本論文は、分子性導体の構成分子となるべき新しい電子受容性パイ化合物の合成的研究と、それらの電荷移動錯体およびラジカルイオン塩に関する物性的、構造的研究を内容とし、5章からなる英文の論文である。 第1章ではこの論文の背景となる分子性電気伝導体の理解とこれまでの研究の状況をレヴィーしている。ここにも述べられている通り、これまでの分子性導体の研究は電子供与体であるTTF誘導体のラジカルカチオン塩を中心に行われており、ラジカルアニオン塩についてはいまだ十分に開発されたとは言えない状況にあることからして、本研究の意義を十分に認めることができる。 第2章では、チオフェン縮環ジシアノキノジイミン(DCNQI)とそのヨウ化銅(I)錯体について述べられている。本章で注目すべき結果は、これら合成した化合物の多くがヨウ化銅(I)との反応により、銅とともにヨウ素を含む伝導性錯体を形成する点である。従来、DCNQIの誘導体はCu(DCNQI)2の化学式で表される伝導性錯体を与えることが知られているが、チオフェン環を縮合することにより全く異なる化合物を与えたことになる。この点を解明すべく、チオフェン環に種々の置換基を導入した誘導体、立体的要素を変えた誘導体などを合成し、ヨウ化銅(I)との反応による錯体生成を試みている。電子受容体の第一還元電位と得られた錯体の組成の比較より(acceptor)(CuI)2という組成のヨウ化銅錯体の形成条件としては電子受容体の分子構造よりむしろ電子的な性質が大きな寄与を与えることを明らかにしている。 結晶性の良い錯体が得られ難いようで、残念ながら、単結晶のX線結晶構造解析は行われていないが、以前に結晶構造解析されたヨウ化銅(I)錯体との粉末X線回折パターンの比較を詳細に行うことにより、新たに得られたヨウ化銅(I)錯体の構造は、電子受容体分子が二座配位してヨウ化銅(I)の梯子状構造に架橋した配位ポリマーであると結論している。このような構造の伝導性錯体はこれまでに例がなく、この分野に新たな系列の化合物を提供し物性研究の対象に加えた点は新物質開発の立場から高く評価される。 第3章では、チオフェン縮環TCNQおよびDCNQIの分子設計を更に拡張し、フラン環を縮環したDCNQIおよびTCNQ誘導体の合成とそれらの錯体の生成および物性について述べている。母体化合物はいずれもチオフェン縮環体より高い電子受容性を有することをサイクリックボルタンメトリーの測定結果より明らかにしている。フラン縮環体とチオフェン縮環体のスペクトル的性質や電気化学的な性質は、酸素原子と硫黄原子の分極率の違い、電気陰性度の違い、原子半径の違いにより解釈され、ヘテロ原子の影響についての系統的な考察は物理有機化学の基礎として重要な貢献をするものと考えられる。 さらに第3章では、作成された対カチオンが異なる三種のラジカルアニオン塩について、X線結晶解析により同形の結晶構造であることを明らかにし、伝導度との関係を検討している。すなわち、カラム中に二種類の分子が積層し三量体を形成している構造について、三量体内と三量体間の面間隔が、カチオンの大きさの順になることを指摘し伝導度の実測値を見事に解釈している。 第4章では、拡張共役系からなり、また多段階の酸化還元挙動を示すことが期待される電子受容体として、ヘキサシアノスチルベンキノジメタンを分子設計し合成を行っている。目標化合物の合成は意外に困難で、数多くの合成経路を検討したのちに、最終的に目標化合物をジアニオンのテトラエチルアンモニウム塩として単離している。この合成への努力は高く評価されて然るべきである。ジアニオンのサイクリックボルタンメトリーの測定結果より、予想通り多段階レドックス系を構成するが、アニオンラジカルが不安定で電極表面でポリマー化することを明らかにしている。 第5章では、難溶性のアクセプターから電気化学的にラジカルアニオン塩をつくる新しい方法について述べている。すなわち、支持電解質としてテトラキス[3、5-ビス(トリフルフルオロメチル)フェニル]ボラート塩を用いる方法で、極性のそれほど高くない溶媒からも対応するラジカルアニオン塩の良質の結晶を得ることができる点で、非常に適応範囲の広い、利用価値の高い方法と認められる。 以上の成果は、いずれも分子性導体の分野において大きな貢献をし、この分野の進展に資するところが大きいと判断される。よって、本論文審査委員会は全員一致で本研究が博士(理学)の学位論文として合格であると判定した。 なお、本研究は、東京大学小林啓二教授ほか1名との共同研究の部分があるが、論文提出者が主体となって実験および考察を行ったもので、論文提出者が主たる寄与をなしたものと認められる。 |