学位論文要旨



No 114117
著者(漢字) 林,貴史
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,タカシ
標題(和) ショウジョウバエ複眼における細胞運命決定機構の分子遺伝学的解析
標題(洋)
報告番号 114117
報告番号 甲14117
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3606号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 鈴木,紀夫
 東京大学 助教授 飯野,雄一
 東京大学 助教授 多羽田,哲也
 東京大学 助教授 能瀬,聡直
内容要旨

 多細胞生物の体は表皮細胞や筋肉細胞、神経細胞その他様々な細胞から構成されている。発生過程の究極の目的はこれら多様な細胞を特定の場所に的確に配置し、生命体を有機的な機能体として形作ることである。従って個々の細胞の運命獲得機構を明らかにすることは発生生物学の極めて重要な課題の一つである。本研究ではショウジョウバエの複眼を用い、細胞運命の決定機構の解明を試みた。ショウジョウバエの複眼は約800個の個眼の集合体であり、個々の個眼は8個の視神経細胞(R1-R8)と計12個の修飾細胞(これらには錐細胞や色素細胞が含まれる)の合計20個の細胞から構成されている。そしてこれら個眼を構成する全ての細胞はその位置、形態及びマーカー遺伝子の発現から、各々完全に同定が可能である。複眼においてはこの様に1細胞のレベルでの発生過程の解析が可能であり、細胞分化の研究モデルとして最も厳密な解析の場を提供している。ところで複眼の発生において細胞は細胞系譜に非依存的に分化するという性質が知られている。従って複眼においては個々の未分化細胞は互いに等しい分化能を持ち、基本的に全ての細胞へと分化する能力を保持していると考えられる。そこで複眼の発生を理解する上で本質的な課題は、互いに等しい分化能を持つ未分化細胞の集団が最終的にいかにして正確に個眼の20個の細胞へと分化を遂げるのか、という疑問を解決することである。この問いに取り組むにあたり、最初に考えられる方法はその特異性を手がかりとして発生機構を明らかにするというものである。この様な考察に基づき、私は個眼の特定の細胞でのみ発現を示すBarH1遺伝子に着目し、その複眼分化における機能の解析を行った。BarH1はホメオボックス遺伝子であり、複眼においてはR1/R6、第一色素細胞、そして剛毛細胞において特異的に強く発現し、また全ての未分化細胞においても弱い発現を示す。ホメオボックスは体節構造の個性決定に関わる遺伝子に共通する配列として発見されたが、その後、さまざまなレベルでの細胞集団の個性化に関わっていることが知られており、BarH1の機能としてはR1/R6や第一色素細胞の個性の決定であることが推測された。そこでその可能性を強制発現実験により検証した、BarH1をsevenless遺伝子の発現制御領域を用い、R3/R4/R7と錐細胞(cone cell)で強制的に発現させたところ、成虫の複眼において過剰の視神経細胞の形成が認められた。そしてこれらの複眼の発生過程を幼虫期や蛹期において詳細に解析した結果、錐細胞の一部(主にanterior cone cell)が視神経細胞として分化していることが分かった。さらにそれらの一部の細胞においてはR1/R6のマーカーであるBarH2やseven-upの発現が認められた。その一方でR2/R5/R3/R4で発現を示すrough遺伝子の過剰発現は全く観察されなかった。以上の結果からBarH1の強制発現により一部の錐細胞はR1/R6タイプの視神経細胞へと形質転換していることが示された。またこれと同時に第2の表現型として他の一部の錐細胞(主にequatorial cone cell)が第一色素細胞として分化している事も明らかとなった。この第2の表現型は第一色素細胞の形成不全を示すfacet-glossy突然変異体においてBarH1を強制発現した場合にも観察された。これらの結果はBARH1が錐細胞にR1/R6及び第一色素細胞の性質を付与する十分な活性を保持していることを示している。加えて錐細胞から視神経細胞への形質転換の頻度は細胞内のRas/MAPキナーゼを介したシグナル量と密接な関係があることも示された。Ras/MAPキナーゼシグナル伝達系を構成する遺伝子の突然変異をヘテロに持つ個体ではBarH1が引き起こす過剰な視神経細胞の形成がほぼ完全に抑圧された。その一方でこのシグナルを増強させると錐細胞の視神経細胞への形質転換がより頻繁に観察されるようになった。以上の結果をまとめると、BarH1遺伝子は未分化細胞がR1/R6及び第一色素細胞として分化する際にその運命を決定するという重要な役割を果たしている可能性が強く示唆された。さらに視神経細胞R1/R6としての個性獲得過程においてBARH1はRas/MAPキナーゼを介したシグナルと協同的に働いていることも明らかになった。

