環境中に放出された化学物質の中には、生体内に入り女性ホルモン(エストロゲン)と類似の作用や、抗男性ホルモン(抗アンドロゲン)作用を示すものがある。近年、この様な物質を内分泌攪乱化学物質(または、環境ホルモン)と呼び、それらの生体に及ぼす影響に関する報告が数多く発表され注目されている。内分泌攪乱化学物質の影響の主な例としては、野生動物の生殖器の発達異常、ヒトでの精子数の減少、または生殖器官系を中心とした癌の多発などが挙げられる。これらの影響は、生体内のホルモンバランスが乱れて、その結果生殖能力の低下を引き起こすという点で共通している。このように内分泌攪乱化学物質が原因であると推測される様々な事例が報告されているが、これらの現象が本当に内分泌攪乱化学物質により引き起こされているのか、複数の現象は互いに相関があるのか、あるいは内分泌攪乱化学物質がどのような機構で働いているのかなどは解明されていない。また内分泌攪乱化学物質自体の同定に関しても未解決で、工業廃棄物をはじめ、プスチック容器など普段の生活において生体内に取り込まれる危険が高いものなど、疑わしいとされる物質が数多く報告されている。しかし個々の物質の生体に対する影響の強さ、生体内での作用機構などに関する詳細な研究は、現在始まったばかりである。このように内分泌攪乱化学物質に関する研究は、物質そのものと、それを取り込んだ生体内で起きる反応の両面からの系統だてた解析が必要な段階である。 一方、外因性のエストロゲンによる生体内への影響に関しては、性分化異常、発情周期の喪失、癌の誘発などを中心として古くから研究が行われていた。ジエチルスチルベストロール(DES)はステロイド特有の構造を持たないが、強いエストロゲン様作用を示す合成エストロゲンである。1938年に合成された時は、その強いエストロゲン様作用のため流産防止薬として使われたが、その後DESを服用した妊婦から生まれる女児の生殖器官に癌を誘発することが明らかになり、ある種の前立腺ガンの治療に使われているのみで、ヒトには殆ど使用されなくなった。現在ではエストロゲンが誘発する癌や、生殖器官系の発達異常などの研究用に使用されている。このためDESは内分泌攪乱化学物質の中では、その作用機構が比較的詳しく明らかになっている物質である。 外因性エストロゲンの生体に対する影響に関する研究の中で、神経系に関しては内側視束前野の性的二型核や弓状核など性差が観察される部位を中心として、脳の性分化と関連した報告が多い。しかし末梢神経に関する研究は少なく、上頚神経節や骨盤神経節で、エストロゲンによる細胞体の数の変化が観察されている程度で、細胞体から神経線維まで神経細胞全体の変化を通して研究しているものは無い。本研究では、ラット卵巣の交感神経系に対する胎仔期のDES投与の効果を、神経細胞全体で調べた。卵巣は交感、副交感、感覚と三種類の末梢神経の支配を受けている。この中では交感神経が毛細血管に沿って非常によく発達し、さらに神経線維は毛細血管の以外の間質組織、濾胞の外莢膜にも検出されている。その働きについてそれほど詳細には分かっていないが、妊娠や卵巣内での性ホルモンの産生、あるいは濾胞の発達などに関与しているという報告があり、全体的には生殖腺刺激ホルモンやエストロゲンと協調して、卵巣の正常な生殖機能の維持に関与していると推測される。胎児期に投与されたDESの効果を卵巣交感神経系の変化という面から調べることで、今まで明らかにされていなかった末梢神経における外因性エストロゲンの影響を明らかにすると共に、卵巣末梢神経の機能をより正確に理解する糸口を見出すのが本研究の目的である。 胎児期のDES処理は以下のように行った。妊娠ラットに対し妊娠14日から20日までの間、母獣の体重1kg当たり100gのDESを約24時間おきに皮下注射により投与した。妊娠23日目に、帝王切開により仔ラットを取り出し、これを新生1日目として、同時期に妊娠・出産をさせた正常雌に授乳させた。同時期に溶媒である胡麻油のみを注射したものを正常対照群の母獣とし、正常に出産させた仔はそのまま実母に育てさせた。 初めに卵巣における組織学的変化を観察したところ、まず卵巣全体の形に変化が見られた。正常な卵巣は球形をしているが、DES処理によりこれが細長い形に変化しており、卵管との位置関係も正常のものとは大きく変わっていた。卵巣組織レベルの変化として、生後5日目で濾胞の発達に違いが見られた。