学位論文要旨



No 114195
著者(漢字) 江口,郁子
著者(英字)
著者(カナ) エグチ,イクコ
標題(和) 診療支援のための診療行動の理解・情報提示システムに関する研究
標題(洋)
報告番号 114195
報告番号 甲14195
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4321号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 畑村,洋太郎
 東京大学 教授 井上,博允
 東京大学 教授 土肥,健純
 東京大学 助教授 中須賀,真一
内容要旨 1緒論

 本論文の目的は、医師の診療行動を理解し提示内容・タイミング判断を行ない、経過観察に必要な情報を診療中に自動提示するシステムを実現することにある。

 本研究の特徴は、1)診療行動の自由度・多様性への対処方法を示し、その対処方法に基づいた行動表現方法を実現する点、2)診療行動をありのままに診療中にオンライン理解し、医師の行動に対して実時間でフィードバックをかけ、提示を行なう処理を実現する点、3)診療行動理解が医師の行動記録を自動作成する支援につながる重要な観点であることを指摘し、行動記録の自動作成と蓄積、その提示による利用を一貫して行なうシステムを示す点にある。

 本論文では、耳鼻咽喉科診療の実際の診療データを収集し、診療の構造、人間行動としての特徴について分析を行ない、分析結果をもとに、診療行動を理解するための診療行動表現を作成し、その行動表現の特徴、一般性について考察する。そして、診療行動を視覚・音声を用いて観察・記述し計算機入力する処理、作成した診療行動表現を用いて医師の診療行動を実時間理解する処理、理解結果をもとに提示内容・タイミングを判断し、診療場面に合わせて経過観察に必要な患者情報を提示する処理を実現し、理解・提示システムとして実験室の疑似診療環境において統合を行なう。また、実際の診療データをもとにシステムが動作することを示す。

2診療行動理解に基づいた情報提示支援システム

 耳鼻咽喉科のように患部をみて直接アプローチすることが診療方法の原則となる診療科では、患部へのアプローチの最中に患部画像、行為実行歴、検査結果などを閲覧することが経過観察に最も効果的である。しかし、紙のカルテや現状の電子カルテシステムでは、患部ヘアプローチ中に患者情報を検索・閲覧する手段を衛生的な理由から提供できていない。本論文では、医師が患部ヘアプローチする最中に、患者情報を閲覧可能なように提示してサポートする支援を情報提示支援と呼ぶことにする。このとき、支援システムが診療状況を理解し、提示内容・タイミングを判断し必要な患者情報を自動提示することができれば、医師が明示的にシステムに指示する繁雑さは低減され、患者とのコミュニケーションに精力を傾けることができると期待される。

 本論文では、前述した支援の重要性、支援方法の考え方をふまえ、医師の診療行動を理解し、提示内容・タイミング判断を行ない必要な情報を診療中に自動提示するシステムを診療行動の理解・提示システムと呼び、その実現を目指す。ただし、診療行動理解が医師の行動記録を自動作成する支援につながる重要な観点であること、および作成した記録が提示情報として利用可能であることから、診療行動の理解・支援・蓄積を一貫して行なうことを可能とするシステムとして処理を実現する。

3診療分析による理解モデルの作成

 医師の診療行動を実時間理解し支援を行なうための診療行動表現を診療分析を通して作成する。

3.1データの収集と分析

 本論文では、一般病院での70例の耳鼻咽喉科の診療データを収集し、その分析を行なった。その結果、処置や検査・投薬などの治療行為だけでなく、問診における医師の発話内容が患者の症訴から推定された病名に基づいていることがわかった。また、ある行為が実行済みであることを条件に行為が実行されるという行為間の実行順序の依存関係や、同じ病名の診療であっても行為が実行される場合とされない場合があるという行為の適用条件について確認した。

