1.序 現在、テラヘルツ光源の開発などの応用面や、テラヘルツ領域における超高速電子物性などの物理的興味の双方において、半導体中のコヒーレント過渡応答の研究が活発に行われている。これは物理的には、(1)半導体中のコヒーレント領域は本質的に解き明かされていない部分が多く、この領域の研究により、半導体中のもっとも基礎的な量子力学的過程を知ることができる、(2)コヒーレント過渡応答を調べることにより、半導体中の様々な散乱過程や散乱レートを解明することができる、という点で非常に重要である。 本研究では、将来の半導体量子構造によるテラヘルツ光源の探索を念頭に置き、それらのテラヘルツ領域における電子物性をフェムト秒領域の時間分解能で測定・評価することを目的とする。特に、半導体量子構造における量子ビートや2次元プラズモンに注目して、それらのダイナミクスをテラヘルツ電磁波という形で実時間で測定し、量子構造中に生じる超高速現象の励起・緩和過程について考察した。具体的には、最初に超高速現象を実時間で観測するための測定系の構築を行い、次にこれを用いて、量子構造における超高速現象(非対称結合2重量子井戸における量子ビート、ドープした単一量子井戸における2次元プラズマ振動)の評価を行った。 本論文は、5つの章から成っており、第1章は、序論として本研究の背景及び目的について述べる。第2章では、テラヘルツ領域での時間分解分光測定を実現するために必要となる極短寿命光伝導マイクロダイポールアンテナについて述べる。最初に、極短寿命光伝導材料について、必要となる特性及びその作製方法を述べる。光励起キャリア寿命を評価するための測定系について述べ、行なった評価に対する考察を行なう。次に、この極短寿命光伝導材料をフォトコンダクタとして用いた光伝導マイクロダイポールアンテナからのテラヘルツ電磁波の発生・検出法について述べる。マイクロダイポールアンテナからのテラヘルツ電磁波の発生・検出動作の原理を述べ、テラヘルツ電磁波の発生・検出を実際に行なうための測定系について言及する。更に、種々のアンテナ長を持つアンテナからの放射特性について述べる。第3章、第4章では、第2章で構築した測定系を用いて、量子構造中に起こる超高速現象の観測とその励起・緩和メカニズムについて考察する。第3章では、ノンドープの非対称結合2重量子井戸を取り上げ、量子ビートと呼ばれる2つの量子井戸の準位の共鳴により起こる現象について議論する。観測結果から、量子ビートによるテラヘルツ放射において、励起子効果が重要な役割を果たしていることを述べる。また、緩和時間の温度依存性から、量子ビートの緩和過程について検討する。第4章ではドープした単一量子井戸中2次元電子プラズモンという集団励起について、その励起・緩和機構に関し得られた知見を述べる。レーザパルスで励起することにより、非平衡な2次元プラズモンから放射されるテラヘルツ電磁波を観測した。励起レーザの波長により、異なる励起機構で2次元プラズモン放射が生じることを初めて見出した。励起パワー依存性などの結果から、励起エネルギーがフェルミ準位よりも小さいときは、ラマン過程により2次元プラズモンが励起され、一方、フェルミ準位より大きいときは、電流サージ及び熱励起によりプラズモン放射が起こることがわかった。また、プラズモンの緩和では、電気伝導測定との比較により、全散乱事象がプラズモン緩和に寄与する散乱過程が大きな寄与を果たしていることを述べる。第5章では本論文の結論を述べる。 以下、本稿では論文の主要部分である第2章から第4章までの要旨を記す。 2.極短寿命光伝導材料を用いた光伝導マイクロダイポールアンテナの作製・評価 従来、テラヘルツ電磁波、すなわち遠赤外光の分光測定においては、ボロメータや半導体中の不純物光伝導を用いた検出器を用いて行われてきたが、これらは信号をパワーとして観測している。それに対して、もしテラヘルツ電界を実時間で観測することができれば、振幅情報のみならず位相情報をも観測することが可能になり、キャリアダイナミクスの理解に重要な知見を提供できるようになる。 そこで我々は、光伝導マイクロダイポールアンテナ(PCA、図1)を用いたテラヘルツ電磁波の発生・検出を行い、テラヘルツ電磁波の実時間測定系を構築した。PCAは、アンテナ、ストリップライン、コンタクトパッドから構成され、アンテナの中央にはギャップが存在し、そのギャップに極短寿命光伝導材料が用いられている。これにより、テラヘルツ電磁波の実時間測定が可能になる。 図1:テラヘルツ電磁波発生・検出のための光伝導マイクロダイポールアンテナ ここで、PCAのテラヘルツ領域における動作(特に検出動作)では、光伝導層の極短寿命性が重要である。この条件を満たす光伝導材料として低温成長GaAs(LT-GaAs)を分子線エピタキシー法により作製し、時間分解反射率測定法によって光励起キャリア寿命の評価を行った(成長条件を表1に示す)。その結果、アニールを施すことにより数十psからサブピコ秒への短寿命化が起こり、更に成長条件の最適化により0.15psという非常に短い寿命が得られ、素子の光伝導材料として十分な性質を有することが判明した(図2)。 表1:LT-GaAsの成長条件図2:3種のLT-GaAs試料(V790、V856、V879)に対する時間分解反射率測定結果 また、アンテナの光伝導層として用いる際に、検出感度に関わるパラメータとして重要な移動度については、他の極短寿命材料と比較してかなり良い値(〜2700cm2/Vs)が得られた。