学位論文要旨



No 114102
著者(漢字) 隈原,英子
著者(英字)
著者(カナ) クマハラ,エイコ
標題(和) 前初期遺伝子zif268の発現を制御するシグナル伝達系 : PC12D細胞を用いた解析
標題(洋)
報告番号 114102
報告番号 甲14102
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3591号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 伊庭,英夫
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 教授 竹縄,忠臣
 東京大学 教授 深田,吉孝
内容要旨

 zif268はDNA結合部位に3つのzinc fingerを持つ転写因子をコードする前初期遺伝子である。zif268遺伝子は様々な細胞や組織において、様々な刺激により速やかに発現することが示されており、細胞の特性を長期に渡り変化させる「第三のメッセンジャー」として機能すると考えられる。特に、zif268のmRNAのラット海馬における発現は、記憶・学習のモデルと思われるlong term potentiation(LTP)の形成と相関性があることがわかっており、このzif268遺伝子の発現が神経細胞内でどの様なシグナル伝達を介して発現するのかを解析することは、記憶・学習の形成のメカニズムの分子レベルでの解明に役立つと考えられる。そこで、神経細胞のモデル細胞であるPC12D細胞を用いて、様々な刺激によるzif268遺伝子の発現を制御するシグナル伝達系の解析を行った。

 PC12D細胞は膜上に高親和性NGFレセプターであるtrkA及びムスカリン性アセチルコリンレセプター(mAChR)のM1及びM4サブタイプを発現している。PC12D細胞をNGF或いはmAChRアゴニストであるカルバコールで刺激するとzif268mRNAレベルが一過性に上昇する。NGF刺激の場合、このmRNAレベルの上昇に先立ちmitogen-activated protein kinase(MAPK)が活性化されることがわかっている。また、カルバコール刺激の場合、MAPK及びc-Jun N-terminal kinase(JNK)が強く活性化されることが示されている。

 MAPK及びJNKはスレオニン及びチロシン残基のリン酸化により活性化されるセリン・スレオニンキナーゼであり、p38MAPKと共にMAPKスーパーファミリーを形成している。MAPKは様々な刺激により活性化されるが、特にレセプター型チロシンキナーゼの活性化により活性化される経路(MAPKカスケード)について、レセプターのチロシン残基のリン酸化を介してShc/Grb2,mSOS,Ras,Raf-1或いはB-Raf,MAPKと至る経路が同定されている。また、Gタンパク質共役受容体の活性化によるMAPKの活性化についても、protein kinase C(PKC)及びRaf-1を介する経路、細胞内カルシウムの上昇からチロシンキナーゼPYK2及びRasを介する経路、また、Gタンパク質のサブユニット及びRasを介する経路などが同定されている。MAPKは活性化されると核内に移行し、serum response factor(SRF)と結合して遺伝子発現を促進するternary complex factor(TCF)をリン酸化し活性化することにより、遺伝子発現を促進する。

 一方、JNKはMAPKとは異なり、ストレスやサイトカインなどの刺激、Gタンパク質共役型レセプターのアゴニスト刺激などにより活性化することがわかっている。JNKの上流として、JNK kinase(JNKK)やMEKK,さらにmixed lineage kinase(MLK)などが同定されているが、そのシグナル伝達経路はそれぞれの刺激により異なる。また、JNKも活性化されると核内に移行し、c-Jun及びTCFをリン酸化し活性化することが示されている。従って、JNKがzif268の遺伝子発現に関与する可能性も考えられる。そこで、MAPK及びJNKがNGF或いはカルバコール刺激によるzif268遺伝子の発現に関与するか否かについて調べることにした。

