学位論文要旨



No 114129
著者(漢字) 吉田,薫
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,カオル
標題(和) ニシン精子活性化タンパク質による精子活性化機構の生理生化学的研究
標題(洋) The study on the mechanism of the sperm activation by sperm-activating proteins in the Pacific herring,Clupea pallase
報告番号 114129
報告番号 甲14129
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3618号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森沢,正昭
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 岡,良隆
 独協医科大学 助教授 大竹,英樹
内容要旨

 多くの生物において卵由来の物質が精子の運動を活性化し誘引すること、即ち精子活性化・走化性現象が知られている。しかし卵由来物質の性質と作用機構が明らかになっている例は少ない。そこで、私は卵由来の精子活性化物質が同定されている海産硬骨魚類のニシンで精子活性化機構の研究を行なった。

 ニシンでは全く異なる2種の精子活性化物質が同定されている。ひとつは卵の卵殻最外層全体に分布し容易に海水中に放出される分子量約8kDaのニシン精子活性化タンパク質(Herring Sperm-Activating Proteins;HSAPs)で、我々の研究室でその発見、分離精製、cDNAクローニングと一次構造の決定が行われ、isoformを持つ一連のファミリーであることが明らかにされた。一方の卵門周辺の最外層に結合して分布する105kDaの糖タンパク質(Sperm motility initiation factor;SMIF)は、米国の研究グループにより分離されたが、精製、cDNAクローニングは行われていない。これらは、全く異なる分子であり、その存在部位も異なることから精子活性化において役割を分担していると予想される。本研究では、HSAPsの作用部位の同定とそれにより起こる細胞内情報伝達機構を明らかにし、SMIFとの作用機序の差異を比較することにより、受精における精子運動活性化の分子機構とそれが持つ生物学的意義を明らかにすることを試みた。

第1部精子活性化におけるプロテアーゼの関与

 HSAPsは、cDNA塩基配列より予想されるアミノ酸配列からKazal型trypsin inhibitor(TI)と相同性が高く、又、trypsinの酵素活性を変化させることが知られている。そこで私は、まず、精子抽出液中にHSAPsにより変化する酵素活性があることを見いだした。これらの酵素はchymotrypsin,aminopeptidase,prolyl cndopeptidase(PEP)であり、そのうち受精に関与していると報告のあるPEPをニシン精子より精製した。更に、PEPの精子活性化への関与を検討し、以下のことを明らかにした。1)PEPのポリクローナル抗体を作成し、ウエスタンブロット法により、この酵素がニシン精子尾部鞭毛に存在すること、2)PEP特異的阻害物質、Z-thiopro-thioprolinal(ZTT)がHSAPsによる精子活性化を阻害する、即ちPEPが精子活性化に関与していること、3)精製したニシン精子PEPを固定化したアフィニティカラムにHSAPsが吸着、消化を受けずに溶出されること、即ち、HSAPsが精子PEPに結合すること、4)Flavobacterium PEPを固定化したカラムにはHSAPsは吸着されないことからHSAPsとニシン精子PEPの結合が特異性を持つことである。以上の結果はPEPがHSAPsの受容体のひとつである可能性を示している。

図1.ZTTのHSAPsによる精子運動活性化に対する影響精子を各濃度のZTTを含む人工海水中に懸濁した後、HSAPsによる活性化率を測定した。(誤差線は、平均値(n=3)±SEを示す。)
第2部HSAPsの構造とHSAPs結合タンパク質の同定

 PEPがHSAPsの受容体である可能性及び、HSAPsと受容体の相互作用を検討するために、HSAP(pI=5.1)の73アミノ酸について、5つのオリゴペプチド断片を合成し、各断片の精子活性化作用を調べたその結果、C末端側19アミノ酸からなるオリゴペプチド(HSAP-E)のみが活性化作用を持つことが明らかとなった。この部分は他のKazal型TIと相同性をほとんど持たないので、HSAPsはそのKazal型TIとしての結合活性中心で受容体と結合し、精子運動活性化を引き起こす可能性は低いと考えられた。

図2.オリゴペプチド断片による精子活性化HSAP(pI=5.4)、オリゴペプチド断片A〜Eはそれぞれ最終濃度10g/mlになるように精子懸濁液に添加し、活性化率を測定した。グラフはHSAP(pI=5.4)を100%としたときの値を示す。(誤差線は、平均値(n=3)±SEを示す。)

