学位論文要旨



No 114098
著者(漢字) 峯本,紳一郎
著者(英字)
著者(カナ) ミネモト,シンイチロウ
標題(和) 遷移金属クラスターイオンの電子構造と幾何構造に関する研究
標題(洋) Electronic and Geometric Structures of Transition Metal Cluster Ions
報告番号 114098
報告番号 甲14098
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3587号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 田島,裕之
 東京大学 助教授 岡本,裕巳
内容要旨 I.

 遷移金属クラスターとは3〜103個の遷移金属原子が集合した有限多体系であり、気相にも固体にも見られない特異な物性・反応性を持つ。また、その性質を活かして新奇な材料を作る試みもなされている。一方、その電子構造や幾何構造については十分な理解が得られていない。本研究では、赤外から紫外領域にわたる吸収スペクトルの測定と理論計算によるシミュレーションに基づき、コバルト、バナジウム、マンガン、および銀のクラスターイオンの電子構造と幾何構造の関連を明らかにすることを試みた。吸収スペクトルの測定にあたっては、光解離法を用い、その高感度化に成功した。また、理論計算の結果の結果から、磁性がクラスターイオンの幾何構造とそのサイズ依存性を決定づける要因となっていることが明らかになった。

II.実験

 ビーム中に生成されるクラスターのように、数密度の非常に小さな物質の吸収スペクトルの測定には、特別な工夫が必要となる。そこで、金属クラスターイオン、Mn+、にArを付着させたMn+Arに可視から赤外領域のレーザー光を照射し、その波長を掃引しつつ、Arの脱離に伴って生成するMn+を検出することによって、吸収スペクトルに相当する光解離フラグメント生成スペクトル(以下光解離スペクトルと呼ぶ)を測定した。すなわち、Mn+Arの結合エネルギーは0.2eV程度以下と低いため、光励起に伴う振動エネルギーの増加が効率良くAr原子の脱離を引き起こすと期待される。さらに、Ar原子がMn+の電子構造や幾何構造に及ぼす影響は極めて小さいため、Mn+Arの光解離スペクトルはMn+の吸収スペクトルに相当すると考えられる。

 クラスターイオン、Mn+Ar、はAr/He混合ガス中でレーザー光を金属試料表面上に集光することにより生成した。第一飛行時間型(TOF)質量分析計により質量選別した後、特定のサイズを持つクラスターイオンのみに波長可変レーザー光(0.5-5.5eV)を照射した。リフレクトロンを用いた第二TOF質量分析計により、Arの脱離により生成したMn+を質量分析し検出した。

 このようにして求めた吸収スペクトルを理論計算によるスペクトルと比較した。まず、ADF(Amsterdam Density Functional)プログラムによって安定に存在する幾何構造を求めた。得られた幾何構造に対して、スピン分極DV-X法を用いて電子構造を計算し、遷移エネルギーとその遷移に対応する振動子強度を求めた。そして、それぞれの遷移に共通の線幅を持たせて吸収スペクトルを得た。いくつもの安定構造およびそれに近い構造に対してこの過程を繰り返し、光解離スペクトルを最もよく再現する幾何構造を調べた。

III.コバルトクラスターイオンの電子構造

 図1にCon+(n=3-5)の光解離スペクトルを示す。スピン分極DV-X法によって得られた最も実測に近い吸収スペクトルについても図1に実験結果と併せて示す。実測のスペクトルに最も近いスペクトルを与える幾何学的構造は、3量体については正三角形型、4量体については正四面体型、5量体については四角錘型であることが分かった。このとき、どのサイズのクラスターにおいても、多数スピンと少数スピンとを持つ状態密度のエネルギー依存性に大きな差があり、それぞれのスピンを持つ電子の数が異なる。その差は1原子あたりのスピン磁気モーメントとして約2.0Bであった。このことから、Con+の3d価電子は強磁性的にスピン結合していると考えられる。

IV.バナジウムクラスターイオンの電子構造

 図2にバナジウムクラスターイオン、Vn+(n=3-13)、の光解離スペクトルを示す。いずれのスペクトルにも1.3eV付近に吸収ピークが、また、1.5eV以上のエネルギー領域にいくつかのピークを持つ強い吸収帯が見られる。ここでは特に、サイズの小さいクラスターイオン、Vn+(n=3-5)に着目し、理論計算を併用してその電子構造を調べた。

