内容要旨 | | 真核生物の鞭毛、繊毛は規則的な屈曲波を形成して運動する細胞器官である。この運動の基礎は、鞭毛・繊毛の内部構造(軸糸)の中に存在する周辺微小管同士の規則的な往復滑り運動であることが知られている。この滑り運動は、軸糸の中に9対ある周辺微小管上のダイニンが、ATPを分解しながら隣り合う周辺微小管に対して力を出すことによって生じる。ダイニンが微小管どうしの滑り運動を起こすことは、たとえば単離したダイニンがATP存在下で微小管を滑走させる能力を保持していることから示される。これまでダイニンの構造やそのATP分解酵素としての機能についてはよく研究されてきたが、どのようなしくみで、ダイニンの発生する直線的な運動が軸糸の規則的な屈曲運動に変換されているかについては、まだほとんどあきらかになっていない。波打ち運動を起こすためには、9本の微小管上の適切な部分でだけダイニンが滑り運動を発生する必要がある。そして、そのような活性化部位は、鞭毛打の位相が進むにつれ基部から先端にむけて伝播されなくてはならない。そのような活性の調節がどのような仕組みでおこなわれているのかを理解することが、鞭毛・繊毛運動研究の中心的課題である。この機構をあきらかにするためには、鞭毛軸糸内で生じている化学的なプロセスだけではなく、力学的なプロセスに関する理解が必要である。特にダイニンの発生する力や軸糸内の弾性要素などについてさらなる知見が求められている。また、最近の変異株を用いた研究から、軸糸内には10種以上のダイニンが共存し、それぞれ運動特性が異なることが示されてきている。運動特性の異なるダイニンの共存は、鞭毛が屈曲運動するためには重要であると考えられる。したがって、それぞれのダイニンがどのような運動性を持つかを明らかにしてゆきたいと考えた。 鞭毛の屈曲運動の発生機構を解明するという観点から、単離したダイニンと微小管のふるまいではなく、軸糸構造そのものを材料に研究をおこなった。鞭毛のような複雑な構造の運動特性を調べるためには、単離した分子での実験だけでは十分ではないと判断したからである。本研究では様々なダイニンを欠失したクラミドモナス変異株の鞭毛を用いて力発生の違いを測定し、各ダイニンの機能に迫る試みをおこなった。さらに、鞭毛軸糸内の重要な力学的性質である周辺微小管の間の弾性の直接測定を行なった。以前から、周辺微小管間にはネキシンリンクと呼ばれる弾性繊維が存在すると考えられていたが、これまでその弾性を実証した研究はなかった。本研究はその存在を初めて明らかにすることに成功した。 第一部では、鞭毛の各ダイニンが発生する力の違いを明らかにするため、クラミドモナスの3種類のダイニン欠失変異株を用い、それらの粘性溶液中での遊泳速度から鞭毛の発生する力を見積もるという研究を行った。用いた変異株は外腕ダイニンを完全に欠損したoda1、内腕重鎖のfという分子種を欠損したida1、および内腕重鎖のうちa,c,dを欠損したida4である。異なる粘性下における遊泳速度を測定し、鞭毛軸糸が全体として発生する推進力をストークスの方程式によって計算した。この結果から野生株の鞭毛は通常の粘度約1cPのときよりもさらに粘度を上げた約2cPの環境での方が大きな力を発生できることがわかった。この力の増大は、細胞が高粘度環境に適応しようとする生物学的反応であることが示唆された。また外腕の発生する力は粘性抵抗の変化に応じて大きく変化するが、内腕は常に一定の力を発生する傾向があることがあきらかになった。さらに、ida4で欠失している内腕は、高い粘性条件下で力を発生するために重要な要素であることが示唆された。細胞膜を除去した後に外部からATPを添加し再活性化した野生株および変異株の細胞モデルを用いた実験でも、本質的に同様の違いが観察された(ただし野生株における粘度に伴う力の増大現象は、生細胞だけで観察された)。鞭毛打波形を解析したところ、粘度を変えても鞭毛打頻度が変化するだけで、鞭毛波形に大きな変化は見られなかった。したがって、これら各ダイニン変異株の遊泳速度が環境の粘度に応じて変化するのは、個々のダイニンの出す力が変化することによるためであると考えられる。このことから、本実験でダイニン変異株ごとに粘性抵抗依存性に差が認められたことは、ダイニンの力発生の負荷依存性が、種類ごとに異なっていることを示していると結論された。 第二部では、異なるダイニンが発生する滑り力を直接測定するために、微小なガラス針によって滑り力を測定する試みを行なった。鞭毛軸糸に微小なガラス針の先端を固定し、軸糸にATPとプロテアーゼを加えた時の軸糸の運動をガラス針の位置とたわみから測定することにより、滑り速度と滑り力を同時に測定した。この測定を行なうために、微小物体の運動をナノメートル単位の空間分解能とミリ秒単位の時間分解能で追跡できる光学顕微鏡を作成した。また、ガラス針の弾性係数は水中での熱揺動の大きさから測定した。測定装置の限界から、正確な力-速度関係を求めることはできなかったが、得られた最大滑り力は、野生株の場合1mM ATPの条件下では約70pN/mであった。また、ダイニン部分欠失株ida1,oda1の軸糸では約20pN/mという値が得られた。これらの力の大きさの比は、第一部で求めたものとほぼ一致している。第一部の結果を考慮すると、異なるダイニンはそれぞれ異なった力学的性質を持つことが強く示唆される。