 そこで、精子膜画分からHSAPsと結合するタンパク質を同定することを試みた。まず、HSAPsのN末端に光感受性架橋試薬であるSASDを結合させ、これを125Iラベルして、HSAPs結合タンパク質を含むと考えられる精子の界面活性剤可溶性画分と混合し、紫外線照射により架橋した。このサンプルをSDS-PAGEにより分離した後、125Iラベルを検出したところ85kDaのタンパク質にHSAPが結合していることが明かになった。次にbiotinを持つ光感受性架橋試薬であるSulfo-SBEDを上と同様にHSAPsと結合させ、これを精子懸濁液と混合した。このSulfo-SBED-HSAPsが精子運動を活性化することを確認した後、SDS-PAGEで分離し、ウエスタンブロット法によりHRP-streptoavidinと反応させbiotinラベルを検出したところ、80kDa付近の二つのバンドとしてHSAPs結合タンパク質が検出された。一方、HSAPs固定化カラムを作製し、それを用いたアフィニティ精製では70kDaの結合タンパク質が検出された。これら三つの方法で得られたHSAPs結合タンパク質は分子量がニシン精子から精製されたPEP(79kDa)と近似しているため、PEPが受容体である可能性も大きく残されている。但し、抗PEP抗体がHSAPsによる精子運動活性を阻害しないこと、PEPは精子尾部に存在しているが、FITCラベルのHSAPs、HSAP-Eが精子頭部に結合していることから、このPEPが精子運動活性化に関するHSAPsの受容機構にどのように関わっているかについては更なる検討が必要である。この点については第1部で同定されたニシン精子PEPと、この3つのHSAPs結合タンパク質の遺伝子クローニングにより明かにできると考えている。

 さらに、HSAP-EにBolton-Hunter試薬により125Iラベルを導入し、精子と反応させ、filteration法によりBinding assayを行ない、HSAPs受容体とHSAPsの結合様式のkineticsを調べた。その結果、80%の結合活性が測定され、その結合様式は正の協同性を示すことが示された。

図3.光感受性架橋試薬SASDを用いたHSAPs結合タンパク質の検索7.5%SDS-PAGEによる分離後、PVDF膜に転写し、CBBR染色を行い(左)、放射活性をイメージングした(右)。各レーンには異なる濃度のコールドHSAP(pI=4.9)を添加した。1;コントロール(1/2ASW)、2;1g/ml HSAP(pI=4.9)、3;10g/ml HSAP(pI=4.9)。矢頭は約85kDaを示す。このバンドは2で放射活性が増加、3で減少している。従って、結合様式は正の協同性を示すことがわかる。
第3部HSAPsによる精子活性化の細胞内情報伝達機構

 HSAPsによる精子活性化の細胞内情報伝達機構における2次メッセンジャーの役割に注目し、まず、精子に負荷した蛍光色素のHSAPsによる精子活性化に伴う変動を調べ、活性化時に細胞膜の脱分極と[Ca2+]iの増加が起こることを明らかにした。この[Ca2+]iの増加はCa2+欠如海水中でも見られ、膜電位依存性Ca2+チャネルの阻害剤では阻害されなかった。従って、HSAPsは膜電位に依存しないCa2+チャネルからのCa2+流入、あるいは細胞内貯蔵部位からCa2+の放出を起こすと考えられる。一方、精子運動を活性化するHSAP-Eでは正常海水中でHSAPsによる場合と比べて小さい[Ca2+]iの増加が見られ、又、Ca2+欠如海水中では[Ca2+]iの増加はほとんど見られないが、精子が活性化される。従って、HSAPsは主に細胞内由来の[Ca2+]iの極微量の増加を通じて鞭毛運動を制御していると考えられる。これら極微量の[Ca2+]iの役割を解明することはきわめて困難ではあるが、イメージングなどによる更なる解析を行うことが必要である。

 環状ヌクレオチドに関しては、ニシン精子細胞中に低濃度のcAMPが存在しているが、HSAPsにより細胞内cAMPの上昇は起こらないことが明らかとなった。但し一定濃度のCa2+存在下で、除膜精子の運動性がcAMPによって持続するようになることから、HSAPsはcAMPの産生には働かないが、[Ca2+]i上昇を引き起こし、このCa2+がcAMPが関与する情報伝達系のより下流のPKAなどの標的の感受性を[Ca2+]i変化を通じて制御し、それが精子運動活性化に関与していることが考えられる。一方、私と米国の研究グループは共同で、精子の進入点である卵門付近にある、精子活性化因子(SMIF)はHSAPsに比べ細胞外からの多量のCa2+流入を起こし、著しい[Ca2+]iの増加と精子運動活性化を引き起こすこと、また、HSAPsによる精子運動軌跡は直線的であり、SMIFによるそれは円運動であることも明らかにした。このことは[Ca2+]iが高いと精子鞭毛運動は非対称性を持ち、精子は走化性と思われる挙動を示すことと一致する。即ちHSAPsは活性化にSMIFは走化性に関与すると考えられる。

 ニシンは生殖の時期には雄と雌のグループに分かれ、雄が先に生殖の場に到着し精子の塊を放出し、精子は動かずに水中を漂っている。そこへ雌のグループが遅れて到着し放卵をする。おそらく放卵後にまずHSAPsが卵より海水中に出て、受容体を介して精子と結合し、[Ca2+]iを極少量上げ、cAMPとの共同によって精子を活性化する。活性化された精子は直線運動を示し卵へと向かい、精子が卵門付近に達するとSMIFの働きで精子は円運動を呈し、卵門へと誘引され受精を全うすると考えられるのである。