 まず、NGF刺激によるzif268遺伝子の発現におけるMAPKの役割を調べるために、薬理学的及び分子生物学的手法を用いて解析を行った。その結果、MEK(MAPKK)阻害剤であるPD098059の前処理によりNGF刺激によるMAPKの活性化を完全に抑制してもzif268遺伝子の発現は部分的にしか抑制されなかった。従って、NGF刺激によるzif268遺伝子の発現はMAPK依存性の経路とMAPK非依存性の経路を介して起こることが示唆される。また、MAPK非依存性の経路はPI3-kinase特異的阻害剤であるwortmanninを低濃度で処理することにより大部分が抑制されるため、MAPK非依存性のzif268遺伝子発現はPI3-kinaseを介することが示唆される。ところが、wortmannin単独で前処理してもNGF刺激によるzif268mRNAの誘導は影響を受けないことから、このwortmannin sensitiveな経路はMAPKが活性化しているときには機能しないことも示唆される。また、PI3-kinaseの下流を特定するため、その候補であるJNKを調べたところ、NGF刺激によるJNKの活性化はPI3-kinase阻害剤で前処理しても抑制されずむしろ増強されることがわかった。従って、NGF刺激によるzif268遺伝子発現において、JNKはPI3-kinaseの下流では機能しないことが示唆される。しかし、JNKの活性を阻害するJNK interacting protein(JIP-1)を細胞内で発現させるとzif268プロモーターの転写活性が部分的に抑制されることから、JNKはzif268遺伝子の発現に関与していることが示唆された。以上の結果より、NGF刺激によるzif268遺伝子発現にはMAPK,JNK,PI3-kinaseのそれぞれが役割を果たすことが示唆される。

 次に、カルバコール刺激により、MAPK及びJNKがどのような経路を介して活性化するのかを調べた。mAChRはGタンパク質共役受容体であり、M1からM5までのサブタイプが存在する。M1,M3,及びM5サブタイプは、百日咳毒素(PTX)非感受性のGタンパク質であるGqサブタイプと共役する。一方、M2及びM4サブタイプは、PTX感受性のGタンパク質であるGi/Goサブタイプと共役する。PC12D細胞にはM1及びM4サブタイプが発現しているが、PC12D細胞においてカルバコール刺激によるMAPK及びJNKの活性化は百日咳毒素(PTX)で前処理しても抑制されなかったことより、両者の活性化はM1サブタイプを介すると考えられる。M1レセプターが活性化されるとGqが活性化され、phospholipase C(PLC)が活性化される。活性化したPLCは、細胞膜リン脂質からdiacylglycerol(DAG)及びIP3を産生する。DAGはPKCを活性化し、IP3は細胞内のカルシウムストアからカルシウムを放出させることにより、細胞内のカルシウム濃度の上昇を引き起こす。PKCはRaf-1の活性化を介してMAPKを活性化することが示されている。また、PC12細胞において、細胞内カルシウムの濃度上昇はチロシンキナーゼPYK2及びRasを介してMAPKを活性化することが示されている。そこで、PC12D細胞におけるカルバコール刺激によるMAPKの活性化を調べたところ、dominant-negative RasであるN17Rasを発現させても大部分は抑制されなかった。また、Ras非依存性のMAPKの活性化はPKC阻害剤であるGF109203Xで前処理しても抑制されないが、EGTAの前処理により細胞外からのカルシウムの流入を阻害すると完全に抑制されることがわかった。以上のことから、PC12D細胞におけるカルバコール刺激によるMAPKの活性化は、これまで報告されていた経路とは異なり、主にRasに依存せず、細胞外からのカルシウムの流入に依存する経路を介することが示された。一方、カルバコール刺激によるJNKの活性化はN17Rasの発現により大部分が抑制され、GF109203X或いはEGTAで前処理してもほとんど抑制されないことがわかった。さらに、MEK阻害剤であるPD098059で前処理することによりMAPKの活性化を抑制すると、zif268遺伝子の発現の大部分が抑制されることから、カルバコール刺激によるzif268遺伝子発現の大部分はMAPKを介して起こることが示唆される。

 本研究の過程において、zif268遺伝子発現におけるPKCの役割を調べるために従来PKC阻害剤として用いられていたH7[1-(5-isoquinolinesulfonyl)-2-methylpiperazine]を用いて解析を行った。その結果、H7はホルボールエステルによるMAPKの活性化を抑制しないが、zif268及びc-fos遺伝子発現を抑えることがわかった。そこで、H7の細胞内における作用を調べた結果、mRNAの転写伸長に必須であるRNA polymerase IIのリン酸化が阻害されることがわかった。以上の結果から、H7は細胞内においてRNA polymerase IIのリン酸化を阻害することによりzif268及びc-fos遺伝子発現を抑制する可能性が示唆された。

