学位論文要旨



No 114253
著者(漢字) 中川,誠司
著者(英字)
著者(カナ) ナカガワ,セイジ
標題(和) 脳磁界計測によるヒトの短期記憶および認知過程の機能局在推定に関する研究
標題(洋)
報告番号 114253
報告番号 甲14253
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4379号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 羽鳥,光俊
 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 原島,博
 東京大学 教授 廣瀬,啓吉
 東京大学 教授 藤田,博之
 東京大学 助教授 廣瀬,明
内容要旨

 認知心理学の分野では,今世紀の後半からヒトの認知過程の研究が多くなされ,記憶,学習,問題解決など様々な認知機能を記述するモデルが提案されている.それらのモデルの妥当性は,正答率,反応時間などの行動学的データを用いて検証されてきた.しかし,実際の認知過程を司る脳の情報処理機構はほとんど解明されていなく,これまで提案されたモデルの生理学的妥当性を検証する手法が求められてきた.過去の認知過程に関する脳機能研究はほとんどがヒト以外の哺乳動物を使った侵襲的実験によってなされてきたが,動物実験での結果をそのままヒトに当てはめることはできない.また,fMRI(Functional Magnetic Resonance Imaging)やPET(Positron Emission Tomography)によるヒトを用いた非侵襲的計測も行われているが,秒オーダーの時間分解能しか得られない.そこで,非侵襲的にヒトの脳機能を計測でき,時間分解能の高い脳磁界計測に大きな期待が寄せられている.しかし,未だにその研究例は少ない.その原因としては,脳機能推定に効果的なタスクが考案されなかったこと,複雑なパターンを示す認知過程のMEGから脳内活動部位(脳内電源)を推定する際の解析手法が未確立であったこと,などが挙げられる.本研究ではまず,脳機能推定に有効なタスクを考案し,短期記憶過程および言語認知過程の脳磁界計測を行った.さらに,得られた脳磁界データから(1)単一電流双極子モデルを用いた非線形パラメータ推定,(2)計測データの時間的情報を用いて,複数の脳内活動源を比較的安定に求めることができるMUSIC(Multiple Signal Classification)アルゴリズム,を用いて脳内活動部位を推定し,認知過程の脳内活動について考察した.

短期記憶過程のMEG計測と脳内電源推定

 記憶機能は認知過程の根幹となる重要な機能である.本研究では,時間的分解能が強く求められる,短期記憶過程のMEG計測を行い,動的な脳内活動を推定した.短期記憶の研究は,過去にはヒト以外の霊長類を用いたものが多く報告されており,前頭葉背側部や側頭葉の関与が示唆されてきた.また,fMRIやPETを用いたヒトによる研究では,前頭葉前部,後頭葉と頭頂葉の接合付近,側頭葉の関与が指摘されている.しかし,時間的解像度の悪さから,記憶の各要素(符号化・貯蔵・検索)や課題に特有の"待ち(set)"による脳活動の分離ができていない.本研究では,脳磁界計測の時間的分解能を利用して各要素を分離し,特に記憶の貯蔵過程(storageprocess)に着目して脳内活動を推定した.

計測・解析

 各4分円が異なる色(青,赤,緑,橙)に塗り分けられた円を視覚刺激とした,遅延対比較課題を被験者に遂行させ,誘発された脳磁界の計測を行った.その刺激の例およびシーケンスを図1に示す.被験者には「サンプル刺激とテスト刺激が同一のものであれば人差し指を,異なる場合には中指を動かすタスク」(memory task),および「サンプル刺激には注意を払わずに,サンプル刺激とテスト刺激の一致,不一致に関わらず,テスト刺激が出た後,人差し指,中指を交互に動かすタスク」(control task)の2種類のタスクを与えた.脳内電源推定に際して電源モデルとして単一電流双極子を用い,頭部を均一導体球と仮定し,脳内の分布電流も考慮して計算を行った.頭部全体に渡って,14-20個程度のチャネルを含む領域を選択し,推定された電源のうち,以下の基準を満たすものを採用した.

 1.goodness-of-fit値:80%以上

 2.95%信頼区間(confidence volume):268mm3以下

 3.1,2を満たして持続時間が10ms以上のもの(ただし,2mm/ms以上の移動をしたものは,そこから異なる電源とみなす)

 また,MUSICアルゴリズムを用いた脳内活動部位推定も行った.推定された脳内電源は各被験者のMR画像上に投影し,その部位を特定した.

