学位論文要旨



No 114145
著者(漢字) 吉村,美幸子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシムラ,ミサコ
標題(和) 鞭毛における微小管滑り運動の制御に関する研究
標題(洋) Studies on the regulation of microtubule sliding in flagella.
報告番号 114145
報告番号 甲14145
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3634号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 真行寺,千佳子
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 野中,勝
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 助教授 馳澤,盛一郎
内容要旨

 真核生物の鞭毛・繊毛は周期的屈曲運動を行う.この屈曲運動は,軸糸を構成する9本のダブレット微小管上のダイニン腕の働きによってダブレットの間に引き起こされる「滑り運動」を原動力としている.鞭毛が周期的な屈曲運動を行うのは,滑りの量が正確に制御されている結果であると考えられるが,その制御機構についてはまだ解明されていない.滑りの制御には,軸糸の中央に位置する2本の中心小管と周辺のダブレット微小管から中心小管に向かって延びる9本のスポークが重要な役割を果たしているのではないかと推測されている.クラミドモナス運動変異株を用いた研究から,スポークが,2列あるダイニンのうちの内腕のリン酸化に関与しているらしいこと,このリン酸化の制御により内腕の滑り活性が変化することが示されている.一方,中心小管についても滑りの制御に重要な役割を果たす可能性が示唆されているが,中心小管がダイニンの活性の制御に直接関与していることを示す実験はまだなされていない.中心小管はスポークの機能を制御している可能性が高いと考えられる.ところで,運動中の鞭毛軸糸内では,中心小管とスポークの両方が制御に関わっていると予想されるので,中心小管が存在する状態と存在しない状態で運動中のダイニンの活性を解析できればこの制御の実態を解明することができる.しかし,実際にはその様な実験はほとんど不可能である.

 本研究では,中心小管が滑りの制御に直接関与しているか否かを明らかにすることを目的として実験を行った.このためにまず,滑りの制御を可能な限り残した状態で,中心小管が存在する状態と存在しない状態におけるダイニンの滑り活性を測定する滑り解析系を開発した.これまで,ダイニンの滑り活性を解析するには,トリプシンなどの酵素処理により軸糸構造の一部を壊す方法が用いられてきた.ところがトリプシン処理軸糸では,鞭毛の周期的屈曲形成能力は失われてしまうので,滑りの制御機構との関連でダイニンの滑り活性を解析することはできない.一方,エラスターゼで処理したウニ精子鞭毛軸糸は,構造の一部が壊れていて滑りを起こすことができるにも関わらず,周期的な屈曲形成能を保持していることが報告されている.興味深いことに,エラスターゼ処理軸糸は,1mM ATPと10-4MCa2+を含む溶液中で,2本のbundle(ダブレットのグループ)に分かれるように滑る.そこで,このbundleを用いてダイニンの滑り活性の解析を行った.この新しい解析系の最大の利点は,中心小管を含むbundleと含まないbundleとを用いることができる点である.中心小管を含むものと含まないものとは,顕微鏡下で太いもの,細いものとして見分けることができる.さらに,この方法で得られたbundleは,太いものが5〜6本,細いものが3〜4本のダブレットにより構成されているが,いずれのbundleにおいてもその端に位置する2本のダブレットの内の片方のダブレットのダイニンのみが露出しており,この露出したダイニンは活性を持っている.後述するように,bundle内に位置するダブレット上のダイニンは活性を持たないらしい.このため,露出したダイニンのみが外から与えた微小管と相互作用する.この方法を用いて,bundle上の微小管の滑り速度を解析することにより,ダイニンの活性制御における中心小管の役割について知見を得ることができた.

 実験には,アカウニ(Pseudocentrotus depressus)またはタコノマクラ(Clypeaster japonicus)を用いた.精子を除膜後断片化し,5lのチェンバーにいれる.このチェンバー内で軸糸断片をエラスターゼで処理する.その後,1mM ATP,10-4MCa2+を含む溶液を潅流し軸糸に滑りを起こす.Ca2+濃度を下げた後,bundle上に重合微小管をATPとともに潅流する.ATP濃度は1mM,0.1mM,0.05mM,0.02mMについて解析した.軸糸と重合微小管はローダミンで染色した.微小管の滑り運動は,蛍光顕微鏡下で高感度のビデオカメラを用いて記録・解析した.

