学位論文要旨



No 114163
著者(漢字) 鼎,信次郎
著者(英字)
著者(カナ) カナエ,シンジロウ
標題(和) 地域的な気候システムにおける地表面水文過程と水資源変動に関する研究
標題(洋)
報告番号 114163
報告番号 甲14163
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4289号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 沖,大幹
 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京大学 教授 鈴木,雅一
 東京大学 助教授 木村,吉郎
 東京大学 助教授 沼口,敦
 東京大学 教授 虫明,功臣
内容要旨

 水文・水資源工学の目的を一言で記述するならば「渇水・洪水の機構・原因の解明とその予測により被害を軽減し人類社会に資すること」であろう.

 従来の水文・水資源工学では渇水予測の基礎となる降水の長期的な性質に関して,定常状態を仮定した確率統計的な扱いがなされてきた.しかし,近年エルニーニョを始めとして気候は年々大きく変動または振動していることが常識となりつつあり,将来的には地球温暖化の可能性が高いことも指摘されている.このように気候システムに関する研究が進み,同時に人類が気候に影響を与えつつある現在では,これまでの手法に限界を感じざるを得ず,より物理的な予測が今後必要とされている.洪水予測の基礎としては,レーダ等を用いた数時間先を予測する短時間降雨予測に焦点が絞られてきた.しかしそれでは,数十年に渡る長期計画である社会基盤計画のために十分であるとはいえない.それ故,近年益々精度の高まっている数値気候モデルを用いて各々の地域の水循環を物理的に予測・再現することを試みることは今後必要不可欠な研究テーマである.

 数値気候モデルを地域の水資源予測に用いるにあたり,その中で地表面水文過程の果たす役割は最も注目されてしかるべきものの一つである.

 例えば,1993年7月北米を襲い大洪水を引き起こした大雨を数値モデルで再現するためには,地表面水文過程特に土壌水分の扱いが鍵であった,ということが報告されている.またアマゾンなどでは,大規模な森林伐採によって地域の気候・降水量が変化し得ることが数値実験の結果から指摘されている.これら印象度の高い例を持ち出さずとも,人間社会は陸上において営まれており,地表面水文過程を把握せずに陸上の正確な水資源予測をすることは不可能であることは明らかである.しかも,地表面水文過程およびその気候システムとの相互作用は複雑であるため,多くの解明すべき問題が残されている.

 つまり今後の地域的な水文・水資源予測のためには,

 ・物理的に水循環を再現する数値気候モデルの利用が望まれる.

 ・陸上の少雨・多雨が引き起こす渇水・洪水予測をより正確に行うためには,気候システムの中で地表面水文過程の果たす役割について深く慎重に検討する必要がある.

 ・対象地域ができるだけ細かく解像されることが望まれる.

 このためには,現在の計算機能力を考えると,地域気候モデルを用いた研究は有望である.もし将来,細かい解像度を持った全球モデルが一般的に利用可能な時代が来ても,現在地域気候モデルを用いて得られた知見は十分に役立つと考えられる.

 そこで本論文では

 ・数値気候モデルを地域の水資源予測に用いるにあたり,地域的な気候システムの中での地表面水文過程の果たす役割を解明すること.

 ・地域気候モデルを水資源計画に用いることが可能であることを示すこと.

 を目的とした.

 まず研究の第一段階として,地表面水文過程が気候システム,特に水循環に与える影響に関して過去の研究結果を整理し,

 (i)「土壌水分の役割」と「植生変化・森林伐採の影響」が重要なテーマである.

 (ii)この二つのテーマ共通の基本的な問題として「蒸発の増加が降水を増加させるのか,それとも顕然の増加が降水を増加させるのか」が存在する.

 (iii)もし土壌水分の湿潤化による蒸発の増加が,降水も増加させるのなら,

 土壌水分(蒸発)→降水→土壌水分

 というフィードバックが存在する.これによって土壌水分の偏差は数ヵ月のオーダーで持続することが過去の研究からは得られている.

 (iv)森林伐採が地域的な気候・水循環に及ぼす影響は,あまりはっきりとは分かっていない.数値実験のみが先行し観測データとの対応が取られていないことが原因の一つである.また,数値実験もアマゾンを対象としたものがほとんどである.