V4+の電子構造

 スピン分極DV-X法による計算の結果、ゆがんだ四面体型構造を仮定したとき、実験結果に最も近いスペクトルを与えることがわかった。このとき、多数スピンと少数スピンとを持つ状態密度には差がほとんどなく、磁気モーメントは小さく、クラスター全体として1.0Bであった。この結果は、クラスター全体として大きな磁気モーメント(19B)を持つ4量体負イオン、V4-、とは対照的である。その原因として、原子-原子間の距離、すなわち、結合長(r)の違いが挙げられる。これまでの研究から、金属クラスターの磁気モーメントはその結合長が短いと小さく、ある閾値より長いと急に大きくなることが知られている。バナジウムクラスターではこの閾値が結合長近辺にあるため、V4+(r=2.3Å)とV4-(r=3.1Å)において磁性の変化が顕著になると考えられる。

V3+およびV5+の電子構造

 3量体および5量体についても同様に吸収スペクトルのシミュレーションを行ったところ、V3+は直線型、V5+は三辺両錘型のときに、実測の光解離スペクトルに最も近い吸収スペクトルを与えた。また、多数スピンと少数スピンとの状態密度のエネルギー依存性の差を反映し、その磁気モーメントはクラスター全体で、V3+の場合4.0B、V5+の場合2.0Bであり、V4+よりも大きな値を示した。

吸収スペクトルのサイズ依存性

 バナジウムクラスターイオン、Vn+(n=3-13)、において1.3eV付近に見られる吸収ピークに着目すると、その位置はクラスターサイズによってあまり変化しない。しかし、その吸収強度には、偶数サイズで強く、奇数サイズで弱いという偶奇性が観測される。この理由として、偶数サイズと奇数サイズとのクラスターイオンにおける電子構造の違いが挙げられる。Vn+(n=3-5)についての計算結果から、低エネルギー領域の光吸収は主にフェルミ準位付近の電子に由来すると考えられる。奇数サイズのクラスターイオンでは多数スピンと少数スピンとをもつ電子の状態密度に差があり、また、フェルミ準位付近の状態密度が減少している。そのため、低エネルギー領域での吸収強度が低下する。ところが、偶数サイズではこのような吸収強度の低下が起こらない。そのために、スペクトルに偶奇性が現れると考えられる。計算結果によると、この電子構造の偶奇性はバナジウムクラスターのスピン結合に由来する。電子は原子付近に局在化しており、各原子が持つ大きな磁気モーメントはクラスター全体で小さくなるように結合している。奇数サイズのクラスターイオンでは、d電子のスピンが完全には打ち消し合わないため、多数スピンと少数スピンとを持つ状態密度に差ができていると考えられる。

V.マンガンクラスターイオンの電子構造と幾何構造

 マンガンクラスターイオン、Mnn+(n=3,4)、の光解離スペクトルの測定を行ったところ、解離生成物としてMnn-1+とMnn-2+とが観測された。図3(b)にMn4+の光解離スペクトルを示す。1.8eV以下のエネルギー領域ではMn3+、1.9eV以上ではMn2+が主生成物になる。統計的な蒸発過程によって解離がおこると仮定し、Mn3+、Mn4+の結合エネルギーをそれぞれ約1.1および0.7eVと推定し、解離生成物の断面積の和として親クラスターイオン、Mn4+、の吸収スペクトルを計算した。その結果を図3(a)に示す。スペクトルには、はっきりとした構造がなく線幅の広い吸収帯が見られる。線幅の広がりは、幾何構造の揺らぎによると考えられる。ADF計算によってMn4+の構造最適化を行ったところ、菱形構造が最も安定な構造であるが、面外変角の変位に伴うポテンシャルエネルギーの変化は小さい。このことから、Mn4+は、振動励起状態において面外変角座標の方向に幾何構造の広い分布を持っていると推定される。

