学位論文要旨



No 114116
著者(漢字) 寺田,透
著者(英字)
著者(カナ) テラダ,トオル
標題(和) NMR及び分子動力学法によるRasとRaf-1のRas結合ドメインとの相互作用の研究
標題(洋)
報告番号 114116
報告番号 甲14116
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3605号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 講師 中迫,雅由
 東京都臨床医学総合研究所 部長 稲垣,冬彦
内容要旨

 細胞内情報伝達系は、細胞外部からの刺激(情報)を核に伝え、増殖や分化など細胞の生命活動に必要な遺伝子発現を制御する重要な役割を担っている。細胞内情報伝達系は、細胞表面の細胞外因子受容体や核内の転写因子を含む、さまざまな種類のタンパク質から構成されており、「情報の伝達」の実態はこれらタンパク質間の相互作用である。従って、こうしたタンパク質間の相互作用を解明は、情報伝達メカニズムを理解する上できわめて重要である。本研究では、ヒトのガン細胞からの同定以来、細胞内情報伝達系で中心的な役割を果たしているとされ、精力的に研究されてきた、低分子量GTP結合タンパク質Rasと、この直接のターゲットであるser/thr kinase Raf-1に系に注目し、RasとRaf-1のRas結合ドメイン(51-131残基、Raf-1 RBD)との相互作用を解析した。ここでは、タンパク質間相互作用を解析する手段として、主に構造生物学的手法を用い、特に従来は別々に行われることが一般的であった、実験的手法=NMRと理論計算的手法=分子動力学法の両方を活用した。両者の長所を最大限に利用することによって、タンパク質間相互作用のメカニズムを詳細に解明することに成功した。

 本研究ではまず、Raf-1RBD単体の構造をNMRによって決定した。ここでは、タンパク質分解酵素から保護するためにRaf-1RBD配列の両末端にvector由来の配列を付加したタンパク質を発現する系を用いた。3D15N-edited NOESYスペクトルの解析の結果、51-56残基とvector由来の配列は特定の構造をとっていないことが明らかになったため、構造決定は56-131残基部分のみに対して行った。この結果得られたRaf-1RBDの構造は、5つの-strandと1つの-helixおよび1つの短いhelixから構成されており、ubiquitineと類似の折りたたみ構造をとっていた(図1参照)。

図1Ras(WT)・GMPPNPとの結合に伴って化学シフトが大きく変化したRaf-1RBDの残基を、Raf-1RBD単体のリボンモデル上に示した。左は1が手前になるように見た図で、右はこの裏側から見た図である。

 次に、Raf-1RBDとRasの相互作用を解析するために、GTPのアナログGMPPNPを結合したRas(Ras・GMPPNP)との複合体における、Raf-1RBDの主鎖の共鳴を帰属した。Raf-1RBDとRas・GMPPNPとの複合体は分子量が合計で30kDaを超え、従来法での限界とされる20kDaを大きく超える。このような系では、分子の回転運動が抑制されるため、横磁化の減衰が顕著に速くなる。この結果、NMRスペクトルの感度が大きく低下し、解析は事実上不可能である。そこで本研究では、位や側鎖などの非易交換性の水素(1H)を重水素(2H)に置換することによって、炭素核(13C)の磁化の緩和を抑制し、NMRスペクトルの感度の向上を図った。主鎖の共鳴帰属のための測定を開始するのに先立って、2H/15N標識Raf-1RBDと非標識Ras・GMPPNPを用いて滴定実験を行った。この結果、Raf-1RBDはRas・GMPPNPとモル比1:1で完全に複合体を形成し、かつ複合体と解離した状態の間の交換速度は、2つの状態の化学シフト差(10s-1程度)に比べて十分遅いことが明らかになった。主鎖の共鳴の帰属には2H/13C/15N標識Raf-1RBDと非標識Ras・GMPPNPを用いて測定した、3D HNCA、3D HN(CO)CA、3DHNCO、3D HN(CA)COスペクトルを用いた。これらスペクトルの解析の結果、Raf-1RBD57-131残基のうちprolineの15N核を除くすべての主鎖の1HN15N、13CO核の共鳴を帰属することができた。図1はRaf-1RBD単体の主鎖の化学シフトとRasとの複合体におけるRaf-1RBDの主鎖の化学シフトを比較した結果、両者の差が大きい残基をRaf-1RBD単体の構造上に示したものである。これらの残基は1、2、1付近に集中しており、これらの残基で作るRaf-1RBDの片側の分子表面でRasと直接相互作用しているものと考えられる。また、これらの残基は、他のグループによるRaf-1RBD変異体を用いたRas結合活性測定実験などで同定された、Rasとの相互作用に直接関与していると見られる残基をすべて含んでいる。

