この論文は、韓国の近代における建築をめぐって展開された建築観を考察しようとするものである。本論文の構成は、2部6章となっている。第1部は朝鮮王朝末期と大韓帝国時代を、第2部は1920年代から1940年代までを、研究対象時期としている。各々の章は、その時期に行われた議論を考察している。以下では、本論文の内容を章別にまとめておくことにする。 まず、序論においては1960年代半ば頃から展開されてきた韓国近代建築史の研究史を検討し、本論文の観点を説明した。 第1章は、開化派の都市観を対象とした。まず、イサベラ・バード・ビショブやハルバートなど19世紀末に韓国を訪れた外国人の印象記から、この時期にソウルで行われた都市改造事業の様子を確認し、その都市改造事業の理論的源流として金玉均の「治道略論」及び「治道規則」を取り上げた。「治道略論」及び「治道規則」の内容は、道路の糞を片づけることが国家の経営まで繋がっているものであり、治道には、公用便所、巡検、人力車、仮家、戸口、燃料などの問題が含まれていた。続いて「治道略論」及び「治道規則」がもたらした影響としては、朴泳孝の道路整備作業、大韓帝国時代での治道局の設置と首道改造事業、『独立新聞』で見られている公衆湯・公衆便所の設置主張、人力車の補給のきっかけなどの4つのことが考えられるが、朴泳孝の道路整備作業が一番、直接な連結関係をもっていた。それで、1883年の漢城府判尹としての活動、1888年の「朝鮮国内政改革に関する朴泳孝建白書」、1895年の「内務衙門訓示」、1922年の談話を中心として、朴泳孝の都市観・建築観を考察した。朴泳孝のそれは、1880年代初の「治道略論」及び「治道略則」から影響を受け、1920年代まで持続されていたといえるし、その間、朴泳孝は、権力のポストに出る機会があれば、その都市観を積極的に実践しようとしていたと見られる。開化派の都市観が、実学派、特に北学派のそれとどのような関連を持っているかについては人脈的な連結と内容的な連結という観点から考察した。それで、北学派と開化派の連結が朴珪寿によって行われたことと、北学派の理論書の糞、道路、橋梁、車、仮家などの項目から、北学派の都市観が開化派の都市観と類似性を持っていることを確認した。そこで、19世紀末のソウルで行われた一連の都市改造事業の様子と、開化派の都市観と、そして実学派の都市観とは、連結関係にあることが明らかになった。 第2章は、假家を対象とした。假家とは、朝鮮王朝時代と大韓帝国時代の記録の中で、よく登場されているが、その実際がそれ程明確されていない建築用語である。まず、『朝鮮王朝実録』に登場している假家の用例を内容別に分類した。それで、假家の用度が貧民救済用および庶民の住居、辺境の軍事用、宮闕などの警戒用、外交用、行事用、移御用および倉庫、葬礼用、山陵関係などのように多様であったことが分かった。しかしながら、『朝鮮王朝実録』には大都市の大路辺の商店としての假家は登場していないので、別の資料の検討が必要になった。その資料とは、假家を当たり前のものと見ていない外国人の記録や、絵画・写真類、假家に関する法令である。外国人の記録では、ソウルの3つの主要道路辺に假家が登場されていた。また、絵画に現れた假家は、朝鮮後期の開城と平壌に存在していたものであるが、ソウルの假家の様子を連想させるところがあり、写真類に現れた假家は、鐘路と南大門路の両側に並んでいた草家の商店などである。そして、法令に登場する假家は、假家の陽性化に際してその基準を定めたものである。その基準とは陽性化のためのことであるので、その以前の假家はその基準以下のものと考えられる。以後、假家は大韓帝国の没落と共にその敷地が家屋などの他の用度に転用された。ソウルのこの假家は、朝鮮時代末期と20世紀を繋がることでその歴史的な位置があろうと思われる。 第3章では、韓国の開化の方向を示す理論書として、かなり注目されてきた兪吉濬の『西遊見聞』(1895)に現れている建築観と都市観を考察した。考察に際して、『西遊見聞』が大きな影響を受けたと言われている福沢諭吉の『西洋事情』に現れている建築観と都市観との差異についても意識していた。『西遊見聞』の建築観には私的なレヴェルでの立場と公的なレヴェルでの立場との差が存在していた。つまり、兪吉濬は私的なレヴェルでの住居の導入には消極的な立場であったに対して、公的なレヴェルででの公共施設の導入には積極的な立場であった。『西遊見聞』の都市観については、「政府の職分」、「城市の排舗」、「各国大都会の景像」の3つのことを考察した。大きな枠では福沢諭吉のそれを殆ど真似していたといえる「政府の職分」の中では、「養生する規則」が開化派の思想を継承しながら自分の経験に基づいて説明をしている部分であった。『西洋事情』には登場されていない「城市の排舗」にも、兪吉濬の体験が展開されていた。また、政府あるいは全体としての役割についても言及しているが、中央政府の役割は相対的に地味なことになったいた。