VI.銀4量体イオンの電子構造と解離ダイナミクス

 銀4量体イオン、Ag4+、の光解離スペクトルを測定したところ、3本の主ピークが検出された。いずれのピークも0.1eV以下の狭い線幅を持つことから、Ag4+の構造の揺らぎは小さいと考えられる。一方、解離生成物Ag2+、Ag3+に着目すると、励起波長によってこれらの分岐比が著しく変化する。光解離生成物の並進速度分布を測定したところ、並進エネルギー(〜0.1eV)は余剰エネルギー(〜1.5eV)に比べて極めて小さいことが分かった。このことから、光解離後の余剰エネルギーの大部分は解離生成物の内部エネルギーとなっており、解離生成物は振動・回転励起状態に生成されると考えられる。

VII.結論

 高感度な光解離分光法によって遷移金属クラスターイオンの吸収スペクトルに相当する光解離スペクトルを測定した。そして、理論計算によるスペクトルのシミュレーションによって、幾何構造と磁性や反応性との関連について考察した。特に、d電子の数に着目し、コバルト、バナジウム、マンガン、および銀クラスターイオンの幾何構造が、少数スピンを持つ軌道における電子の占有率によって大きく影響を受けることを示した。

図1:Con+(n=3-5)の吸収スペクトル(●)とスピン分極DV-Xa法による計算結果(実線)。図2:Vn+(n=3-5)の光解離スペクトル(●)とスピン分極DV-Xa法による計算結果(実線)。図3:Mn4+の光解離スペクトル。(a):全吸収断面積(b):Mn3+(□)およびMn2+(△)の生成断面積。
審査要旨

 本論文は7章からなり、第1章は、序説、第2章は、吸収スペクトルの測定と解析、第3章はコバルトクラスターイオン、第4章はバナジウムクラスターイオン、第5章はマンガンクラスターイオン、第6章では銀4量体イオン、そして第7章で研究のまとめが述べられている。

 第1章は、序説として、遷移金属クラスターイオンの電子構造と幾何構造の関連を解明するという研究の目的を掲げ、さらに研究方法について概要を述べている。特に、赤外から紫外領域にわたる吸収スペクトルの高感度測定が光解離分光法によって可能となること、そして、スペクトルを密度汎関数法による理論シュミレーションと比較することが金属クラスターの電子構造と幾何構造の関連を明らかにするために極めて有効であることが述べられている。

 第2章では、まず、吸収スペクトル測定の際の実験方法が具体的に述べられている。論文提出者は、金属クラスターイオンにArを付着させたArに可視から赤外の領域のレーザー光を照射し、その波長を掃引しつつ、Arの脱離に伴って生成するを検出することによって、吸収スペクトルに相当する光解離スペクトルを測定している。このようにして求めた吸収スペクトルをスピン分極DV-X法による計算スペクトルと比較し、光解離スペクトルを最もよく再現する幾何構造を探索している。

 第3章〜第6章では、コバルトクラスターイオン、バナジウムクラスターイオン、マンガンクラスターイオン、銀4量体イオンについて、光解離効率の波長依存性を利用した吸収スペクトルの測定とスピン分極DV-X法による計算により電子構造と幾何構造の解明を試みている。

 コバルトクラスターイオン()の幾何構造が3量体については正三角形型、4量体については正四面体型、5量体については四角錘型であることを推定している。また、バナジウムクラスターイオン()では、3量体は直線型、4量体は、ゆがんだ四面体、5量子体は三辺両錐型であると推定している。また、マンガンクラスターの4量体()では、スペクトルの線幅の広がりが幾何構造のゆらぎを反映したものであることを推論している。

 第7章では、遷移金属クラスターイオンの吸収スペクトルに相当する光解離スペクトルの測定と理論計算によるスペクトルのシミュレーションによって幾何構造と磁性や反応性の関連について考察した結果をまとめている。論文提出者は、特に、d電子の数に着目し、コバルト、バナジウム、マンガン、および銀クラスターイオンの幾何構造が少数スピンを持つ軌道における電子の占有率によって大きく影響を受けることを研究の成果として強調している。

 以上、論文提出者の遷移金属クラスターイオンの電子構造と幾何構造に関する研究は、独創性が高いものと認められる。なお、本論文第3章は、寺嵜享、近藤保との共同研究、第4章は、高橋和敬、松本淳、井本英夫、寺嵜享、近藤保、第5章は、寺嵜享、近藤保、第6章は、伊勢田正子、寺嵜享、近藤保との共同研究によるものであるが、いずれの場合にも、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、審査委員会は、論文提出者峯本紳一郎に博士(理学)を授与できると認める。

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