結果

 後頭部で計測された誘発加算波形を図2に示す.memory task時には後頭部・側頭部にかけて低周波成分が見られている.この活動は,memory taskに特有なことから,記憶の貯蔵過程を表していると考えられる.加算波形から脳内電源推定を行った結果,潜時250msまではmemory task,control taskともに,有線野(17野),有線外野(18,19野),後頭-側頭接合,後頭-側頭接合付近に活動部位が推定された.潜時150msで鳥距溝付近に見られた活動が,潜時を追うに従って,頭頂葉後部や側頭葉下部・後頭葉底部に移動している様子がわかった(図3).これは,動物実験等により明らかにされた,「一次視覚野(17野)→頭頂連合野(5野,7野):背側経路」,「一次視覚野→下側頭連合野(20野,21野):腹側経路」という2つの視覚情報伝達経路を表していると考えられる.潜時500ms以降のmemory taskで低周波成分が見られた潜時では,被験者に共通して活動が観察された部位としては,左右上側頭溝付近,角回付近,左右舌状回,紡錘回(後頭葉内側部),前頭葉前部の活動があげられた(図4).後頭葉内側部は視覚単語認知や,picture naming taskのような視覚的な物体の処理においても活動が観測されている部位である.また,後頭葉や側頭葉-後頭葉接合付近の活動は,潜時500ms以前の,視覚パタンの認識に関する脳磁図成分を対象とした実験で活動が見られている場所でもあり,前頭葉前部は従来から短期記憶の関わりが強く指摘されている部位である.以上のことから,視覚情報の保持を担っている後頭部の高次視覚野と,記憶のコントロールを担う前頭葉前部・側頭葉後部の連携的な活動で,視覚パタンの短期記憶貯蔵過程が実現されている可能性が考えられる.

図1 遅延対比較課題図2 後頭部における加算された計測波形.縦線はそれぞれ,SampleおよびTestの呈示された時刻を示す図3 上:潜時150msの活動部位(電流双極子)下:短期記憶課題による潜時200msまでの活動部位の模式図(被験者S1)図4 短期記憶課題による潜時500ms以降の活動部位被験者S1,L=left,R=right,A=anterior,P=posterior
言語認知過程のMEG計測と脳内電源推定

 言語は人間に特有の機能であり,動物実験が全く行えない.動的な脳活動を捉えるには,ヒトを用いた非侵襲的計測に頼るしかない.過去の症例研究から,言語認知に関わる部位(受動的言語野)として左側頭部(22野)のウェルニッケ野,角回(39野)が良く知られている.視覚呈示された単語の処理に関わる活動部位については,PET研究により,左後頭葉内側部,左側頭葉後部などが報告された.また,MEG計測では後頭葉の高次視覚野の活動が報告されている.しかし,非侵襲計測において単語認知に関わる統一的な結果は得られていない.

 本研究では,脳研究全体としても過去にほとんど例がない英単語翻訳課題を用いて,MEG計測を行った.また,非線形パラメータの最適化法に加えて,測定データの時間的情報を用いて安定に脳内電源の位置を推定できるMUSIC法を用いて脳内電源推定を行った.

計測

 視覚刺激として、英単語、アルファベットをランダムに並べたもの(以下、ナンセンスワード)およびランダムドットパターンの3種類を呈示した(図5)。被験者には、英単語が呈示された場合にはそれを日本語に訳すという課題を与えた.図6に被験者Aの誘発脳磁図波形を示す。すベての被験者で、3種類のどの刺激に対する反応においても潜時100-200msecで、大きな反応が見られた。英単語、ナンセンスワード、およびランダムドットパターンの3種類の刺激に対する反応を見ると、潜時約300msec付近までは、全被験者に共通するような刺激間の差異は認められなかった。側頭部では英単語、ナンセンスワードに対して潜時約300msec〜450msecにかけて反応が見られ,この潜時では3種類の刺激に対する反応間の差異が認められる。

図5 言語認知課題図6 右側頭部で計測されたMEG波形

 この2つの反応について,非線形パラメータ最適化法で脳内電源推定を行った.潜時150msでは,すべての被験者で左右の鳥距溝付近に活動源が推定された.潜時約300〜400msの反応の活動部位を模式的に示したのが図7である.英単語,無意味語認知時の活動部位は左右の側頭部後部から後頭部にかけての領域に推定された.

