分子の配座や空間的な配置がある程度固定され、かつ近接した位置に存在する結晶中で起こる反応、すなわち固相反応には溶液での反応には見られないような高度の選択性および特異な反応性が期待できる。これら固相反応のほとんどは分子内反応または同種の分子間反応であり、異種二分子間の反応例は非常に少ない。まして、典型的な溶液反応の一つであるソルボリシスは、溶媒を用いないことが最大の特長である固相反応とは両立し得ない筈である。そこで本研究では、チオフェン環を有するトリチル型アルコールが固相において比較的容易にカルボカチオンを発生することを見出し、固相でのカルボカチオンの発生を経て起こる求核置換反応について検討を行った。求核剤としてソルボリシスの溶媒であるアルコールを固体のトリチル型アルコールに蒸気として接触させる「固相-気相接触反応」、およびゲスト分子として包接体結晶に取り込まれた溶媒分子をホスト分子であるトリチル型アルコールと反応させる「包接体結晶中での反応」を行い、溶媒分子による固相求核置換反応を実現した。本研究で用いた一連のトリチル型アルコール1-5を以下に示す。 第二章ではトリチル型アルコールと電子受容体から得られた電荷移動錯体と求核剤であるアルコール蒸気との接触による固相求核置換反応について述べる。 化合物1aと電子受容体である2,3-ジクロロ-5,6-ジシアノベンゾキノン(DDQ)との1:1混合粉末をめのう乳鉢中で混合、すりつぶすことにより得られた暗緑色粉末をメタノール蒸気にさらすと、固体状態を保ったまま1aのヒドロキシ基がメトキシ基に置換した2aが生成する反応を見出した。同様の置換反応は電子受容体としてテトラシアノエチレン(TCNE)を用い、反応基質として1b,eおよびジオール3a,4a,bを用いた時にも進行したが、電子受容体が存在しない場合やすりつぶしによって着色しなかった化合物では置換生成物は全く得られなかった。 1aと電子受容体を混合、すりつぶして得られた着色粉末にはESRシグナルが現れ、650nm付近に電荷移動吸収が見られた。また、この着色粉末は粉末X線回折からアモルファス状態にあることがわかった。1aは非平面の電子供与体であり溶液からの再結晶では電子受容体との結晶性の電荷移動錯体は生成しないが、すりつぶすことによって局所的に一電子移動を起こすほどの相互作用が可能になり、アモルファスの電荷移動錯体を形成したと考えられる。 アルコール溶液中で1aのラジカルカチオン1a・+を電気化学的に発生させた結果、1a・+からはフルオレノンとともにプロトンが発生し、そのプロトンが触媒となってアルコリシスが進行することが示唆された。そこで、求核剤であるアルコールをゲスト分子とする包接体結晶を塩酸蒸気と接触させて固相-気相接触反応を行ったところ、固体中においてもプロトンにより容易に基質のカルボカチオンが発生すること、および発生したカルボカチオンが固体中のアルコール分子により置換を受けることがわかった。また、1aと触媒量の1aの過塩素酸塩の混合粉末をアルコール蒸気にさらす実験により、触媒量のカルボカチオンが存在すれば連鎖的にアルコールによる置換反応が進行することが示された。 図1.1a-DDQすりつぶし混合粉末の固体UV-visスペクトルおよびESRスペクトル 以上の結果から電子受容体との混合すりつぶし-溶媒蒸気との接触による固相求核置換反応について、電子受容体への電荷移動によって生成した基質のラジカルカチオンから発生したプロトンが置換反応の触媒となるスキーム1のような連鎖反応機構を推定した。 第三章では求核剤であるアルコールをゲスト分子とする包接体結晶の光反応について述べる。ホスト分子としての資質を持たせるため1のフルオレニル基をベンゾフルオレニル基に変えて嵩高さを増した6は種々のアルコールをゲストとして包接体結晶を与えた。6a,bおよびジオール4aのアルコール包接体結晶の粉末に高圧水銀灯を用いて光照射を行ったところ、ゲストのアルコールによるホスト分子の置換が起こりメトキシ置換体が生成した。光照射後の無包接体の粉末には480nm付近に吸収が見られ、これは別途合成、単離した6a,bおよびジオール4aの類縁体である1aの過塩素酸塩の吸収と一致した。従って固相での光照射によりホスト分子のカルボカチオンが発生したことがわかり、光照射によって固体中に発生したホスト分子のカルボカチオンにゲスト分子が求核置換したと考えられる。また、ジオールのアルコール包接体およびその類縁体4aの光反応生成物の解析により、置換生成物であるエーテルのC-O結合が固相で形成されていること、つまり置換反応が固相で完了していることを明らかにした。 図2.1a,光照射後の1a,1a+ClO4-の固体UV-visスペクトル 第四章では、光照射によって固体中に発生したカルボカチオンと求核剤であるアルコール蒸気との接触による固相置換反応について述べる。1aの粉末に高圧水銀灯を用いて光照射を行ったのち求核剤であるアルコール蒸気にさらすことにより、固体中に発生した基質のカルボカチオンの濃度よりはるかに高い収率でアルコキシ置換体2aが生成する反応を見出した。同様の光照射-アルコール蒸気との接触による置換反応は1b,およびジオール3a,4a,bを用いた時にも進行した。光照射によって固体中に発生したカチオンはわずかであることが固体UV-vis(反射)スペクトルから示唆されたが、第二章に述べたように、固体中に発生したカルボカチオンとアルコール蒸気との接触により置換生成物とプロトンが発生し、連鎖的にアルコールによる置換反応が進行すると考えられる。 第五章では溶液反応に視点を移し、第二章で述べた電荷移動錯体とアルコール蒸気との接触による固相求核置換反応に対応する溶液反応を調べた。1のメタノール溶液を電子受容体とともに加熱すると対応するメトキシ置換体2が生成した。反応の電子受容体依存性および基質依存性について検討を行い、固相での反応機構を支持する結果を得た。また、1と電子受容体の溶液中での電荷移動相互作用は低温になるほど大きくなることが低温でのUV-visスペクトルにより示された。この結果は1と電子受容体の固体同士の混合すりつぶしと、溶液において温度を低下させ分子の運動をおさえることが同様の効果を示したと考えられる点で興味深い。 |