学位論文要旨



No 114096
著者(漢字) 田中,素子
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,モトコ
標題(和) 固相におけるカルボカチオンの発生と反応
標題(洋)
報告番号 114096
報告番号 甲14096
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3585号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 助教授 小林,昭子
 東京大学 助教授 澤村,正也
内容要旨

 分子の配座や空間的な配置がある程度固定され、かつ近接した位置に存在する結晶中で起こる反応、すなわち固相反応には溶液での反応には見られないような高度の選択性および特異な反応性が期待できる。これら固相反応のほとんどは分子内反応または同種の分子間反応であり、異種二分子間の反応例は非常に少ない。まして、典型的な溶液反応の一つであるソルボリシスは、溶媒を用いないことが最大の特長である固相反応とは両立し得ない筈である。そこで本研究では、チオフェン環を有するトリチル型アルコールが固相において比較的容易にカルボカチオンを発生することを見出し、固相でのカルボカチオンの発生を経て起こる求核置換反応について検討を行った。求核剤としてソルボリシスの溶媒であるアルコールを固体のトリチル型アルコールに蒸気として接触させる「固相-気相接触反応」、およびゲスト分子として包接体結晶に取り込まれた溶媒分子をホスト分子であるトリチル型アルコールと反応させる「包接体結晶中での反応」を行い、溶媒分子による固相求核置換反応を実現した。本研究で用いた一連のトリチル型アルコール1-5を以下に示す。

 第二章ではトリチル型アルコールと電子受容体から得られた電荷移動錯体と求核剤であるアルコール蒸気との接触による固相求核置換反応について述べる。

 

 化合物1aと電子受容体である2,3-ジクロロ-5,6-ジシアノベンゾキノン(DDQ)との1:1混合粉末をめのう乳鉢中で混合、すりつぶすことにより得られた暗緑色粉末をメタノール蒸気にさらすと、固体状態を保ったまま1aのヒドロキシ基がメトキシ基に置換した2aが生成する反応を見出した。同様の置換反応は電子受容体としてテトラシアノエチレン(TCNE)を用い、反応基質として1b,eおよびジオール3a,4a,bを用いた時にも進行したが、電子受容体が存在しない場合やすりつぶしによって着色しなかった化合物では置換生成物は全く得られなかった。

 1aと電子受容体を混合、すりつぶして得られた着色粉末にはESRシグナルが現れ、650nm付近に電荷移動吸収が見られた。また、この着色粉末は粉末X線回折からアモルファス状態にあることがわかった。1aは非平面の電子供与体であり溶液からの再結晶では電子受容体との結晶性の電荷移動錯体は生成しないが、すりつぶすことによって局所的に一電子移動を起こすほどの相互作用が可能になり、アモルファスの電荷移動錯体を形成したと考えられる。

 アルコール溶液中で1aのラジカルカチオン1a・+を電気化学的に発生させた結果、1a・+からはフルオレノンとともにプロトンが発生し、そのプロトンが触媒となってアルコリシスが進行することが示唆された。そこで、求核剤であるアルコールをゲスト分子とする包接体結晶を塩酸蒸気と接触させて固相-気相接触反応を行ったところ、固体中においてもプロトンにより容易に基質のカルボカチオンが発生すること、および発生したカルボカチオンが固体中のアルコール分子により置換を受けることがわかった。また、1aと触媒量の1aの過塩素酸塩の混合粉末をアルコール蒸気にさらす実験により、触媒量のカルボカチオンが存在すれば連鎖的にアルコールによる置換反応が進行することが示された。

図1.1a-DDQすりつぶし混合粉末の固体UV-visスペクトルおよびESRスペクトル

 以上の結果から電子受容体との混合すりつぶし-溶媒蒸気との接触による固相求核置換反応について、電子受容体への電荷移動によって生成した基質のラジカルカチオンから発生したプロトンが置換反応の触媒となるスキーム1のような連鎖反応機構を推定した。

 

 第三章では求核剤であるアルコールをゲスト分子とする包接体結晶の光反応について述べる。ホスト分子としての資質を持たせるため1のフルオレニル基をベンゾフルオレニル基に変えて嵩高さを増した6は種々のアルコールをゲストとして包接体結晶を与えた。6a,bおよびジオール4aのアルコール包接体結晶の粉末に高圧水銀灯を用いて光照射を行ったところ、ゲストのアルコールによるホスト分子の置換が起こりメトキシ置換体が生成した。光照射後の無包接体の粉末には480nm付近に吸収が見られ、これは別途合成、単離した6a,bおよびジオール4aの類縁体である1aの過塩素酸塩の吸収と一致した。従って固相での光照射によりホスト分子のカルボカチオンが発生したことがわかり、光照射によって固体中に発生したホスト分子のカルボカチオンにゲスト分子が求核置換したと考えられる。また、ジオールのアルコール包接体およびその類縁体4aの光反応生成物の解析により、置換生成物であるエーテルのC-O結合が固相で形成されていること、つまり置換反応が固相で完了していることを明らかにした。

 

図2.1a,光照射後の1a,1a+ClO4-の固体UV-visスペクトル

 第四章では、光照射によって固体中に発生したカルボカチオンと求核剤であるアルコール蒸気との接触による固相置換反応について述べる。1aの粉末に高圧水銀灯を用いて光照射を行ったのち求核剤であるアルコール蒸気にさらすことにより、固体中に発生した基質のカルボカチオンの濃度よりはるかに高い収率でアルコキシ置換体2aが生成する反応を見出した。同様の光照射-アルコール蒸気との接触による置換反応は1b,およびジオール3a,4a,bを用いた時にも進行した。光照射によって固体中に発生したカチオンはわずかであることが固体UV-vis(反射)スペクトルから示唆されたが、第二章に述べたように、固体中に発生したカルボカチオンとアルコール蒸気との接触により置換生成物とプロトンが発生し、連鎖的にアルコールによる置換反応が進行すると考えられる。