 本研究では,中心小管の役割に関して2つの興味深い結果を得た.その第1は,中心小管による滑りの抑制である.Bundle上で見られる微小管の挙動は大きく3つに分類される.その1つは滑り運動で,bundleと相互作用した微小管のうちの約3割で見られた.2つ目は,振幅0.5m以下の往復運動でこれは微小管のうちの約2割で見られた.3つ目はbundleに付着して動かないというもので,これは残りの微小管で見られた.往復運動に規則性はなく,ATP濃度にも依存しなかった.これは,ダイニンと弱く結合した微小管の熱揺らぎを反映した動きであろうと推測される.一方,滑り運動はこの往復運動とは明らかに異なり,その速度はATP濃度に依存して変化した.Bundleの太さに着目して解析を行ったところ,高濃度ATP(0.1,1mM)では,太いbundle上の滑りは細いbundle上より起こりにくく,また,太いbundle上の滑り速度は細いbundle上より有意に遅かった(Mann-Whitney U-testにより検定).一方,低濃度ATP(0.05,0.02mM)では,滑り頻度は太い方で高く,滑り速度には太さによる差はなかった.さらに,内腕ダイニンのみのbundleについても解析を試みた.高塩濃度処理により外腕を抽出した軸糸から得られたbundleを用いて滑りを解析した結果,やはり高濃度ATPでは太いbundleにおける滑り頻度と速度が細いbundleに比べ低かったが,低濃度ATPではbundleによって滑り速度に差はみられなかった.このように高濃度ATPでは中心小管が存在するときダイニンの滑り活性が抑制されるらしい.この結果は,中心小管が内腕ダイニン(そしておそらくは外腕ダイニンも)の活性の制御に直接関与している可能性を示唆する.これまでにダイニンの制御に関連した反応のいくつかがATP濃度0.1mMを境にして変化することが報告されている.本実験で中心小管の滑りに対する効果がATP濃度に依存していたことは,本実験の結果が鞭毛軸糸内におけるダイニンの活性の制御を反映している可能性が高いことを裏付けていると思われる.

 中心小管の役割に関する2つ目の結果は,Ca2+の効果についてである.多くの鞭毛・繊毛において高濃度のCa2+により波形の変化が起こることから,Ca2+は軸糸におけるダイニンの活性に影響を与えている可能性が考えられるが,それがどのような機構によるのかはまだ明らかではない.ウニ精子鞭毛においても高濃度ATP下でCa2+が波形変化を引き起こすことが知られている.そこで,太いbundleと細いbundle上の微小管の滑りの特性に及ぼす10-4MCa2+の効果を解析した.その結果,Ca2+存在下で細いbundle上では微小管の滑り運動が見られたが,太いbundle上では滑りが全く見られなかった.一方,細いbundle上の微小管の滑りの頻度も速度もCa2+により変化しなかった.興味深いことに,10-4MCa2+存在下で,太いbundle上では微小管の滑り運動だけでなく往復運動も全く見られず,bundle上に付着した微小管の数も他の条件に比べて少なかった.これらの結果は,Ca2+存在下で中心小管がダイニンの活性を抑制することを初めて示唆したものである.

 本研究では,中心小管の役割に加えて,ダイニンの活性の制御に関する興味深い2つの知見を得た.その1つは,高濃度のATP下ではダイニンの活性が抑制されているらしいことである.軸糸が2本のbundleに分かれるように滑り出した後,ATPを与えてもbundleからさらにダブレットが滑り出さない.これは高濃度のATPの時に顕著であった.これに対し,bundleの端に位置するダブレット上に露出したダイニンは微小管を滑らせることができる.従って,1mM ATP存在下で軸糸から2つのbundleに分かれるように滑りが起こるとき,大部分のダブレット上のダイニンの滑り活性は抑制されているが,中心小管の2本の微小管を含む面付近のダイニンのみが滑り活性をもっているのではないかと推測される.

 2つ目は,内腕と外腕の2列のダイニンによる滑りの制御に関する知見である.In vitro系で内腕と外腕の2列が存在した状態で微小管の滑りを解析したのは本実験が初めてであるが,滑りの速度は,内腕と外腕が存在するbundle上と外腕を抽出したbundle上とで変化しなかった.このことから,内腕と外腕が同時に1本の微小管を動かしている可能性,または,内腕と外腕はそれぞれ独立に微小管と相互作用しており,その滑り速度がほぼ等しい可能性が考えられる.しかし,現時点では,内腕と外腕が存在するbundle上で見られる滑りが,内腕のみによって引き起こされている可能性も否定できない.

 以上のように,本研究では,エラスターゼ処理したウニ精子鞭毛軸糸から得られた,太いbundleおよび細いbundleにおける重合微小管の滑り運動を比較解析することにより,中心小管がダイニンの活性を直接制御しているらしいことを示す新しい知見を得た.中心小管がどのようなメカニズムでダイニンの活性を制御するのかはまだ不明であるが,中心小管はスポークの機能の制御を介してダイニンの活性を制御している可能性が考えられる.今後,本研究で開発した新しい滑り解析系を用いることにより,中心小管およびスポークを含む滑りの制御機構の全容の解明のみならず,ダイニンの特性の解明も進むものと期待される.