これらの力の絶対値は、以前に測定されたウニ精子鞭毛軸糸における滑り力と同程度であるが、最近光ピンセット法を用いて一分子計測技術で測定されている値より、数倍小さい。滑り運動を行っている軸糸微小管中では、一部のダイニンしか力発生を行っていない可能性が考えられる。このことは今後の興味ある問題である。 滑り力の直接測定に付随しておこなった実験において、鞭毛軸糸内部の弾性を直接測定することに成功した。ATP存在下で軸糸に付着させたガラス針によって、軸糸に軸方向の力をかけると、軸糸の微小なずれが起こる。そのずれとガラス針のたわみから軸糸内の弾性を計算することができ、鞭毛軸糸は軸糸1mあたり約2pN/nmという弾性を持つことが明らかとなった。この弾性係数は、最近測定されたダイニンの発生する力のデータと、以前おこなわれた軸糸振動現象から得られた弾性の評価とを考慮すると、ほぼ期待どおりの値である。なお、この実験において、溶液中からATPを除くと、ダイニンと微小管の間に強固な結合(rigor結合)が生じると考えられるが、その条件下では軸糸の縦方向の弾性は5倍以上大きくなった。すなわち、ここで求められた弾性は主として周辺微小管の間のそれであると結論される。測定値は軸糸ごとのばらつきが大きいが、ダイニンの有無やラディアルスポークの有無などには大きく依存しないことが判明した。すなわち、ネキシンリンクの弾性そのものである可能性が高い。ネキシンリンクは電子顕微鏡で観察されているだけで、その構成蛋白質、性質ともに未知であり、そのような構造が実在するかについても、疑問が呈されていた。鞭毛・繊毛の振動的運動の発生のためには、微小管滑り運動を一定の範囲に抑える機構がなくてはならないが、ネキシンリンクはそのような機構に本質的な構造であると想像される。今回その弾性が確認されたことは、鞭毛運動機構の解明にとって重要な貢献であると考えられる。 |
審査要旨 | | 本論文は真核細胞の運動器官である鞭毛・繊毛の力学的性質に関する実験結果を記述したものである.鞭毛・繊毛は多くの生物に共通した9+2の軸糸構造を持ち,周辺微小管に結合したダイニンが隣り合う周辺微小管に対して滑り力を発生することにより,規則正しい波動運動を行う.しかしその滑り運動が規則的な屈曲運動に変換されるメカニズムはまだ明らかになっていない.その解明のためには,ダイニンと微小管の相互作用の化学的過程を理解するとともに,ダイニンが発生する力や軸糸の力学的特性に関する情報を得る必要があると考えられるが,後者の力学的性質に関する研究はこれまでほとんど行われてこなかった.本論文はその問題に取り組んだものである. 本論文は2章からなる.第1章では,クラミドモナスの様々なダイニン部分欠失変異株を用い、異なる粘性溶液中における遊泳速度を比較することによって、鞭毛が全体として発生する推進力を比較した.その結果、外腕ダイニンが発生する推進力は,粘性の上昇とともにまず40%程度増大するが,更なる高粘度条件下では単調に減少するという,二相性の変化を示すことが判明した.一方,内腕ダイニンが発生する推進力は高粘度条件下でも一定に保たれていた.また,ある種の内腕ダイニンを欠失した変異株は,高粘度で遊泳することができないので,これらが高負荷,もしくは低速での運動に重要であると結論された.異なる種類のダイニンが力発生特性において大きく異なっていることがこのように明瞭に示されたのは,これが初めてである. 第2章では主に軸糸内の弾性要素の測定に関して述べられている.この章の実験では,まずダイニンの力発生特性の違いをより直接的に検討するために,ダイニン部分欠失変異株の軸糸の滑り力を微細なガラス針のたわみから求めるという,野心的な試みが行われた.このような試みはこれまで精子鞭毛を使って行われたことがあるだけで,短いクラミドモナスの鞭毛では困難な実験であったが,本実験では一定の成功を見た.その結果,この生物の軸糸の滑り力はウニ精子鞭毛のものとほぼ同等であることが確認されたほか,ダイニン欠失変異株軸糸では大幅に低下していることが観測された.しかし,技術的困難のため,より定量的な測定にはいたらなかった.本章ではつぎに,この時開発された方法を用いて,周辺微小管間に存在すると考えられる弾性要素を検出する実験を報告している.そのような弾性要素はこれまでこれまで理論的に予測されていたが,実体は不明であった.本実験では,軸糸にガラス針に縦方向の力を加えた際の応答を解析するという巧妙な方法により,その弾性をはじめて実際に検出し,弾性係数を測定することに成功した.また,これまで電子顕微鏡での観察から,その弾性を担う構造は微小管と可逆的に結合・解離を行うことができる可能性が示唆されていたが,本研究ではその可能性を強く支持する結果を得た.この研究によって決定された軸糸内弾性係数は,鞭毛運動の理論的解析には欠かせない重要なものである. 以上,第1章,第2章で述べられた結果は,現在鞭毛・繊毛運動機構の理解にとって現在最も必要とされる情報を提供するものであり,細胞生理学,生物物理学の分野において高く評価される.また,本研究は論文提出者を含めて3人の共同研究であるが,論文提出者が主体となって装置の作成,測定,データ解析まで一貫して行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する.従って,博士(理学)の学位を授与できると認める. |