また、テラヘルツ電磁波発生の際に最大電界強度を決定する耐電圧ではテラヘルツ光のエミッタとして用いるのに十分な値(〜55V)を得ることができた。 次に作製した極短寿命光伝導材料を用いて光伝導マイクロダイポールアンテナ(図1)の作製を行なった。そして、このアンテナに対し、時間分解テラヘルツ分光測定法によりその放射特性の評価を行なった。その結果、アンテナ長を変化させることにより共振周波数が変わるため、発生するテラヘルツ光のピークも共振周波数に対応する周波数に観測することができた(図3(a))。また、全てのアンテナにおいて、発生したテラヘルツ電磁波がバースト状であることを反映したブロードなスペクトルを持つことがわかった(図3(b))。特に50mのアンテナにおいては約100GHz〜2THzという非常に広帯域なスペクトルになっており、これによって透過、吸収分光測定などへの応用の可能性が示された。 図3:アンテナ素子から得られたテラヘルツ電磁波の電界強度時間波形(a)とそれらのFFTスペクトル(b)。括弧内の数値はアンテナ長を示す。3.半導体結合量子井戸中の量子ビートによるテラヘルツ電磁波発生 量子力学において、独立した2つの原子を近接させると、もともと同一のエネルギーにあった2つの準位が、相互作用により新たな2つの準位に分裂を起こす。これを量子力学的反発と呼ぶが、この新たな2つの準位を同時に励起すると各準位の波動関数の量子干渉により、エネルギー差に対応した周期でキャリアが振動する。この現象は量子ビートと呼ばれており、その速度は、相互作用の大きさによってはテラヘルツ領域にまで及ぶ。この高速性のため、将来の超高速デバイスへの応用という点で非常に注目されており、そのキャリアダイナミクスについて調べることは非常に意義がある。そこで本章では、広い量子井戸(WW)と狭い量子井戸(NW)を相互作用を起こす程度に十分近接させた半導体結合量子井戸で生じる量子ビートから生まれる分極の時間変化により電磁波が発生することを利用して、前章で作製・評価を行った光伝導ダイポールアンテナにより、量子ビートによるテラヘルツ放射を実時間観測した(図4)。 図4:結合量子井戸からのテラヘルツ放射(a)とそのFFTスペクトル(b) また、励起波長依存性を測定することにより、結合量子井戸中で起こる量子ビートが自由キャリアではなく励起子のコヒーレントな往復運動によるものであることが分かった(図5)。更に、この電荷振動は、低温において、不純物散乱やラフネス散乱という温度に依存しない散乱過程によって緩和するのに対し、50K以上では光学フォノン散乱が主な散乱過程であることが判明した(図6)。 図5:観測されたテラヘルツ電磁波の量子ビート成分の強度(a)とinstantaneous polarization成分の強度(b)の励起波長依存性。NWとWWの基底準位共鳴時のPLスペクトルを(a)の実線で同時に示してある。図6:量子ビートによるテラヘルツ放射の温度依存性(a)とこれから得られた量子ビートの位相緩和時間(b)。4.ドープした単一量子井戸中2次元電子プラズモンからのテラヘルツ電磁波発生 結合量子井戸中の量子ビートと並んで、もう一つのテラヘルツデバイスへの応用可能性が考えられるものとして挙げられるドープした単一量子井戸中の2次元電子プラズモンについて議論した。テラヘルツ分光を行った結果、薄いバリアを有する試料では、最大5次までのプラズモンモードからの発光を初めて観測し、プラズモン電界と外部電磁界の大きな結合効率によることがわかった。測定により得られた高次のプラズモンモードの分散は、理論計算と非常に良い一致を示し(図7)、プラズモン電場の部分的なスクリーニング効果が重要であることがわかった。 図7:2次元プラズモンの分散関係。●印は観測されたプラズモンの周波数で破線・実線はそれぞれunscreened limit-screened limitに対して予想される理論曲線。×印は、2次元電子系と金属グレーティングの相互作用まで考えた厳密理論に基づいて得られた結果を表わす。 また、得られた時間波形から緩和時間を求めた結果、〜2.1psという値が得られ、電気伝導測定と比較を行なった結果、散乱角度に依存しない緩和過程がプラズモンの主たる散乱要因であることが判明した。 また、2次元プラズモンの緩和時間は、5次のモードまでほぼ一定であり、これは散乱範囲とプラズモン波数のオーダーの違いにより説明することができた。 更に励起機構に関しては、2次元プラズモン放射が、励起光エネルギーによって、その発生機構が異なることを示す結果を得られた(図8、図9)。励起光パワーによるプラズモン放射強度の振舞いから、励起光エネルギーがフェルミ準位より小さい場合、誘導ラマン散乱が関与していることが判明した。また、励起光エネルギーがフェルミ準位よりも大きいときは、電流サージおよび熱励起モデルにより励起機構が説明できることがわかった。 図8:2次元プラズモン放射強度の励起レーザエネルギー依存性。この図にはフォトルミネッセンス(PL)スペクトルとフォトルミネッセンス励起(PLE)スペクトルも同時に示してある。図9:種々の励起波長における2次元電子プラズモン放射強度の励起パワー依存性5.結言 以上、テラヘルツ領域に及ぶ超高速現象を実時間観測するための測定系を構築し、更にこれを用いてノンドープ結合量子井戸構造や選択ドープ単一量子井戸構造中のキャリアダイナミクスを実時間で直接観測することができた。そして、量子ビートや2次元プラズモンに対し理解を深めるとともに、超高速現象のコヒーレンスについて、いくつかの新しい知見を得た。 |