審査要旨

 真核生物の鞭毛運動の最大の特徴は,周期的屈曲運動である.鞭毛の中にはモーター蛋白質ダイニンとダブレット微小管が存在し,ダイニンが9本のダブレット微小管同士の間に起こす滑り運動により屈曲の形成と伝播が起こる.しかし,滑り運動は一方向性の運動であるので,鞭毛運動が起こるには,ダブレット間の滑りの量が制御されていなければならないと考えられる.本論文は,この滑りの制御について,新しい解析手法を開発し,その手法を用いて滑り(特に滑り速度)の制御に鞭毛内部の中心小管が果たす役割を初めて明らかにしたものである.

 これまでの研究から,滑りの制御には,軸糸の中央に位置する中心小管と周辺のダブレット微小管から中心小管に向かって延びる9本のスポークが重要な役割を果たしているのではないかと推測されている.クラミドモナス運動変異株を用いた研究から,スポークがリン酸化を介して内腕ダイニンの滑り活性を制御しているらしいことが示されている.一方,中心小管についても滑りの制御に重要な役割を果たす可能性が示唆されているが,中心小管がダイニンの活性の制御に直接関与していることを示す実験はまだなされていなかった.中心小管は,スポークの機能を制御している可能性が高いと考えられるが,実験的にそれを示すことにはいくつもの困難があった.

 本研究では,まず,新しい滑り運動解析系の開発を行った.エラスターゼで処理したウニ精子鞭毛軸糸は,構造の一部が消化されていて滑りを起こすことができるにも関わらず,滑りの制御機構をある程度保持していることが報告されている.興味深いことに,エラスターゼ処理軸糸は,中心小管を含む太いbundleと含まない細いbundleの2本のbundleに分かれるように滑る.このbundleの端のダブレット上に露出したダイニンのみが外から与えた微小管と相互作用する.そこで,bundle上の微小管の滑り速度を解析することにより,ダイニンの活性制御において中心小管が果たす役割について知見を得ることができた.

 本研究では,中心小管の役割に関して2つの興味深い結果を得た.その第1は,中心小管による滑りの抑制である.Bundle上で見られる微小管の滑り運動の頻度と速度は,ATP濃度に依存して変化した.Bundleの太さに着目して解析を行ったところ,高濃度ATP(0.1,1mM)では,太いbundle上の滑りは細いbundle上より起こりにくく,また,太いbundle上の滑り速度は細いbundle上より有意に遅かった.一方,低濃度ATP(0.05,0.02mM)では,滑り頻度は太い方で高く,滑り速度には太さによる差はなかった.この特性は,外腕を抽出した内腕ダイニンのみのbundleについても確認された.このように,高濃度ATPでは中心小管が存在するときダイニンの滑り活性が抑制されるらしい.この結果は,中心小管が内腕ダイニン(そしておそらくは外腕ダイニンも)の活性の制御に直接関与している可能性を示唆する.中心小管の役割に関する2つ目の結果は,Ca2+の効果についてである.10-4MCa2+存在下で細いbundle上では微小管の滑り運動が見られたが,太いbundle上では滑りが全く見られなかった.一方,細いbundle上の微小管の滑りの頻度も速度もCa2+により変化しなかった.この結果は,Ca2+存在下で中心小管がダイニンの活性を抑制することを初めて示唆したものである.

 以上のように,本研究では,中心小管が滑りの制御に直接関与しているか否かを明らかにすることを目的として研究を行い,滑りの制御を可能な限り残した状態で,中心小管が存在する状態と存在しない状態におけるダイニンの滑り活性を測定する新しい滑り解析系の開発に成功した.そして,この手法を用いて滑り速度の解析を行った結果,(1)中心小管により滑り速度が抑制される,(2)カルシウムによる滑り速度の完全な抑制に中心小管が関与する,という中心小管による滑りの制御に関する2つの新しい知見を得た.またこれらに加えて,(3)高濃度ATPにより滑りが抑制され,この抑制の解除に中心小管が関わる可能性が高い,(4)外腕ダイニンによる滑り速度は内腕ダイニンによる滑り速度と同じである可能性が高い,という2つの重要な知見も得ることができた.これら4つの知見は,滑りの制御機構の全容を解明する上でいずれも極めて重要な発見である.

 なお,本結果の(2)については,中野泉氏との協同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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