 本研究の途中で、ドイツの研究グループによってRasのホモログRap1Aの変異体(E30D/K31E)とRaf-1RBDの複合体の構造が、X線結晶構造解析法により決定されている。Rap1Aは、ターゲットとの相互作用に重要とされるエフェクター領域(32-40残基)の配列はRasと同一で、全体でも50%の相同性を有している。しかし、一次配列上の高い相同性にもかかわらず、RasはRaf-1を活性化できるのに対し、Rap1Aはこれを活性化できない。エフェクター領域のすぐN末端側にある30-31番はRasとRap1Aで異なっている(RasではAsp30-Glu31、Rap1AではGlu30-Lys31)。RasのAsp30-Glu31をRap1A型(Glu30-Lys31)に置換するとRasのRaf-1活性化能が大きく減少することから、この2つの残基がRasとRap1Aの性質の違いに深く関連していると考えられる。実際、上述のドイツの研究グループは、Rap1A野生型とRaf-1RBD複合体の結晶構造との比較から、Rap1A変異体との複合体中では、Rap1Aに導入されたRas型残基Glu31とRaf-1RBDのLys84の間に強いsalt bridgeが形成されており、これがRap1A変異体のRaf-1RBDに対する結合能向上の原因となっていると結論付けている。そこで本研究では、RasとRaf-1RBDの複合体中においても、対応するsalt bridgeが形成されているかどうか検討するために、RasのRap1A型変異体(D30E/E31K)を用いてRaf-1RBDとの相互作用を解析した。この変異体は野生型に比べてRaf-1RBDとの結合能はやや低下していたものの、これを保持していた。Ras(D30E/E31K)・GMPPNPとの複合体におけるRaf-1RBDの主鎖の共鳴を帰属した結果、この変異による主鎖の化学シフトへの影響は非常に小さいことが明らかになった。ここから、Rasとの複合体においてはRasのGlu31とRaf-1RBDのLys84の間の相互作用は非常に弱いと考えられる。しかし、Rasとの結合に伴ってRaf-1RBDのLys84の化学シフトは大きく変化することから、Raf-1RBDのLys84はRasと何らかの直接的な相互作用を形成していると考えられる。そこで、本研究ではRas・GTPとRaf-1RBDの複合体のモデルを作成し、分子動力学シミュレーションを用いて精密化を行うことによって、RasとRaf-1RBDの分子間相互作用をさらに詳細に解析した。

 Ras・GTPとRaf-1RBDとの複合体の初期モデルはRas・GMPPNP単体の結晶構造とRap1A(E30D/K31E)・GMPPNPとRaf-1RBDとの複合体の結晶構造を用い、RasとRap1Aのの立体構造上の相同性を利用して作成した。次いでこの初期モデル構造から出発して、水溶液中の環境で1800psにも及ぶ分子動力学シミュレーションを行った。対照のためにRap1A(E30D/K31E)・GMPPNPとRaf-1RBDとの複合体の結晶構造についても同様に2000psの分子動力学シミュレーションを行った。ここではRap1AのGlu31とRaf-1RBDのLys84の間のsalt bridgeは保持されていた。これに対し、Ras・GTPとRaf-1RBDとの複合体においては、初期モデルではRasのGlu31とRaf-1RBDのLys84の間にsalt bridgeが形成されていたにもかかわらず、RasのGlu31とRaf-1RBDのLys84の間の距離は長くなり、代わってRasのAsp33とRaf-1RBDのLys84の間に強いsalt bridgeが形成された。ここから、Rasとの複合体においては、Raf-1RBDのLys84はRasのAsp33と強いsalt bridgeを形成していると考えられる(図2)。これは、Rap1A変異体との複合体における分子間相互作用とは異なっている(図2)。この結果は、上述のNMR解析の結果とも一致している。Ras変異体を用いたRaf-1RBD結合活性測定の結果、Ras(E31A)のRaf-1RBD結合活性はRas野生型とほとんど変わらず、またRas(E31K)においてもRaf-1RBD結合活性は保持していることが明らかになった。これに対し、Ras(D33A)はRaf-1RBD結合活性が大きく低下しており、Ras(D33K)では結合活性はほとんど失われていた。この結果からも、RasとRaf-1RBDの相互作用ではGlu31よりもAsp33の方が重要であると言え、本研究の結果得られたRasとRaf-1RBDの相互作用モデルと一致している。

図2分子動力学シミュレーションの結果得られたRaf-1RBDのLys84とRasのGlu31およびAsp33とのsalt bridgeネットワークの構造(上段左)と、その模式図(下段左)。分子動力学シミュレーションの結果得られたRaf-1RBDのLys84とRap1A(E30D/K31E)のGlu31およびAsp33とのsalt bridgeネットワークの構造(上段右)と、その模式図(下段右)。
審査要旨