 第五章では溶液反応に視点を移し、第二章で述べた電荷移動錯体とアルコール蒸気との接触による固相求核置換反応に対応する溶液反応を調べた。1のメタノール溶液を電子受容体とともに加熱すると対応するメトキシ置換体2が生成した。反応の電子受容体依存性および基質依存性について検討を行い、固相での反応機構を支持する結果を得た。また、1と電子受容体の溶液中での電荷移動相互作用は低温になるほど大きくなることが低温でのUV-visスペクトルにより示された。この結果は1と電子受容体の固体同士の混合すりつぶしと、溶液において温度を低下させ分子の運動をおさえることが同様の効果を示したと考えられる点で興味深い。

審査要旨

 本論文は5章から構成され、有機化合物では従来あまり例のない固体と気体との接触による固相反応の開発を内容とするものである。固相反応は、分子の配座や空間的な配置が固定されているため、溶液での反応には見られない高度の選択性や特異な反応性が期待されるが、これまで研究対象にされている固相反応のほとんどは分子内反応または同種の分子間反応であり、異種二分子間の反応例は極めて少ない。ましてや、溶媒との反応を含むソルボリシス反応を固相反応として実現することは、本来、無溶媒であることが最大の特長である固相反応とは相容れない命題である。本論文は、その常識を覆す新たな手法を開発し、反応の過程を詳細に検討したものである。

 第一章は、有機固相反応の研究の現状をスコープし、本研究の位置付けを述べている。特に、「固相異種二分子反応」と「固体・気体接触反応」という視点から、本研究の意義の高さを伺い知ることができる。第2章では、先ず、基質のトリチル型アルコールと電子受容体を直接に乳鉢中で混合摺り合わせることにより電荷移動が起こり、固体中にラジカルカチオン種が生成することを検証している。ここでは、摺り合わせるという単純な操作について、これまで見過ごされていた非常に重要な指摘がなされている。すなわち、周期的配列をもつ結晶状態を与えない場合でも、二成分間には局所的に電荷移動が可能なほどの強い分子間コンタクトを実現できるという点である。固体がアモルファス状態でも電荷移動相互作用が存在し得ることを示したことは高く評価される。

 さらに第二章では、電荷移動により結晶中に生成したラジカルカチオン種がアルコールの蒸気に曝されることにより、如何なる経路を経てアルコキシド置換体生成物に導かれるかを検討している。ラジカルカチオンが分解する過程は、溶液での電気化学的酸化反応と比較検討することにより、また、固体の各種スペクトルの測定から調べられ、固体中でカルボカチオンとプロトンが発生していることを突き止めている。固体中でカルボカチオンが生成し、脂肪族の求核置換反応が溶液中と同じように起こるという、本論文中のハイライトとも言える部分である。プロトンはアルコール蒸気と接触することにより連鎖的に再生することを実証しており、「固体・気体接触反応」の特長的現象を示したものとして、固体反応における重要な貢献と見なすことができる。

 第三章では求核剤であるアルコールをゲスト分子とする包接体結晶の光反応について述べている。溶媒分子との固相二分子反応を実現させるため、既に溶媒分子を取り込んで結晶化した包接体結晶を利用した点は卓越したアイデアである。このような固体での光反応は、溶液中での光ソルボリシスに対応するもので、アルコールを蒸気として反応させる必要もないことは強調されてよい。

 光照射後の固体基質に見られるUV吸収は、別途合成・単離したカルボカチオン過塩素酸塩の吸収と一致したことから、固相での光照射により基質であるホスト分子のカルボカチオンが発生したことを証明している。ジオールのアルコール包接体およびその類縁体の光反応生成物の解析により、置換生成物であるエーテルのC-O結合が固相で形成されていること、つまり置換反応が固相で完了していることが明らかにされていることも重要な実験結果である。

 第四章では、光照射によって固体中に発生したカルボカチオンと求核剤であるアルコール蒸気との接触による固相置換反応について述べるている。固体状態の基質に光照射を行ったのち求核剤であるアルコール蒸気に曝すと、固体中に発生した基質のカルボカチオンの濃度よりはるかに高い収率でアルコキシ置換体が生成することをを見出している。光照射によって固体中に発生したカチオンはわずかであることが固体UV-vis(反射)スペクトルから示唆されたが、第二章に述べられたように、固体中に発生したカルボカチオンとアルコール蒸気との接触により置換生成物とプロトンが発生し、連鎖的にアルコールによる置換反応が進行する機構が提案されている。

 第五章では溶液反応に視点を移し、第二章で述べられた電荷移動錯体とアルコール蒸気との接触による固相求核置換反応に対応する溶液反応が調べられた。反応の電子受容体依存性および基質依存性について検討が行われ、固相での反応機構を支持する結果を得ている。

 以上の研究結果には、固相有機反応における新しいアプローチを提示した意義が大きいと認められ、今後のこの分野の研究の進展に資するところは多大と判断される。これにより、本論文審査委員会は全員一致で本研究が博士(理学)の学位論文として合格であると判定した。

 なお本研究は、小林啓二教授(指導教官)との共同研究となる部分を含むが、論文提出者が研究計画から実験、解析および考察のすべての段階で主導的な役割を果たしており、論文提出者が主体的な寄与をしたものと認められた。

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