学位論文要旨



No 114121
著者(漢字) 八倉巻,尚子
著者(英字)
著者(カナ) ヤグラマキ,ナオコ
標題(和) 乳幼児における歩行発達の運動力学的研究
標題(洋)
報告番号 114121
報告番号 甲14121
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3610号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 教授 福永,哲夫
 慶応義塾大学 教授 山崎,信寿
 東京大学 助教授 諏訪,元
 東京大学 教授 青木,健一
内容要旨

 乳幼児の歩行は成人とは著しく異なり,形態的変化,神経系や筋の発達など生理的発育に伴って成人様歩行へ漸進的に変化すると考えられてきた.しかし歩行獲得初期の1歳児について詳細に分析した先行研究は少なく,その歩行の発達パターンについては現在明らかになっていない.そこで,本研究では歩行獲得初期の1歳児を中心に歩行の発達パターンを明らかにし,各関節の発達の著しい時期を解明することを目的としている.

 また歩行の発達過程においては歩行運動は生理的発育に伴って変化するとともに,運動自体が生理的発育を促し,それにより歩行運動がさらに変化すると考えることができる.そこで,歩行運動の経験期間によって歩行運動がどれほど影響を受けるものなのか,歩行開始からの月数を用いて検討することとした.

 歩行開始をひとり歩きが5歩以上できた状態とし,その条件を満たす10〜70ヶ月の乳幼児を対象に運動学的および力学的測定を行った.分析は時間・距離因子(歩調,歩幅,歩行速度),運動学的因子(関節角度,左右・鉛直・前後方向の関節変位),力学的因子(床反力波形,床反力作用点軌跡)に関して行った.

 また歩行発達と関連性があると考えられる筋力についても検討した.乳幼児の筋力を直接測定することは困難なため,超音波法により筋厚を測定した.成人では筋力と筋厚との相関は高いと報告されている.対象としたのは11〜26ヶ月の乳幼児73名である.測定部位は大腿長中央位ならびに下腿囲最大位における前面と後面である.

 運動学および力学的測定,ならびに筋厚の測定の結果,いくつかの新知見を得るなど,以下のような成果をあげることができた.

1.歩行発達パターン

 従来,乳幼児歩行から成人様歩行へは徐々に変化すると考えられてきた.しかし本研究で,歩行獲得初期の1歳児を中心に詳細に分析した結果,乳幼児歩行の特性は低月齢において特に成人と大きく異なること,また歩行開始から数ヶ月の期間に著しい歩行の発達が見られ,その後は緩やかな発達になることが明らかとなった.この乳幼児の歩行発達パターンは,関節角度,関節変位,床反力,および歩調,歩幅,歩行速度において見られた.

股関節の左右方向変位左右変位は身長で基準化した.生後10ヶ月から16ヶ月ごろまでは著しい減少を示し,その後は緩やかな減少にかわる.

 歩行運動では身体が安定し,かつより大きく移動することが効率のよい動きと捉えることができる.そこで歩行運動を安定性と移動性の2面から分析するため,本研究で解析を行った左右方向,鉛直方向,前後方向の関節変位は安定性,関節角度変位は移動性の指標と位置づける.その結果,安定性の方が移動性に比べ,早い時期に大きな変化が生じることが明らかとなった.安定性はおよそ生後14〜16ヶ月までが著しい変化を示し,移動性は生後14〜21ヶ月までが著しい変化が見られた.これより歩行発達は,まず安定性を獲得し,そして移動性が加わり,その結果,歩調,歩幅,歩行速度が増加すると考えられる.さらに左右方向変位と歩調は負の相関が見られ,歩調が大きい場合は左右方向への関節変位が小さいことが示された.このことから,時間因子の増加は安定性をより強化するというフィードバック機構も存在すると考えられる.

2.各関節の発達時期

 各関節の発達パターンに関しては,発達の著しい時期が関節によって異なることが示された.具体的には肩関節の左右方向変位はおよそ16ヶ月,股関節は15ヶ月,膝および足首関節は14ヶ月,股関節および足首関節の鉛直方向変位は14ヶ月までが著しい発達が見られた.このように安定性にかかわる項目では,遠位関節の方が近位関節よりも早い時期に著しい変化が見られ,下から上へ安定がはかられていくと考えられる.

 左右方向変位が低月齢で大きいことの原因の一つとして歩隔が考えられる.乳幼児では成人に比べ股関節の外転が強く,顆体角が小さい.これら形態的特徴が一因となって歩隔は広くなっている.しかし発育に伴って歩隔は狭くなり,さらに歩行時の姿勢を保持する筋および平衡能の発達とあいまって左右方向変位は小さくなると考えられる.