 という事項が認識された.

 これらの内ii)とiv)に関する問題を解決すべく,次に数値実験とデータ解析を行った.

 「気候システムにおける地表面水文過程の役割」の内で最も基本的な問題である「蒸発(潜熱)の増加が降水を増加させるのか,それとも顕熱の増加が降水を増加させるのか」は,土壌水分に注目すると「土壌水分の乾湿は降水の増減にどのような影響を与えるか」という命題となる.

 そこで,東アジア夏季を対象とした地域気候モデルにより,土壌水分と降水の関係に関して数値実験を行なった.土壌水分を飽和に固定したWet Run,乾燥状態に固定したDry Runによる降水を比較した結果,Wet Runの方が降水が多い領域AとDry Runの方が降水が多い領域Bが抽出された.この違いを調べるため,更に領域Bの地表面のみをWetにしたPW Runを試みた.水収支に注目したこれら数値実験の分析の結果,以下のような結論が得られた.

 ・一見したところ「蒸発の増加が降水を増加させた地域」と「顕熱の増加が降水を増加させた地域」の両方が得られたが,慎重に分析した結果「蒸発の増加が降水を増加させた地域」のみが本数値実験では得られた.

 ・「蒸発の増加が降水を増加させた地域」は8月に強い収束がある(Meiyuを示す)地域と対応していた.

 ・土壌水分はその地域での降水の増加減少とともに,水平方向水蒸気フラックスを通して,フラックスに関して下流域の降水量に大きな影響を与える.

 ・Dry RunとWet Runとの地上気圧差は,両Runの下層風(水蒸気フラックス)の差を作り出す方向性を持っていた.

 ・下流域へ与える影響はが1より大きいかどうかに依存する.(は,降水量の差(Wet Run-Dry Run)/蒸発量の差(Wet Run-Dry Run))

 ・であれば,降水の増加は単なる蒸発のリサイクル以上の意味を持つ.このとき,同等の量かそれ以下の量が戻ってくることを意味するリサイクルという表現ではなく,例えば,強いフィードバックなどと表現するべきである.本数値実験ではこの現象に境界層の相当温位の鉛直プロファイルが関係しており,である地域においてはDry RunとWet Runとでこの鉛直プロファイルが大きく異なる.

 本研究において土壌水分と並んで注目した「地表面からの蒸発(潜熱)・顕熱の変化を引き起こす原因」のあと一つは植生の変化である.植生の変化の中でも森林伐採は深刻な社会問題とされている.しかし,森林伐採が地域的な気候・水資源にどのような影響を与えるかは,今までのところそれほど明らかにはされていない.

 そこで「森林伐採が地域的な降水の増減ひいては水資源に与える影響はどのようであるか」を調べるため,東南アジアのタイを対象として40数年間の月降水量データを解析した.同時に流量データについても調べた.タイは東北部を中心として大規模な森林伐採が行われてきており,かつ長期の降水量データが存在する.それ故大規模森林伐採の影響を検知できる可能性があった.データ解析により以下の結果が得られた.

 ・タイ全土において,雨季の最盛期である9月に降水量の大きな長期減少傾向が見られる.その程度はこの50年で約50-100(mm/month)である.一方,8月には―9月と同様に雨季の最盛期であるが-この傾向は見られない.

 ・降水量の年々の偏差の大きさは昔も現在もそれほど変わらず,森林伐採の影響は見られない.

 ・流量および流出率に関しては,降水量こそが支配条件である.最近の年流量の減少傾向は年降水量の減少傾向と対応している.

 ・1960年頃と最近とでは,同じ年降水量(流量)条件であれば年流出率は森林伐採の影響を検出できるほど大きくは変化していない.

 ・東南アジアモンスーンによる強い大気下層西風は,インドシナ半島では9月には弱まっており,同じ雨季の最盛期であっても,8月と9月ではインドシナ半島の気候的な場は大きく異なる.そして,9月の方がより地表面過程の影響が大きいと考えられる場である.

 この中で最も森林伐採の影響が顕れていると思われる現象に注目し,

 8月は大気下層ではモンスーン西風が強いが,9月になると強いモンスーン西風の影響はタイの平野部には及んでいない.降水の季節としては9月はモンスーンの最盛期であるが,風の季節としてはモンスーンが終了しつつある時期である.そのため地表面水文過程は9月の降水の生成に重要な役割を果たしている可能性が高く,ここ数十年の大規模森林伐採が原因となって9月の降水量減少傾向が生じたと考えられる.

