本論文ではショウジョウバエの複眼形成過程に関しBarH1/BarH2の機能と未分化細胞の分化能獲得過程の解析結果をもとに2章に分けて論じている。 第一章ではBarH1/BarH2の複眼分化における機能について述べている。BarH1/BarH2(以下Bar遺伝子)は互いによく似たホメオボックス遺伝子であり、生体内では同一の機能を果たしていると考えられている。Barは複眼においてはR1/R6や第一色素細胞において特異的に強く発現している。BarH1をsevenless遺伝子の発現制御領域を用い、R3/R4/R7と錐細胞(cone cell)で強制的に発現させたところ、成虫の複眼において過剰の視神経細胞の形成が認められた。そしてこれらの複眼の発生過程を幼虫期や蛹期において解析した結果、錐細胞の一部(主にanterior cone cell)が視神経細胞として分化していることが分かった。さらにそれらの一部の細胞においてはR1/R6のマーカーであるBarH2やseven-upの発現が認められた。その一方でR2/R5/R3/R4で発現を示すrough遺伝子の過剰発現は全く観察されなかった。以上の結果からBarH1の強制発現により一部の錐細胞はR1/R6タイプの視神経細胞へと形質転換していることが示された。またこれと同時に第2の表現型として他の一部の錐細胞(主にequatorial cone cell)が第一色素細胞として分化している事も明らかとなった。この第2の表現型は第一色素細胞の形成不全を示すfacet-glossy突然変異体においてBarH1を強制発現した場合にも観察された。これらの結果からBarH1が錐細胞にR1/R6及び第一色素細胞の性質を付与する十分な活性を保持していることが示された。加えて錐細胞から視神経細胞への形質転換の頻度は細胞内のRas/MAPキナーゼを介したシグナル量と密接な関係があることも示された。Ras/MAPキナーゼシグナル伝達系を構成する遺伝子の突然変異をヘテロに持つ個体ではBarH1が引き起こす過剰な視神経細胞の形成がほぼ完全に抑圧された。その一方でこのシグナルを増強させると錐細胞の視神経細胞への形質転換がより頻繁に観察されるようになった。これらの結果から、BarH1遺伝子は未分化細胞がR1/R6及び第一色素細胞として分化する際にその運命を決定するという重要な役割を果たしている可能性が強く示唆された。さらに視神経細胞R1/R6としての個性獲得過程においてBarH1はRas/MAPキナーゼを介したシグナルと協調的に働いていることも明らかになった。 第二章では複眼細胞の分化能獲得過程について述べられている。複眼においてはBarH1を含め、いくつかの転写因子が特定の細胞の運命決定に重要な役割を果たしていることが示されている。例えばRoughはR2/R5の正常な分化に必須であり、同様にSeven-upはR3/R4/R1/R6で機能している。しかしながら複眼細胞がどのような仕組みのもとにこれら特定の転写因子群を選択的に発現し、最終的に多様な運命を獲得するのか、という疑問は未解明のままであった。この問題に関して本論文では細胞は時間と共に自身の分化能を変化させて行くとするモデルを提唱し、それを支持する実験結果を提示した。細胞の分化シグナルはEGFリセプター/RAS1を介したシグナルにより制御されているので、活性化型RAS1を複眼原基で発現させたところ、細胞の分化を強制的に誘導することが出来た。この条件下で様々な遺伝子の発現を調べることにより、細胞の分化能を可視化することが可能となった。例えばRas1の強制発現の結果、発生のどの段階にある細胞がseven-up遺伝子を発現するのかを調べたところ、seven-up遺伝子を発現するのは個眼の分化開始後10時間前後に位置する細胞に限られており、その時期からはずれた細胞はわずかにしかseven-upを発現しなかった。その一方でprospero遺伝子を発現する細胞は個眼の分化開始後15時間周辺に位置する物が最も多く、そこからはずれている細胞がprosperoを誘導する頻度は非常に低かった。この様な実験から複眼の細胞分化過程が上述のモデルのもとに進行していることが証明された。それに加えて、いくつかの基準のもとに既知の遺伝子を探索したところ、未分化細胞の分化能を決定する因子の一つとしてdachshund(dac)が有力な候補であることが示唆された。dacは個眼の発生開始に先立ち全ての未分化細胞で発現を開始し、発生開始期の周辺で発現のピークを示した後、急激にその発現が減衰する。そしてこの発現の変動は細胞の分化能と際だった相関を示した。またdacの変異体では視神経細胞の分化に明らかな異常が観察された。加えてその強制発現は錐細胞から視神経細胞への形質転換を引き起こした。以上の結果からdacが未分化細胞の分化能決定に関与していることが示唆された。 以上のように、本研究は細胞運命の決定機構に関して詳細な解析を行っている。そしてその実験結果は非常に信頼性の高いものである。これらの結果より導かれた結論は細胞運命の決定機構に関する知識を大きく前進させた。特に第二章の内容は非常に独創的であり、細胞の運命決定機構解明のための重要な手がかりを示している点で高く評価されるべき成果である。なお、本論文は小嶋徹也及び西郷薫、両氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 従って博士(理学)の学位を授与できると認める。 |