 これらの分析を通して、病名に基づいた行為コンポーネントが存在すること、行為の実行順序・適用性の規則性が明らかとなった。

3.2診療行動構造記述木の作成

 分析結果をもとに、行為コンポーネントに病名を最上位目標とした目標・手段の階層と順序性・適用性の関係を付与した表現として診療行動構造記述木を作成した。具体的には、代表的な診療例として耳の14病名について記述木を作成した。一例として図1に滲出性中耳炎の記述木を示す。診療行動構造記述木は病名をもとに診療行動の多様性を整理したこと、行為をもとに診療の進行、医師の意図が表現されている点に特徴がある。

図1:滲出性中耳炎診療についての記述木

 また、作成した記述木は特定の場所で特定の医師によって行なわれる診療行動の表現となっている。そのため、他の診療現場での診療データの収集と分析を通して記述木を作成し比較を行なった。その結果、階層、順序性・適用性についての記述木の構造は異るが、病名に基づいた行為コンポーネントが2病院でほぼ共通であることがわかった。これによって、診療行動構造記述木の行為コンポーネントと行為同士の関係を記述する方法の再利用可能性が示された。具体的には、診療現場での機器や道具の配置などの場の資源や、医師個人のフィロソフィーに基づいて、記述木の要素を組みかえることによって各現場固有の診療行動を表現することができる。

4疑似診療環境での理解・提示システムの構築

 実験室に実際の診療現場で使用される診療台、道具を設置した疑似診療環境において、作成した14病名の記述木を用いた理解・提示システムを構築した。以下にシステムの内容を示す。

4.1診療行為シンボル化処理の実現

 本論文では、診療台を真上からCCDカメラを用いて計測し、耳鼻科診療で行う診療台上の器具・薬などの道具を用いた患者の身体に接触する13パターンの行為をシンボル化する処理を実現した。これらの行為は医師による道具の使用を認識することでシンボル化可能である。図2に視覚処理によるシンボル化の一例を示す。図左では画面内の357点のオプティカルフロー演算結果をもとに小さい○で示す手の領域と大きい○で示す手の静止位置を検出し、図右に示す使用道具認識プロセスへ報告した。このプロセスでは画面内の16個の道具近傍画像のテンプレートマッチングによる相関値の時間変化と、手の静止位置報告結果の双方を統合し、□で示す「のどを直視する器具(ThroatMirror)を握った(Grip)」ことを認識し、「のどの直視行為」のシンボルを作成した。

図2:のどを直視するための器具の使用の認識(左)手の位置検出と報告、(右)道具の使用の認識

 また、問診、処置、検査および投薬の指示を示す医師の発話中の単語を、音声によるシンボル化対象とし、医師の発話から単語を抽出する処理を実現した。具体的には、ヘッドウォンマイクを用いて医師の発話を計測し、日本語連続発話を対象とした市販の音声認識エンジンを用い、医師の発話をディクテーションし、得られた文からシンボルマッチングによって単語を抽出し、シンボルを作成した。

4.2診療行動理解・提示処理の実現

 本論文では、理解・支援・行動記録の蓄積の一貫システムの実現のために、診療行動構造記述木を、理解処理を駆動する知識表現としてだけではなく、医師の行動記録を貯めるためのデータ構造として用いる。具体的には、記述木を雛型としてインスタンシエートするデータシートと呼ぶデータ構造へ行為シンボルおよび目標の成立を書き込み、行為シンボルと行動モデルとのマッチングを行なう。そして書き込みの成否によって候補のデータシートを絞り込み、医師の病名推定を追跡する。どの病名が候補であるか、およびデータシート上でどの目標が成立しているかによって診療状況が把握可能である。また、診療終了後に書き込みのなされたデータシートを保存することで、診療での行為の実行、目標の成立が書き込まれ、病名に基づいて構造化された1回分の診療での医師の行動記録を得ることができる。