図4.除膜精子の再活性化におけるカルシウムイオンとcAMPの影響精子を0.06%NP-40を含む除膜溶液中で30秒間除膜後、各カルシウムイオン濃度の再活性化溶液に希釈し、0.5mM ATP添加後、60秒で0.5mM cAMPを添加した(矢頭)。A;カルシウムイオン濃度<10-9M、B;10-8M、C;10-7M。カルシウムイオン濃度10-8M以下のときにcAMPによって有意に運動が活性化される。(誤差線は、平均値(n=3)±SEを示す。)
審査要旨

 本論文は3章からなり、第1章はニシン精子活性化におけるプロテアーゼの関与、第2章はニシン精子活性化物質HSAPsの構造とHSAPs結合タンパク質の同定、第3章はHSAPsによる精子活性化の細胞内情報伝達機構について述べられている。

 多くの生物で卵由来物質が精子運動を活性化する現象が知られている。しかし、その作用機構が明らかになっている例は少ない。HSAPsは、cDNAクローニングによりKazal型trypsin inhibitor(TI)と相同性が高く、trypsinの活性を変化させることが知られている。第1章ではニシン精子にHSAPsにより活性が変化する酵素prolyl endopeptidase(PEP)をみいだし、それを精製した。更に、PEPの精子活性化への関与を検討し、以下のことを明らかにした。1)PEPのポリクローナル抗体を作成し、ウエスタンブロット法により、この酵素がニシン精子尾部鞭毛に存在すること、2)PEP特異的阻害物質、Z-thiopro-thioprolinal(ZTT)がHSAPsによる精子活性化を阻害する、即ちPEPが精子活性化に関与していること、3)ニシン精子PEPを固定化したアフィニティカラムにHSAPsが吸着、消化を受けずに溶出されること、即ち、HSAPsが精子PEPに結合すること、4)Flavobacterium PEPを固定化したカラムにはHSAPsは吸着されないことからHSAPsとニシン精子PEPの結合が特異性を持つことである。以上の結果はPEPがHSAPsの受容体のひとつである可能性を示した。

 第2章ではHSAP(pI=5.1)の73アミノ酸について、5つのオリゴペプチド断片を合成し、各断片の精子活性化作用を調べ、Kazal型TIと相同性を持たないC末端側19アミノ酸オリゴペプチド(HSAP-E)のみが活性化作用を持つことが明らかとなり、HSAPsはそのKazal型TIとしての結合活性中心で受容体と結合し、精子運動活性化を引き起こす可能性は低いと考えられた。次に、HSAPsのN末端に光感受性架橋試薬であるI125ラベルSASD又はbiotinラベル光感受性架橋試薬Sulfo-SBEDを結合させ、精子の界面活性剤可溶性画分と混合し、紫外線照射により架橋し、SDS-PAGEにより分離した後、I125ラベル及びbiotinを検出したところ、それぞれ85kDa及び80kDaのHSAPs結合タンパク質が検出された。一方、HSAPs固定化カラムを用いたアフィニティ精製では70kDaの結合タンパク質が検出された。これら3つのHSAPs結合タンパク質は分子量がニシン精子PEP(79kDa)と近似し、PEPが受容体である可能性は大きい。さらに、Bolton-Hunter試薬によりI125ラベルを導入したHSAP-Eを精子と反応させ、filteration法によりBinding assayを行ない、HSAPs受容体とHSAPsの結合様式のkineticsを調べた。その結果、80%の結合活性が測定され、その結合様式は正の協同性を示すことが示された。

 第3章ではHSAPsによる精子活性化の細胞内情報伝達機構における2次メッセンジャーの役割に注目し、まず、蛍光色素法によりHSAPs又はHSAP-Eによる精子活性化に伴い細胞膜の脱分極と細胞内Ca2+[Ca2+]iの増加が起こることを明らかにした。この[Ca2+]iの増加はCa2+欠如海水中でも見られ、膜電位依存性Ca2+チャネルの阻害剤では阻害されない。従って、HSAPsは膜電位に依存しないCa2+チャネルからのCa2+流入、または細胞内貯蔵部位からCa2+の放出を起こすと考えられる。又、ニシン精子細胞中に低濃度のcAMPが存在しているが、HSAPsにより細胞内cAMPの上昇は起こらない。但し一定濃度のCa2+存在下で、除膜精子の運動性がcAMPによって持続するようになることから、HSAPsはcAMPの産生には働かないが、[Ca2+]i上昇を引き起こし、このCa2+がcAMPが関与する情報伝達系のより下流のPKAなどの標的の感受性を[Ca2+]i変化を通じて制御し、それが精子運動活性化に関与していることが考えられる。

 ニシンは生殖の時期には雄と雌のグループに分かれ、雄が先に生殖の場に到着し精子の塊を放出し、精子は動かずに水中を漂っている。そこへ雌のグループが遅れて到着し放卵をする。おそらく放卵後にHSAPsが卵より海水中に出て、受容体を介して精子と結合し、[Ca2+]量を上げ、cAMPとの共同によって精子を活性化する。活性化された精子は卵へ到達し、受精を全うすると考えられるのである。

 なお、本論文は、共同研究であるが論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)を授与できると認める。

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