 低分子量GTP結合タンパク質Rasは細胞内情報伝達系において、細胞の増殖や分化に重要な役割を果たしている。Ser/thr kinase Raf-1はこのRasの直接のターゲットである。本論文ではRaf-1のRas結合ドメイン(Raf-1 RBD)とRasの相互作用をNMRと分子動力学法を用いて明らかにしている。

 本論文は6章からなる。第1章ではRas、Raf-1、およびRasのホモログであるRap1Aについて導入を行っている。

 第2章では、多核多次元NMRを用いたRaf-1RBD単体の構造決定について述べている。ここでは、Raf-1RBDが1つの-helix、5つの-strand、および1つの短いhelixからなり、ubiquitineと類似の折りたたみ構造をとっていることを明らかにしている。

 第3章では、Raf-1RBDとRasとの相互作用のNMR解析について述べている。Raf-1RBDとRasの複合体の分子量は30kDa余りで、従来の方法で構造解析が可能な分子量の上限(約20kDa)を大きく超える。そこで、本研究ではRaf-1RBDを重水素標識することで、磁化の減衰を抑えNMRスペクトルの感度の向上を図っている。ここでは2H/13C/15N3重標識されたRaf-1RBD単体および非標識Rasとの複合体についてRaf-1RBDの主鎖核(1HN15N、13CO)の共鳴を帰属し、Ras結合に伴うRaf-1RBDの主鎖の化学シフトの変化を求めている。この結果、1、2および1上の残基で化学シフトが大きく変化していることが明らかになった。

 第4章では、Raf-1RBDとRas(D30E/E31K)変異体との相互作用のNMR解析について述べている。ここでは非標識のRas(D30E/E31K)変異体との複合体について2H/13C/15N3重標識されたRaf-1RBDについて主鎖の共鳴を比較している。これを、第3章のRas野生型との複合体におけるRaf-1RBDの主鎖の化学シフトと比較した結果、Rasに導入したD30E/E31K変異は、Raf-1RBDの主鎖の化学シフトにほとんど影響を与えないことが明らかになった。別の研究グループからRasのホモログRap1AのRas型変異体E30D/K31EとRaf-1RBDとの複合体では、Rap1AのGlu31がRaf-1RBDのLys84と強いsalt bridgeを形成していることが示されているが、この研究の結果、Rasとの複合体においてはこのsalt bridgeが形成されていないことが示唆された。

 第5章ではRaf-1RBD・Ras複合体のモデルの作成と、分子動力学シミュレーションによる解析について述べている。ここでは、Raf-1RBDとRap1AのRas型変異体E30D/K31Eとの複合体の結晶構造およびGTP結合型Rasの結晶構造を用いて、立体構造上の相同性に基づき、Raf-1RBD・Ras複合体のモデルを作成している。次いでこの初期モデル構造を精密化するために水溶液中の条件で1800psの分子動力学シミュレーションを行っている。また、対照のためにRaf-1RBDとRap1A(E30D/K31E)との複合体の結晶構造から出発した分子動力学シミュレーションも行っている。シミュレーションで得られた構造を解析した結果、Rap1Aとの複合体においては、もともと結晶構造で指摘されていた通り、Raf-1RBDのLys84はRap1AのGlu31と強いsalt bridgeを形成していることが確認されたが、Rasとの複合体においては、Raf-1RBDのLys84とRasのGlu31の間の相互作用は非常に弱く、代わりにRasのAsp33と強いsalt bridgeを形成していることが明らかになった。この結果、Raf-1RBD・Ras複合体の相互作用メカニズムはRaf-1RBD・Rap1A(E30D/K31E)複合体とは異なっていることが示唆された。これは第4章のNMR解析の結果と一致している。

 第6章では、NMRおよび分子動力学法で得られたRaf-1RBDとRasの相互作用モデルを、Ras変異体を用いた生化学的な解析データと比較し、これらが一致していることを示している。また、RasとRap1AにおけるGlu31の役割およびGDP-GTP交換に伴うRasのRaf-1RBDに対する結合活性変化のメカニズムについても考察している。

 なお、本論文は理化学研究所の伊藤 隆研究員、白水美香子研究員、舘野 賢研究員(現工業技術院生命工学技術研究所)、橋本恭子氏、木川孝則研究員、戎崎俊一主任研究員、瀧尾擴士室長、柴田武彦主任研究員、東京大学の横山茂之教授、英国ケンブリッジ大学のBrian O.Smith博士(現エジンバラ大学)、Ernest D.Laue博士、および米国フレッドハッチンソンガン研究センターのJonathan A.Cooper博士との共同研究であるが、NMR測定に用いたすべてのタンパク質サンプルの調整、NMR測定、NMRスペクトルの解析、構造計算、分子動力学シミュレーションおよびその解析は、論文提出者が主体となって行っており、本研究に対する論文提出者の寄与は十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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