正常卵巣では原始濾胞に加え、次の段階へ発達した一次濾胞が観察されたが、DES処理群では一次濾胞は見られなかった。さらに黄体形成などが活発になる2ヶ月齢の卵巣で黄体の数を比較すると、DES処理群ではその数が減少していた。従って、DES処理により初期の段階から濾胞の発達が遅れ、正常に発達して排卵にまで達する濾胞の数が減少していることが解った。次に2ヶ月齢卵巣において、交感神経系の節後ニューロンの神経伝達物質であるノルアドレナリンの、合成過程における律速段階酵素のチロシン水酸化酵素(TH)に対する一次抗体で免疫染色を行い、交感神経線維を検出した。その結果、DES処理群の卵巣では正常卵巣に比べ交感神経線維の著しい減少が見られた。以上より、胎仔期におけるDESの投与は、ラット卵巣に濾胞の発達の遅れと、TH免疫染色で検出される神経線維の減少を引き起こすことが初めて明らかになった(第1章)。 TH免疫染色で検出される神経線維が減少する原因として、次のような可能性が考えられる。TH自体の合成が外因性エストロゲンにより不可逆的に抑制されてしまったのか、または交感神経線維そのもが少なくなっているかである。この二つのうちどちらの可能性が高いかを検討するため、DES処理の後の卵巣交感神経細胞体の変化を調べた。卵巣交感神経の細胞体は、交感神経幹T10-L3、腹部神経節など複数の交感神経節で検出されている。この中で腹部交感神経節が最も多くの細胞体を含んでいることが分かっているので、逆行性に神経を標識するため蛍光物質FastBlue(FB)を卵巣に注入し、腹部神経節でその細胞体を検出した。DES処理群と正常対照群の神経節で検出された細胞体の数を比較すると、前者が後者の約55.8%に減少していた。また、新生1日齢雌ラットの腹部神経節の体積を比較すると、DES処理群で有意に減少していた。以上より、卵巣におけるTH免疫染色で検出された神経線維の減少は、交感神経の神経細胞そのものが減少した結果である可能性が強いことが明らかになった。さらに出生直後すでに交感神経の細胞数が減少していると考えられるため、その減少は濾胞の発達が遅れたことによるのではなく、濾胞が発達を開始する以前の早い段階で起こっていることが分かった(第2章)。 ここまでの実験からDESが末梢交感神経の細胞体に、発生過程で細胞死を誘導しているのではないかという可能性が考えられた。DESが細胞に細胞死を誘導する経路には、エストロゲンレセプターを介する直接的なものと、レセプターは介さない間接的なものがある。DESはエストロゲンレセプターと非常に強く結合するため、目標となる細胞がレセプターを発現している場合は、前者の可能性が強くなる。卵巣交感神経の細胞体にDESが直接に働くのか否かを確かめるため、FBによる標識とエストロゲンレセプターに対する抗体を用いた免疫染色を組み合わせて、卵巣の交感神経細胞体におけるエストロゲンレセプターの存在を確認した。さらに、DES処理群と正常対照群の間で、FBで標識された細胞体群中における、エストロゲンレセプターを有する細胞の割合を比較した。その結果DES処理群では、その割合が有意に低下していることが明らかなった(第3章)。 本研究により明らかにされたことをまとめると、胎仔期にDESを投与を行うと、卵巣の交感神経線維が減少する事を初めて確認した。この神経線維の減少のメカニズムを明らかにするために、交感神経の細胞体の変化を調べたところ、細胞体数の全体的減少、それがエストロゲンレセプターをもつ細胞体の減少によるものであるらしいことが分かった。従って、エストロゲンレセプターを有する卵巣交感神経細胞体が、発生時のDESの直接的な影響をうけて、細胞死を引き起こす可能性が高いと考えられる。即ち逆に、末梢交感神経系も積極的にエストロゲンの作用を受けており、このため外因性エストロゲンの影響も受けるということが言える。さらに、標的器官での交感神経の働に関しても神経細胞体にエストロゲン受容体の存在が確認されたので、ホルモンと直接的なクロストークを積極的に行っていると考えられる。このため、内分泌攪乱化学物質による生物への影響をより正確に知るには、全身的なホルモンや中枢神経系などの変化ばかりに注目するだけでなく、末梢神経の変化に起因するより直接的な神経系と内分泌系の局所的なネットワークの変化、及びそれに伴う標的器官での生理機能調節の変化にも注意を払うことが必要であると考えられる。 |