 現在までのところBARH1を含めいくつかの転写因子が特定の細胞の運命決定に重要な役割を果たしていることが示されている。例えばROUGHはR2/R5の正常な分化に必須であり、同様にSEVEN-UPはR3/R4/R1/R6で機能している。さらにこれらの遺伝子の強制発現はBarH1の場合と同様にそれぞれの機能に対応した細胞の形質転換を引き起こす。そこで次の課題は一様な未分化細胞がいかにしてこれら特定の転写因子群を選択的に発現し、最終的に多様な運命を獲得するのか、という謎を解明することである。この問題を考える上で重要な事実は、個眼の細胞は常に一定の順序で分化を開始し、その分化開始のシグナルは細胞種を問わず共通なEGFリセプターを介したシグナルであるという点である(このEGFリセプターの活性化は既に分化した細胞が分泌するSPITZ(TGF-ホモログ)により引き起こされることが知られている)。細胞の多様性を産み出す最も単純なモデルは例えば分化した細胞が時間とともに異なった分化シグナルを生産し、そのそれぞれに応じて周囲の細胞が異なった運命を獲得するというものである。しかしながらこのモデルは分化シグナルが単一のものであるという先の実験結果と矛盾しており、また少なくとも細胞の種類と同数程度のシグナルの数を必要とするという非現実的な仮定からも否定されるべきものである。第2のモデルとして考えられるものはEGFリセプターの活性化の度合い(シグナル量)に対応して細胞は異なった運命を獲得するというものである。このモデルは非常に魅力的であり、細胞の多様化を矛盾無く説明することが出来る。そこで私はこのモデルに基づきEGFリセプター(及びその下流因子であるRAS1)の活性を様々に変化させ、その効果を解析したが、このモデルを支持するような細胞の形質転換は全く観察されなかった。そこで最後に残された可能性として考えたものは、多様性の起源は未分化細胞に由来するというモデルである。このモデルの意図するところは例えば細胞が時計を用いて時間を計測している様子を想像することにより理解しうる。つまり未分化細胞は時間の経過と共に自身の分化能を変化させて行くとするモデルである。このモデルの是非は細胞の分化能と発生ステージとの関係を調べることにより検証することが出来る。そこでまず細胞を強制的に分化させ、個々の細胞の分化能を可視化する実験を試みた。細胞の分化シグナルはEGFリセプター/RAS1を介したシグナルにより制御せれているので、活性化型RAS1を複眼原基で発現させたところ、細胞の分化を強制的に誘導することが出来た。この条件下で様々な遺伝子の発現を調べることにより、細胞の分化能を可視化することが可能となった。そして実際、未分化細胞の分化能は時間と共に変動することが明らかとなった。例えばRAS1の強制発現の結果、発生のどの段階にある細胞がseven-up遺伝子を発現するのかを調べたところ、seven-up遺伝子を発現するのは個眼の分化開始後0時間から約15時間の間に位置する細胞に限られており、その時期からはずれた細胞は極わずかにしかseven-upを発現しなかった。その一方でprospero遺伝子を発現する細胞は個眼の分化開始後15時間周辺に位置する物が最も多く、そこからはずれている細胞がprosperoを誘導する頻度は非常に低かった。この様な実験から複眼の細胞分化過程が上述の第3のモデルのもとに進行していることが証明された。最後に、いくつかの基準のもとに既知の遺伝子を探索したところ、未分化細胞の分化能を決定する因子の一つとしてDACHSHUND(DAC)が有力な候補であることが示唆された。dacは個眼の発生開始に先立ち全ての未分化細胞で発現を開始し、発生開始期の周辺で発現のピークを示した後、急激にその発現が減衰する。そしてこの発現の変動は細胞の分化能と際だった相関を示している。またdacの変異体では視神経細胞の分化に著しい異常が観察されている。現在のところはdacの機能に関しては不明な点が多いが、その未分化細胞における機能を明らかにすることにより、複眼の分化機構に関する新しい理解像が得られるものと期待される。