「各国大都会の景像」では、欧米の8ヶ国37ヶ都市について記されているが、アメリカのように政治的な独立を果たした国以外には自分の感情が露出されていない。『西遊見聞』の建築観及び都市観の大きな特徴は、欧米の建築と都市を積極的に受け入れようとはしていないことにあろうし、これは初期開化派が都市改造へ興味を持っていたことに比べて大きな差であろうと思われる。 第4章は、民家や住宅研究の流れと住宅改良論を対象とした。1920年代からの住宅改良論は、1930年代前後からの都市型韓屋、1940年代からの営団住宅と共に植民地時代の韓国における住宅史の展開の大きな流れの一つである。植民地韓国における民家や住宅の研究は、日本のそれとほぼ同時進行の形で、民俗学をはじめ、地理学、生活学あるいは経済学、そして「朝鮮建築会」の発足と伴う建築学の立場などから出発していた。前記の三つの立場は、1920年代から総督府が要求していた統治の基礎資料を提供するためのことであった。残りの建築学の立場は、住宅改良という現実の問題と深く関連があった。韓国人の住宅改良論の背景には1920年代から展開されていた実力養成論・文化運動などがあるが、彼らの主張は幅広いものでった。それと同時に1920年代から登場しはじめた韓国人建築家たちも自分たちの現実の問題について発言していた。彼らの理想とする住様式が欧米式か和風か折衷式かという差はあるものの、当時代の韓国住宅は改良を迫れていたのである。それで、1930年代を前後にして韓国住宅の平面は変化していた。しかしながら、1920年代の住宅改良論と1940年代の住宅改良論には、差があるように思われる。その差韓国人最初の建築家朴吉龍の書き物に端的に現れていた。朴吉龍は伝統に対する自分の認識の変化を示していて、1930年代後半には韓国文化の消化力(古有性)を否定する立場に変貌していた。 第5章では、朴吉龍の科学運動と住宅改良論を検討した。朴吉龍は、1920年代から発明学会に深く関係して、1930年代の科学運動の目標である「生活の科学化」を持論としており、また、その「生活の科学化」を伝播する理論家としても活躍していた。朴吉龍の住宅改良論は、「住宅は生活の容器である」という言葉に集約される。そのため、住宅改善より生活改善をまず展開すべきであり、その基本は「科学化・能率化」であった。その考えは、かなり一貫していたと見られる。住宅改良論の実際において、朴吉龍は台所の改善と温突の改良に専念していたが、彼の住宅改善案は徐々にその基準なる平面が朝鮮様式から和風へと変化していた。朴吉龍の科学運動と住宅改良論は、その基幹なる考えで共通しているように思われる。それで、朴吉龍を「芸術家--建築家」として捉えた方よりは「科学者--発明家」として捉えた方が、彼の活動をもっと自然に説明してくれるので、今までの建築家・朴吉龍の象は補完する必要があろうと思われる。 第6章では、高裕燮の建築研究と韓国文化の特徴の探求について考察した。東アジア三国の代表的な建築史通史には、自国建築の特徴を規定する現象が共通的に現れており、その中で韓国建築史の特徴として取り上げられている「マッ」と「モォッ」という概念は高裕燮が韓国美術の特徴として規定したことである。その特徴の規定まで至る高裕燮の道程に関しては、高裕燮の建築史研究と朝鮮文化への認識の変化を中心に検討した。高裕燮の建築史研究は、石塔の研究と韓国建築通史の著述、ヨーロッパ近代建築の紹介で構成されていた。統一新羅時代を頂点と見ていた高裕燮の一元論的な歴史観は、建築史の研究、特に石塔の研究によるものであり、それに芸術社会学の影響から得られた観点が加えられたと見られる。そして、朝鮮文化への高裕燮の認識に変化が現れたことと、その変化が柳宗悦の影響によるものの、その影響を受け入れるようになった動機はすでに高裕燮の中に内在していたことを検討した。韓国美の特性に対する高裕燮の探求は、彼の弟子を媒介にして1960-70年代の金寿根の建築に反映されているともいわれている。 以上の個別論議から分かるように韓国の近代における建築観は、多様に展開されていた。本論文で考察した6つの個別論議が、韓国の近代における建築観の全てであると主張するつもりではないが、資料の面からみて重要な地点での論議は一応そろえたと思われる。個別の点として展開されたこの一連の論議を線として連結することが許されるならば、韓国の近代における建築観は、近代の展開と共に都市のレヴェルから住宅のレヴェルへと浸透してきたと要約することができる。また、20世紀になってから、都市に対する論議が少なくなったのは、政治的な権力の喪失によるものであり、住宅への論議が1920年代になってから盛んになったのは、その時期の新しい都市ブルジョアの成長とも関連があるものだと思われる。そして、この一連の議論は、朝鮮王朝末期及び大韓帝国時代と1920-40年代、もっと具体的にいえば、19世紀末と1930年代をそれぞれ前後にして起きたことを指摘することができる。その2つの時期は、韓国近代建築史上のエポックとして意味をもていることを結論として提起しておきたい。 |