図7 潜時約300〜400msの反応で非線形パラメータ最適化手法によって推定された活動部位

 潜時300ms〜の反応について,MUSIC法を用いた脳内電源推定を行った.潜時320〜440msecの間を、20msecずつに区切って解析を行った。被験者Aの解析結果を図8に示す.英単語認知時の被験者に共通した活動部位は,主に左側頭部,右後頭・側頭部に推定された.ナンセンスワードでは側頭内側面付近に推定された.

図8 潜時約380〜400msでMUSIC法によって推定された活動源分布(英単語認知時)
審査要旨

 本論文は,「脳磁界計測によるヒトの短期記憶および認知過程の機能局在推定に関する研究」と題し,脳磁界計測を用いて,ヒトの短期記憶過程および認知過程に関連する脳内活動を非侵襲的に推定したものであり,全6章から成る.

 第1章は「序論」であり,ヒトの脳機能研究の歴史と背景をまとめている.これまでの認知過程研究は,症例研究や哺乳類を用いた侵襲的計測によるところが大きかったこと,またPET(positron emission tomography)やfMRI(functional magnetic resonance imaging)による研究が行われているが時間分解能に劣ることについて述べ,時間分解能の高い脳磁界を用いてヒトの脳機能を非侵襲的に研究した本論文の位置づけを明らかにしている.

 第2章は「生体電気磁気現象の順問題・逆問題」と題し,計測された脳磁界データから脳内活動部位を推定する際の理論的背景となる,脳内神経の電気的活動のモデル化と,それにより生成される脳磁界の定式化,および脳内神経電流分布の再構成に関する既知の手法についてまとめている.特に,最も一般的な少数の電流双極子を電源モデルとした非線形パラメータ最適化法,計測データに含まれる時間的情報を用いて脳内電源の位置を比較的安定に求めることができるMUSIC(multiple signal classification)アルゴリズムについて述べている.

 第3章は「認知過程のモデリングおよび生理学的知見」と題し,ヒトの認知過程の中でも記憶過程と言語認知過程について,提案されている心理学的モデル,過去の症例研究による生理学的知見,さらには過去の哺乳類を用いた実験により得られた知見等について述べている.

 第4章は「短期記憶過程の誘発脳磁界計測と脳内電源推定」と題し,短期記憶過程に伴う脳磁界を計測・解析し,短期記憶過程を担う脳内部位を同定している.すなわち,秒オーダの遅延対比較課題を用いて短期記憶過程を実現し,課題中の脳磁界を計測している.脳内電気活動源の推定には,(1)単一電流双極子モデルによる非線形パラメータ最適化法および(2)MUSICアルゴリズムを用いている.その結果,記憶されるべき視覚刺激の呈示後200ms以内に後頭葉で視覚的情報処理が行われ,視覚情報が後頭葉鳥距溝付近から側頭・頭頂方向へと伝達されることを明らかにしている.また,記憶課題中に視覚刺激の呈示後500ms以降で2-3s持続する直流的な磁界成分である極低周波脳磁界成分を計測し,この成分が記憶保持過程の脳内活動を反映することを明らかにしている.更に,その発生源を紡錘状回,舌状回といった後頭葉底部,縁上回,角回付近,さらには前頭葉前部,その中でも下前頭回に推定している.前頭葉前部や角回付近は,サルを用いた実験やPETやfMRIによるヒトの研究から記憶への関連が指摘されている部位であり,また,後頭葉底部は視覚情報の認識時に活動が見られることが知られている.これらを考慮し,本研究では,視覚入力に対する短期記憶の保持の座が後頭葉の底部に局在し,前頭葉前部,縁上回および角回付近は短期記憶の制御や関連する機能に関与していると推定している.

 第5章は「言語認知時の誘発脳磁界計測と脳内電源推定」と題し,言語認知時の脳内活動部位を推定している.非線形パラメータ最適化法およびMUSICアルゴリズムを用いて脳内活動部位推定を行った結果,音韻変換もしくは文字認識に関与すると思われる電源が左側頭葉に,意味認知に関与すると思われる活動が右後頭葉-側頭部接合付近に局在することを明らかにしている.

 第6章は本論文のまとめであり,本論文で得られた知見を要約し,今後の研究の展望について述べている.

 以上,本論文は,ヒトの短期記憶および認知過程に関連する脳磁界を計測し,特に短期記憶過程に秒オーダ持続する直流的な脳磁界成分を初めて検出し,関連する高次脳機能の電源局在性を明らかにしたもので,電子工学,特に,生体情報工学上貢献するところが少なくない.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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