 という仮説を立てた.このとき8月と9月とにおいて,インドシナ半島の収束・発散などの気候場(P-Eの正負やオーダー)が異なっているかどうか調べたが,大きな相違は検知できなかった.

 上記仮説の真偽を確かめるため,地域気候モデルを用い,タイ東北部を草地であるとした数値実験(CN)および森林であるとした数値実験(AF)を行いCN-AFに関して議論した.CN-AFは現在と過去の引き算に相当し,その値がプラスであれば増加した,マイナスであれば減少したという表現を用いる.数値実験より以下のような結果が得られた.

 ・タイにおける月単位程度の降水量の再現性は妥当であった.

 ・8月は森林伐採域内に降水量の増加した領域もあれば減少した領域もあった.森林伐採域の西半分が減少領域,東側が増加領域であった.この原因は,地表付近の西風がCNにおいてAFよりも強化されたことにより,大気下層の水蒸気が西から東へと輸送されたことである.この西風強化は森林伐採域の粗度の減少による.

 ・8月の森林伐採域全体に関しては,鉛直一次元的な「蒸発量と降水量の関係」および「顕熱と降水量の関係」は存在しなかった.つまり降水変化の原因としては蒸発の増減ではなく水蒸気移流の効果の方が支配的である.ただし、さらに小さな領域毎においてはこれらの関係が見られる場合もある.

 ・9月は森林伐採域内において蒸発量・降水量ともに減少している.ただし降水の減少量は蒸発の減少量より大きい.水蒸気の移流による大きな効果は特に見られず,蒸発量の減少,あるいはそれに付随する地表面熱収支変化が原因となって降水量の減少を引き起こしていると考えられる.

 ・9月の降水量の減少量は森林伐採域平均で30(mm/month),減少量の大きなところで60(mm/month)程度であった.

 ・9月は蒸発量の減少と降水量の減少は対応しているが,顕熱は降水量の増減との直接的な対応ははっきりとは見てとれなかった.

 結論として,9月の降水量の減少傾向を数値実験によって再現することができ,上記仮説がほぼ妥当であることが確かめられた.故に,タイにおける水資源計画のために気候モデルを利用することは充分有用であるといえる.

 また,地表面過程と降水に関する分析を行う際には,季節の違い・気候学的な大規模場の違いによって,機構も結論も変化することが示された.本研究では,8月は大気下層における水平二次元的な構造が重要であり,一方9月は地表面からの蒸発と大気との鉛直一次元的な関係が重要であった.つまり例えば,「A地域の熱帯林の伐採は顕熱の増加により降水を増加させる」というような内容は月単位でも変化する可能性があるため季節変化を無視して断言するのは危険である.加えて、タイにおいて森林伐採が降水にすでに変化を与えている事実を発見(データ解析による仮説→数値実験による裏付け)したことは,アジアの環境問題において大きな意味を持つと考える.また,大規模に森林が伐採された地域において降水の変化が生じたという事実は,これまで検知されていなかったが、本研究における観測値の分析と数値気候モデルによる数値実験により初めてその事実関係が示された.

 以上,本論文によって,地域的な気候システムにおいて地表面水文過程が降水に及ぼす影響の数々が解明されるとともに,水資源計画に地域気候モデルを用いることの有用性が示された.

審査要旨

 『地域的な気候システムにおける地表面水文過程と水資源変動に関する研究』と題されたこの論文は、特に地表面土壌水分の多少と地表面植生の変化が地域スケールの気候形成にどのように影響を持っているかについて数値実験ならびに観測データに基づいて論じたものである。

 当該論文の最初では、地表面水文過程が大気循環・気候システムに及ぼす影響を考える基礎となる地表面でのエネルギーならびに水収支に関する定式化、そして植生を含んだそのモデル化に関する系統的なレビューがなされている。その中で、特に、土壌水分の多少がその領域の降水量の増減とどのように関わっているのかという点と、さらには可視光反射率(アルベド)や地表面の空気力学的粗度の変化がその領域の地表面温度や降水量などにどのような変化をもたらすかという点に注目し、既存の研究の整理と問題点の抽出を行っている。