審査要旨

 本論文は、神経伝達物質あるいは神経成長因子(NGF,Nerve Growth Factor)で細胞を刺激した際どのような細胞内信号伝達系を経由して遺伝子の発現が誘起されるかを調べたものである。対象とした遺伝子はzif268である。zif268は転写因子をコードする前初期遺伝子で、増殖因子、サイトカイン、神経伝達物質などの刺激により発現する。特に、海馬において記憶・学習のモデルである長期増強(long term potentiation,LTP)の形成時に発現が増加することから、その役割が注目されてきたものである。本研究は神経細胞のモデルであるラット褐色細胞種(pheochromocytoma)由来のPC12D細胞を用いて行っている。3章からなる。

 第1章では、NGF刺激によるzif268遺伝子発現促進に関わる信号伝達系が調べられた。PC12D細胞をNGFで刺激するとzif268遺伝子のmRNAが一過性に上昇するが、それに先だってMAPK(Mitogen Activated Protein Kinase)が活性化される。MAPKはMEK(MAPK Kinaseの1種)によるリン酸化で活性化されることがわかっている。zif268の発現がMAPKの活性化に依存するか否かを調べるため、PC12D細胞をMEK阻害剤で処理したところ、NGF刺激によるMAPKの活性化は完全に抑制されたがzif268遺伝子の発現は部分的にしか抑制されいことが分かった。MEK阻害剤とPI3-kinase(Phosphatidyl Inositol 3-Kinase)阻害剤を併用すると、NGFによるzif268発現促進の大部分が抑制された。また、c-Jun N-terminal kinase(JNK)の活性を阻害するJNK interacting protein(JIP-1)を細胞内で発現させるとzif268プロモーターの転写活性が部分的に抑制された。JNKはMAPkとは独立と考えられ、またPI3-kinaseの下流にもないことが確かめられた。以上の結果は、NGF刺激によるzif268遺伝子発現にはMAPK,JNK,PI3-kinaseそれぞれの活性化を介する信号伝達系が関与していることを示している。

 第2章では、カルバコール刺激によるMAPK及びJNKの活性化にいたる信号伝達系について報告している。MAPKの活性化はRasに依存せず細胞外からのCa2+流入に依存すること、JNKの活性化はRasに依存しProtein kinase C(PKC)及び細胞外からのCa2+流入に依存しないことが示された。MEK阻害剤の前処理によりカルバコール刺激によるMAPKの活性化を完全に抑制すると、zif268遺伝子発現の大部分が抑制された。この結果より、カルバコール刺激によるzif268遺伝子発現の大部分はMAPKを介すると考えられる。

 第3章では、この研究の過程で明らかになったタンパク質キナーゼ阻害剤H7[1-(5-isoquinolinesulfonyl)-2-methylpiperazine]の標的について報告している。H7は従来PKCの阻害剤として用いられてきたが、今回の実験系でH7はPKCを抑制しないがzif268及びc-fos遺伝子の発現を抑えることが分かった。さらに、H7がmRNAの転写伸長に必須であるRNA polymerase IIのリン酸化を阻害することが見いだされた。H7は細胞内においてRNA polymerase IIのリン酸化を阻害することによりzif268及びc-fos遺伝子発現を抑制すると考えられる。

 神経伝達物質や神経成長因子による遺伝子発現の調節がどのように行われるかを知ることは、記憶・学習などの分子機構とくに遺伝子発現の関与を理解するのに必須である。本研究の結果は、遺伝子発現の調節が多数の信号伝達系を介して重複して行われていることを示している。これらの結果は、細胞内信号伝達系の理解に新しい知見を付加するものであり、博士(理学)の学位授与に値すると認められる。

 なお、本論文第1章及び第3章は、海老原達彦及びDavid W.Saffenとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断された。

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