本論文は2章からなり、第1章はプロモーターとエンハンサーの相互作用に関する解析、第2章はエンハンサートラップライン(L71)の解析を通じて得られたengrailed(en)遺伝子の制御機構の特殊性に関する解析について述べている。 個体は、様々な細胞から形成され、そこでは種々の遺伝子の発現が、時間的・空間的に正しく制御されている。その制御の中心がプロモーターとエンハンサーと呼ばれるシスDNA調節要素であり、従って、個体を形成する各細胞内で、両者がどのように相互作用しているかを調べることは、非常に基本的である。エンハンサーに関しては、組織特異的遺伝子発現に関わる調節要素の特定を中心に、個体レベルで解析されてきた。しかしプロモーターの研究は、実験のし易さという点にひきずられ、組織特異性との関わりの少ないin vitro転写系や培養細胞系を用いた解析が多かった。本研究ではこのギャップに着目し、個体を形成している細胞内で様々な変異プロモーターを作用させ、個体形成細胞内でのプロモーターの機能及びプロモーターとエンハンサーの相互作用を調べた。このような試みは、多細胞生物系においては、全く新しいものであると思われる。本研究では、ショウジョウバエの後部区画特異的に発現・機能しているen遺伝子を中心に解析した。 ショウジョウバエ胚期におけるen遺伝子の後部区画特異的なエンハンサーに応答可能な最小プロモーター領域を特定するために、一連の欠失プロモーターと完全長エンハンサーを含むコンストラクトをつくり、ハエを形質転換させた。en遺伝子には2個のイニシエーター、Inr1、Inr2があり、in vitro、in vivoともに、それぞれから2つずつの転写産物(+l/+2と+5/+6)がつくられる。また、enは、TATA-less遺伝子であり、イニシエーターの下流30-40塩基対の場所にDPE(Downstream Promoting Element)を持っている。解析の結果、転写効率は非常に悪いが、Inr2及びDPEにかこまれた38bp断片だけで、正しく胚期エンハンサーのシグナルを受容できることが示された。同じDNA断片は、in vitro転写系でも最小の活性を示すプロモーターであることが示唆されており、in vitro、in vivoの最小プロモーター領域は同一であることが分かった。しかし、in vitroでは、転写効率が低下するのに対し、in vivoでは、転写開始の頻度が低下するという大きな違いも見出だされた。更に、in vivo実験により、Inr上流域に複数の加算的に作用する転写開始頻度増境域が存在することが示された。近縁種であるD.melanogasterとD.virilisとの間で5塩基以上連続して保存されている配列を比較すると、多くの保存配列には、GAGA因子(GAF)の結合部位と推定されるCTCTCが、含まれていることが分かった。そこで人為的にGAF結合部位を導入することで、活性の増強が可能かどうか調べた。36bpのGA/CT配列(7つの連続したGAFの結合部位に相当)により転写開始あるいは維持の頻度が、著しく増強されることが分かった。従って、in vivoにおけるenの基本プロモーターは、エンハンサーのシグナルを正しく受容する最小プロモーターと、恐らくクロマチン構造を活性化し発現開始頻度を上げる複数のGAF結合部位からなっていると結論された。 GAF結合部位以外にも、ホメオドメイン蛋白質HTHの結合部位とDPE様配列が上流域に含まれていた。特に後者については、Inr1からの転写に特異的に必要なTFIID結合部位である可能性が示唆された。enは、プロモーターが重複構造を持っていることが示唆された初めての遺伝子かもしれない。 第2章では、翅の発生分化に関わる遺伝子の探索過程で見出された、en locusのエンハンサートラップライン(L71)の性質について述べてある。予期しない発見であったが、L71においては、通常の後部区画特異的なエンハンサーではなく、3齢後期に前部区画で弱く発現する特殊なエンハンサーだけがトラップされていた。この大きな要因は、トラップに使用したP因子プロモーターが、enプロモーター/エンハンサー存在下で、enの後部区画エンハンサーと相互作用できないためであると考えられる。更に、トラップされたエンハンサー活性をレポーター遺伝子を用いて調べることで、1)翅では、3齢後期、蛹期にかけ、Hedgehogが、前部・後部区画境界から30細胞以上離れた場所でも、en発現を誘発していること、及び2)Hedgehogによるenの前部区画側での発現は、翅に限らず広く見出される、より一般的な現象であることが示唆された。 以上述べたように本論文は、個体内細胞での遺伝子発現調節機構解明に大きく寄与するものと期待され、博士(理学)の学位論文として合格であると判定した。 なお、本論文の内容は、細野千恵、小嶋徹也、西郷薫との共同研究を含むが、論文提出者は、実験・解析ともに中心的役割を果たした。 |