 また、提示処理は理解結果としてのデータシートの書き込みを解釈することで、診療状況を病名と行為の関係、目標の成立から把握し、医師の提示ニーズの発生、提示すべき内容の判断が可能である。本論文では、個々のデータシートをもとに、提示内容・タイミングを読みとり、複数病名間の関連を解釈し、病名に共通の病態や症状に対応した提示命令の出力を行なう方法で、診療場面に合わせて患者情報の提示を行なう提示処理を実現した。

5理解・提示実験

 構築した理解・提示システムを用いて、被験者による診療試演を入力とした実験、実際の診療データをもとに被験者が診療の内容・タイミングまでも再現した診療再現を入力とした実験、診療現場の実映像をシステム入力として用いた実験を行なった。図3に実験の状況を示す。4分割されたビデオ画面の右上には再現の様子、左上にはシンボル化処理、左下には理解処理の書き込み状況を示すGUI、右下には提示支援画面が示されている。

図3:理解・提示実験状況

 これらの実験の結果、システムが実際の診療データをもとに動作可能であることを確認した。具体的には、診療試演実験では作成したシステムがノイズやセンサの時間的ゆらぎのある実世界にあっても14病名の診療を分離理解し、提示が可能であることがわかった。診療再現実験では、実際の医師の診療行動の内容・タイミングに則してシステムが動作可能であることを確認した。また、実診療画像を用いた実験では、診療現場での医師の実際の診療行動に則してシステムが動作可能であることを確認した。以上のことより、作成したシステムの実用可能性が示されたといえる。

6結論

 本論文では、一般病院での70例の耳鼻咽喉科の診療の分析を通して、診療行動の多様性を、病名に基づいたコンポーネントと規則性を用いて記述可能であることを明らかにした。具体的には、病名を最上位目標とした目標・手段の階層と順序性・適用性の関係を付与した表現により、診療行動構造記述木を作成して示した。そして、他の病院での診療の分析と記述木の作成を通して2つの診療現場の記述木を比較し、記述木の階層、順序性・適用性についての構造は現場によって異なるが、病名に基づいたコンポーネントや関係の記述法が再利用可能であることを明らかにした。本記述木の要素を組みかえることによってさまざまな診療を記述できるといえる。

 さらに本論文では作成した記述木を用いて実験室の疑似診療環境で理解・提示システムを構築した。そして、システムが実際の診療データをもとに動作することを実験を通して確認した。具体的には、実現した視覚および音声を用いたシンボル化処理が実世界で動作することがわかった。そして、行為シンボルと病名を核としたモデルとのマッチングによる病名しぼり込み方法が、医師の病名推定の追跡ならびに診療行動の理解手法として有効であることがわかった。さらに、記述木の目標の階層をもとに、時系列での医師の意図の発生と終了を読み取って、提示内容・タイミングを判断する方法が有効に動作することを明らかにした。また、記述木を用いた診療行動記録作成および蓄積についての可能性についても示された。

審査要旨

 本論文では、診療行動理解による行動記録の自動作成と蓄積、その提示による利用を一貫して行なうシステムを示した。システムは診療中の医師が患者に対して実施する問診・治療・検査や、これらを実施する背景にある医師の意図や診療状況を実時間理解し、必要と推察される患者情報をモニタに表示し医師に対して自動的に提示を行なう。このとき、理解結果を自動作成された行動記録として保存し、それを提示情報として提示支援に利用することが可能である。

 このように、医師の行動理解によって提示内容・タイミングを判断し自動提示することができれば、大画面に全情報を表示して必要な情報を捜し出したり、医師が明示的に提示を指示する繁雑さは低減され、患者とのコミュニケーションに精力を傾けること可能となることが期待される。また、理解結果をもとに行動記録を自動的に作成することによって、診療終了後に医師が自身の行動を反芻して記録する現状の方法において発生する記録忘れや誤記録の頻度が減少し、医療情報の質が向上することが予想される。