審査要旨

 本論文ではショウジョウバエの複眼形成過程に関しBarH1/BarH2の機能と未分化細胞の分化能獲得過程の解析結果をもとに2章に分けて論じている。

 第一章ではBarH1/BarH2の複眼分化における機能について述べている。BarH1/BarH2(以下Bar遺伝子)は互いによく似たホメオボックス遺伝子であり、生体内では同一の機能を果たしていると考えられている。Barは複眼においてはR1/R6や第一色素細胞において特異的に強く発現している。BarH1をsevenless遺伝子の発現制御領域を用い、R3/R4/R7と錐細胞(cone cell)で強制的に発現させたところ、成虫の複眼において過剰の視神経細胞の形成が認められた。そしてこれらの複眼の発生過程を幼虫期や蛹期において解析した結果、錐細胞の一部(主にanterior cone cell)が視神経細胞として分化していることが分かった。さらにそれらの一部の細胞においてはR1/R6のマーカーであるBarH2やseven-upの発現が認められた。その一方でR2/R5/R3/R4で発現を示すrough遺伝子の過剰発現は全く観察されなかった。以上の結果からBarH1の強制発現により一部の錐細胞はR1/R6タイプの視神経細胞へと形質転換していることが示された。またこれと同時に第2の表現型として他の一部の錐細胞(主にequatorial cone cell)が第一色素細胞として分化している事も明らかとなった。この第2の表現型は第一色素細胞の形成不全を示すfacet-glossy突然変異体においてBarH1を強制発現した場合にも観察された。これらの結果からBarH1が錐細胞にR1/R6及び第一色素細胞の性質を付与する十分な活性を保持していることが示された。加えて錐細胞から視神経細胞への形質転換の頻度は細胞内のRas/MAPキナーゼを介したシグナル量と密接な関係があることも示された。Ras/MAPキナーゼシグナル伝達系を構成する遺伝子の突然変異をヘテロに持つ個体ではBarH1が引き起こす過剰な視神経細胞の形成がほぼ完全に抑圧された。その一方でこのシグナルを増強させると錐細胞の視神経細胞への形質転換がより頻繁に観察されるようになった。これらの結果から、BarH1遺伝子は未分化細胞がR1/R6及び第一色素細胞として分化する際にその運命を決定するという重要な役割を果たしている可能性が強く示唆された。さらに視神経細胞R1/R6としての個性獲得過程においてBarH1はRas/MAPキナーゼを介したシグナルと協調的に働いていることも明らかになった。

 第二章では複眼細胞の分化能獲得過程について述べられている。複眼においてはBarH1を含め、いくつかの転写因子が特定の細胞の運命決定に重要な役割を果たしていることが示されている。例えばRoughはR2/R5の正常な分化に必須であり、同様にSeven-upはR3/R4/R1/R6で機能している。しかしながら複眼細胞がどのような仕組みのもとにこれら特定の転写因子群を選択的に発現し、最終的に多様な運命を獲得するのか、という疑問は未解明のままであった。この問題に関して本論文では細胞は時間と共に自身の分化能を変化させて行くとするモデルを提唱し、それを支持する実験結果を提示した。細胞の分化シグナルはEGFリセプター/RAS1を介したシグナルにより制御されているので、活性化型RAS1を複眼原基で発現させたところ、細胞の分化を強制的に誘導することが出来た。この条件下で様々な遺伝子の発現を調べることにより、細胞の分化能を可視化することが可能となった。例えばRas1の強制発現の結果、発生のどの段階にある細胞がseven-up遺伝子を発現するのかを調べたところ、seven-up遺伝子を発現するのは個眼の分化開始後10時間前後に位置する細胞に限られており、その時期からはずれた細胞はわずかにしかseven-upを発現しなかった。その一方でprospero遺伝子を発現する細胞は個眼の分化開始後15時間周辺に位置する物が最も多く、そこからはずれている細胞がprosperoを誘導する頻度は非常に低かった。この様な実験から複眼の細胞分化過程が上述のモデルのもとに進行していることが証明された。それに加えて、いくつかの基準のもとに既知の遺伝子を探索したところ、未分化細胞の分化能を決定する因子の一つとしてdachshund(dac)が有力な候補であることが示唆された。dacは個眼の発生開始に先立ち全ての未分化細胞で発現を開始し、発生開始期の周辺で発現のピークを示した後、急激にその発現が減衰する。そしてこの発現の変動は細胞の分化能と際だった相関を示した。またdacの変異体では視神経細胞の分化に明らかな異常が観察された。加えてその強制発現は錐細胞から視神経細胞への形質転換を引き起こした。以上の結果からdacが未分化細胞の分化能決定に関与していることが示唆された。

 以上のように、本研究は細胞運命の決定機構に関して詳細な解析を行っている。そしてその実験結果は非常に信頼性の高いものである。これらの結果より導かれた結論は細胞運命の決定機構に関する知識を大きく前進させた。特に第二章の内容は非常に独創的であり、細胞の運命決定機構解明のための重要な手がかりを示している点で高く評価されるべき成果である。なお、本論文は小嶋徹也及び西郷薫、両氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って博士(理学)の学位を授与できると認める。

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