か)に実験的決着をつけたこと.

 3.この種の相互作用が基本的に軌道相互作用であることを実験的に証明したこと.

 なお本博士論文の全章は岩岡道夫(助手)との共同研究であるが,論文提出者が主体となって合成,計算,解析を行ったもので,論文提出者の寄与が充分であると判断する.

 したがって,博士(理学)の学位を授与出来ると認める.

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