 本論文ではシステム実現のために具体的には、診療行動の自由度・多様性への対処方法を示し、その対処方法に基づいた理解・提示・蓄積のための行動表現方法として診療行動構造記述木を実現した。そして、その行動表現に基づいて医師の診療行動の理解と理解結果に基づいた提示を行なうシステムを実験室の疑似診療環境において構築した。論文中では、この診療行動の理解・提示システムについて、各章に以下の記述がなされている。

 1章「序論」では、本研究の背景として、医療の質的向上の手段として、医療情報の利用の観点から診療中の医師を支援することが重要であるという課題を述べた。そして、支援システムの実現を本研究の目的として位置付けた。

 2章「診療行動と診療支援」では、診療の実例に基づいて経過観察サポートとしての情報提示支援の必要性が論じられている。

 3章「診療行動理解を用いた情報提示支援」では、耳鼻咽喉科診療での情報提示支援の重要性と支援実現方法が論じられ、行動理解を用いた提示内容・タイミング判断の必然性が示され、診療行動理解に基づく提示システムが提案されている。

 4章「診療行動の理解・情報提示システム」では、行動理解が医師の行動記録を自動作成し蓄積する支援につながる重要な観点であり、自動作成され蓄積された行動記録が提示支援に利用可能であることから、診療行動理解に基づく提示システムを、理解・提示・蓄積を一貫して行なうことが可能な形態で実現することが提案され、システム構成が説明されている。

 5章「診療分析とモデル化」では、理解・提示・蓄積を一貫して行なうシステムを実現するための診療行動モデルが示されている。具体的には、実際の診療現場でのデータ収集を通して、診療行動を病名に基づいた行為コンポーネントとそれらの順序性・適用性の規則性から整理し、病名を最上位目標とした目標・手段の階層表現としての診療行動構造記述木が、代表的な耳の14病名を例に作成され提案されている。さらに各診療現場固有の記述木を構成する方法についても考察がなされている。

 6章「診療行動構造記述木を用いた理解・提示」では、診療行動構造記述木を用いた理解・提示の考え方をとして、記述木を医師の診療行動のデータを蓄えることのできるデータシートとして用い、それに行為シンボル入力とそれによる目標の成立を書き込み、書き込みを解釈することで診療の進行を把握し、提示内容・タイミングを判断する理解・提示処理が示されている。具体的には、理解と提示は、データシートと診療開始からの全行為シンボルとのテンプレートマッチング、マッチしたデータシートをもとにした意味ネットワークの探索、の2段階の処理によって実現されている。

 7章「システムの構築」では、実験室に構築した疑似診療環境において構築する14病名の記述木を用いた理解・提示システムのハードウェア、ソフトウェア構成が述べられている。

 8章「診療行為シンボル化処理」では、道具の使用を視覚を用いてシンボル化する処理と、医師の発話中のキーワードをスポッティング認識する処理が示されている。

 9章「理解処理」、10章「提示処理」では、それぞれ理解処理、提示処理の具体的インプリメント方法と実現したアルゴリズムが示されている。また、それぞれオフラインシミュレーション実験を通して、理解処理、提示処理の動作が確認されている。

 11章「理解・提示実験」では、構築されたシステムを診療行動へ適用し、システムの動作を確認し、その有効性を実際の診療データをもとに検証した。

 12章「結論」では、理解・提示・蓄積の一貫システムを実現するための行動表現としての診療行動構造記述木と、その行動表現に基づいて理解・提示システムとして実現した処理メカニズムを本研究で得られた知見として位置づけ、結論した。また、研究の今後の展開の可能性として、診療行動構造記述木の計算機による自動作成、診療中の音声・画像情報などを自動的に取り込むマルチメディア診療行動記録の蓄積について述べた。

 以上に議論したとおり、本論文で得られた理解・提示・蓄積の一貫システムを実現するための診療行動表現、および処理メカニズムに関する知見は、診療支援という社会的ニーズを満たすためのシステム設計の一つの方向性を示した点で、機械工学に貢献するものである。よって本論文は東京大学院工学系研究科機械工学専攻における博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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