 一方,股関節過伸展は19ヶ月ごろまで見られず,股関節可動域は21ヶ月,膝関節角度は17ヶ月までが大きく変化していた.これらは筋の発達との関連性が強いと考えている.筋厚を測定したところ,大腿部前面および後面は19〜20ヶ月までは明らかな増加が見られた.それぞれ大腿四頭筋,ハムストリングスの発達を示しており,発達時期から見ても股関節過伸展ならびに股関節可動域の増加に関与したと考えられる.

3.歩行経験の影響

 歩行発達における歩行経験の影響を検討した結果,多くの項目で歩行開始からの月数が多いほど同じ月齢でも歩行が発達した状態であることが示された.関節角度変位では,上体角度の前傾最大角,股関節屈曲および伸展最大角,下腿部角度範囲,左右方向変位では肩関節,股関節,膝関節,鉛直方向変位では肩関節,股関節,足首関節で歩行経験の影響が見られた.床反力では推進分力の極値と外側分力の力積,また歩調,歩幅,歩行速度においても歩行開始からの月数で結果に違いが見られた.

 本研究の対象者では歩行開始からの月数は,同じ暦月齢でも最大で7ヶ月の差が見られた.このような歩行経験の期間の違いが,歩行の発達に影響を与えることが本研究によって明らかとなった.歩行運動は形態的変化や筋力,神経系の発達といった生理的発育に伴って変化し,さらに歩行という運動の経験が生理的発育にも影響を与え,それによって歩行運動が変化したと推測される.今後,乳幼児の歩行研究においては,歩行経験すなわち歩行開始からの期間を考慮に入れていくべきであると考えている.

4.関節の後退

 作用点軌跡および立脚期における関節変位から,関節が後退するという現象が明らかとなった.この関節の後退現象は成人では足首関節を除いてほとんど見られないものであり,乳幼児歩行の特徴といえるが,これまで全く報告されていなかった.

5.床反力と運動学的因子との関連性

 先行研究(Yaguramakiら,1995)において,成人では床反力と運動学的因子との関連性があることが確認されているが,乳幼児ではこれまで報告されていなかった.本研究によって上体角度,大腿部角度・股関節角度,下腿部角度・膝関節角度,左右方向変位,鉛直方向変位において,床反力の極値や力積との関連性が示された.

6.縦断的測定の重要性

 本研究では横断的測定に加え,歩行開始初期から1年以上にわたり継続的に測定を行ってきた.縦断的データからは月当たりの変化量を知ることができ,関節ごとに発達の著しい時期を検討する上でより信頼性のあるデータを得たといえる.低月齢では特に発達の個人差は大きく,すべての被験者の結果を平均する横断的分析だけでは,歩行の発達過程を正確に把握することはできないからである.低月齢児を対象とする乳幼児歩行研究では,縦断的測定は重要な手法であると考えられる.

審査要旨

 本論文は,従来の乳幼児歩行研究の多くが3歳以上の幼児を対象としていたのに対し,歩行獲得初期の1歳児の歩行運動を詳細に調べ,乳幼児歩行研究において貴重なデータを提出している.具体的には時間・距離因子,運動学因子,力学的因子に関して分析を行い,さまざまな角度から乳幼児の歩行運動を解析し歩行の発達過程を明らかにした.また同一個人を継続的に調べる縦断的測定を行っていることは,乳幼児の発達は個人差が大きいことを考慮すると,本論文の結果は信頼性の高いものである.

 歩行の発達が歩行開始初期に特に著しく発達するという本論文の結果は,多数名の1歳児を対象に縦断的に測定した研究でなければ明らかにできなかったことであり,乳幼児歩行研究において重要な新知見を導き出したといえる.歩行に関する研究では歩行の開始ならびに歩行発達の条件の解明が重要課題である.これについて論文提出者は歩行発達過程の初期においては安定性の獲得が重要であると指摘しており,この考えは進化における二足直立歩行の獲得化,異常歩行の正常化において,一つの示唆を与えたと評価できる.

 また定性的分析も慎重に行っており,それにより乳幼児歩行の特徴を綿密に捉え,新知見を得ている.論文提出者自身が生データの重要性を認識していることが伺われる.

 本論文では歩行運動に関連性の深い筋力の発達に関しても検討している.乳幼児の筋力を直接測定することは困難であり,超音波法によって筋厚を測定しているが,乳幼児の筋厚に関しての先行研究は少なく,発育過程における筋の発達を示した重要な結果である.また関節角度や関節変位の分析から,歩行運動における各関節の発達時期には違いがあり,その原因として筋の発達との関連性を指摘している.従来から歩行運動と筋骨格系の発達との関連性が推測されてはいたが検証されてこなかった実状に対し,実測値に基づく考察を行ったものとして評価できる.

 なお,本論文は木村賛,藤田祐樹,西沢哲との共同研究であるが,論文提出者が主体となって,実験,分析および検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 したがって,本論文に対し博士(理学)の学位を授与できると認める.

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