 土壌水分は、海洋における海面水温と同じように大気に対する陸上の境界条件として重要な意味を持つことが近年強く認識される様になってきている。その大きなきっかけとなったのは1993年夏の北米中部、ミシシッピ川における洪水である。すなわち、この洪水をもたらした継続的な豪雨は、その直前の冬以来の土壌水分の正偏差がその大きな要因となっており、こうした土壌水分分布を的確に考慮することなしには豪雨の再現シミュレーションがうまくいかないことも示されている。しかし、一方で、土壌水分が少い時の方が地表面温度が上昇して対流性豪雨が生起しやすくなり、結果として降水量が増えるという研究結果もあり、土壌水分の多少と降水量との関係についてさらなる研究とメカニズムに関する整理された理解が必要であることが述べられている。

 一方、アルベドや空気力学的粗度の減少は、現実社会の現象としては、森林域を伐採して耕地などに変換することに対応している。これに関しては、アフリカサヘルの干魃と地表面改変との関係、今後懸念されている南米アマゾン流域における森林伐採とそこでの降水量の増減などに関して研究が行われてきている。それらでは、森林伐採に付帯して蒸発量が減少することに関しては概ね一致した研究結果が得られているものの、降水量の増減に関しては必ずしも減少するとは限られておらず、また、アジア域を対象とした体系的な研究は全くなされていなかった。

 これらを受けて、当該論文では、地表面水文過程とその領域の気候システムとの関係を、数値的な領域気候モデルを用いて調べた。まず、東アジア夏季を対象とした数値実験を行って、土壌水分の多少が降水量変化に及ぼす影響が調べられた。従来の様に、対象領域全面を湿潤/乾燥とした場合に加え、両者の比較から全面乾燥状態の場合の方が降水量が多かった領域のみをさらに湿潤状態にした場合の計算を行い、次の結論を得た。すなわち、基本的には湿潤状態になると蒸発が増加して降水の増加をもたらすが、二次元的な水蒸気移動輸送量も変化するので、風上側領域における降水量の蒸発量(土壌水分)変化に対する鋭敏性に依存する面もあることが新たに明らかとなった。

 一方、森林伐採が地域的な降水の増減に及ぼす影響については、既に広範囲で森林伐採が行われたと考えられるインドシナ半島タイにおいて、観測データに基づいた実証的検討がまず行われた。その結果、雨季の中で9月の降水量のみがタイ全土においてここ40年位で長期的に減少していることが発見された。8月の降水量にはそうした傾向は見られず、これは8月の降水量が広域循環である夏の南西アジアモンスーンに大きく支配されているのに対し、9月はモンスーンの影響が弱まり、領域内での水の再循環過程の占める割合が大きくなって領域内での地表面過程の影響が相対的に強くなっているためではないかと推定された。これに対して森林伐採前と現在の地表面条件を想定した領域数値気候モデルによるシミュレーション結果が実施された。8月と9月の現状の降水量分布は妥当に再現され、森林伐採前に比べて現状では9月の降水量が伐採域全体で減少することも表現されて観測データに基づく推定が裏付けられた。

 従来、地表面水文過程が領域の気候形成に及ぼす影響に関する研究は感度実験が主であり、本論文の様に観測データと結び付けられた例は極めて少なく、本論文の成果は画期的かつ貴重である。また、地表面改変の影響だと思われる長期的降水変動を捉えたこと自体にも非常に大きな学術的意義がある。本論文で対象とされた東アジア、インドシナ半島とも日本とは異なって半乾燥域であり、流量の変動は雨量の変化に対して極めて鋭敏である。そのため、こうした地域では降雨量変動予測が水資源変動を予測し対策を立てる上で非常に重要となるが、本論文で用いられた地域気候モデルによる数値的シミュレーションはそうした長期の降雨量変動予測へとつながる先駆的な研究である。土壌水分変動や植生変化などに伴う地表面水文過程が大気循環に及ぼす影響評価を明らかにした本研究は、その完成度も高く、予測精度向上に大いに資するものと考えられその水資源工学的意義が極めて高い。また、今後の研究の発展も大いに期待される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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