はじめに 近年、高分子、ミセル系などのいわゆる複雑流体が基礎的、応用的見地から注目を集めている。これらの物質系は互いに比較的弱い相互作用を及ぼしあう大きな内部自由度をもつ分子からなっており、このため小さな外場に対しても容易に大きな構造変化を引き起こし、他の物質系ではみられないさまざまなユニークな物性を示すことが知られている。ことに本研究で用いるような流動場は複雑流体に対して顕著な構造変化・構造形成を容易に引き起こすことのできる特徴的な外場であることが知られている。しかしながら、現在に至るまで流動場下における複雑流体のダイナミックスに関する研究は数少なく、その測定法も限られている。そこで本研究では、流動場下において誘起される構造のダイナミックス測定が可能な装置を新たに開発し、これを典型的な系に適用することでこれら流動場下における複雑流体のダイナミックスに関する知見を得ることを目指した。 一般に系のダイナミックス測定法として、定常状態における系のゆらぎを測定する方法と、系に何らかの刺激を加えてそれに対する応答を測定する方法の二つがある。本研究では、前者の例として流動場下において散乱光のスペクトルを測定することによって溶液中の分子のゆらぎを直接観測する準弾性光散乱測定を、また後者の例として入力として電場を用いて流動場下における流体の電気的ダイナミックスを観測する誘電緩和測定を可能とするシステムの開発を行った。さらに、これら新たに開発されたシステムをそれぞれ典型的な対象に適用し、流動場による構造変化に起因するダイナミックスの変化を測定し、その構造やダイナミックスに関する新たな知見を得ることを目指す。 流動場下における準弾性光散乱測定装置の開発とそのミセル系への応用 まず、流動場下における複雑流体の構造のゆらぎ(ダイナミックス)に関する知見を得るために、以下に述べるような流動準弾性光散乱測定システムの開発を行った。試料セルは同軸円筒で構成されており、同軸円筒の内筒と外筒の間に試料を入れ、外筒を回転させることによって試料にせん断流動場を印加する(図1)。一方、円筒下部の光学窓より回転軸と平行にレーザー光を入射し試料からの散乱光を光電子増倍管を用いて検出し、FFTアナライザーを用いてA/D変換した後、パーソナルコンピューター上で散乱光強度I(t)の自己相関関数を計算する。一般に、試料の速度ベクトルを、散乱ベクトルをK、拡散定数をDとすると散乱光強度の自己相関関数は のように周期2/・で振動しながら減衰する形となる。ここで振動項はゆらぎの情報を含んでいないのでダイナミックス測定には重要ではない。そこでK⊥=0となるような位置に検出器を置くことで振動項が消え、ゆらぎの情報である拡散定数Dのみを観測することができる。 次に、開発した装置を線状ミセル系に適用し、流動場下における線状ミセルのダイナミックスに関する知見を得ることを目指した。対象としたミセル系は親水基と疎水基をあわせ持つ界面活性剤分子および添加塩からなる水溶液系であり、界面活性剤濃度、温度、添加塩濃度などの条件により、紐のように一次元的に長く伸びたミセルを形成することが知られている。このような線状ミセルは形態的には線状高分子と類似しているが、高分子内の結合が炭素原子同士の共有結合であるのに対し、ミセルは会合体であるため分子内の結合が弱く、容易に切断・再結合がおこりうるため、流動場下において高分子とは異なるダイナミックスを示すことが予想される。本研究では代表的な線状ミセル系であるCetyl trimethyl ammonium bromide(CTAB)およびサリチル酸ナトリウム(NaSal)の水溶液を用いた。 図1:流動準弾性光散乱セルの構造 CTAB/NaSal系では準弾性光散乱実験により流動場の無い場合には協同拡散および粘弾性の緩和に対応する2つの緩和モードが観測される。開発されたシステムを用い、流動場下において測定を行った結果、いずれのモードの緩和時間も印加した流動場が強くなるほど減少してゆき、ある臨界的な速度勾配以上では一定値を示すことが分かった。さらに界面活性剤濃度を変化させて測定を行ったところ、早い緩和モードの緩和時間は小さくなり、遅い緩和モードの緩和時間は逆に濃度とともに大きくなることが分かった。線状ミセルは流動場の無い場合には絡み合った等方的な構造を示すが、せん断流動場を印加すると徐々に絡み合いは解消され、ある速度勾配以上でミセルが流動方向に配向した異方的な構造が形成されると考えられる。このような構造のもとではミセルの分子長軸方向への運動は自由であるのに対し、それと垂直な方向への運動は他のミセルにより阻害される。このため、流動方向に対してはミセルは自己拡散し、流れと垂直の方向には協同的な拡散を示すと予想される。このとき、協同拡散定数はミセルの協同的な運動による濃度ゆらぎの拡散であるのでミセル濃度とともに増加するはずでおるが、この傾向は流動場下において観測された早い方の緩和モードの濃度依存性と一致している。また一方、遅い緩和モードはミセル濃度とともに拡散定数が減少することからミセルの長軸方向への自由な拡散であると考えられる。さらに、従来絡み合った状態では観測できなかったミセルの長さおよび排除体積を二つのモードの拡散定数から初めて決定することに成功した。 流動場下における誘電緩和測定装置の開発とその固体高分子電解質系への応用 まず、本研究では以下に述べるような流動場下における複雑流体の電気的ダイナミックス測定が可能なシステムの開発を行った。 試料セルとしては準弾性光散乱用セルと同様に同軸円筒形のものを制作し、内筒と外筒の間隙に試料を入れ、外筒を回転させることで試料にせん断流動場を印加した。また試料の複素インピーダンスを測定するために内筒を高電位電極とし、外筒を低電位電極として用いているが(図2)、電極形状が同軸円筒であるためにMHz以上の高周波領域においても測定が可能である。また、開発されたシステムでは10mHzから100MHzまでの広い周波数範囲における試料の複素誘電率スペクトルの測定が可能である。 図2:流動誘電緩和セルの構造 次に、開発した装置を用いて流動場下における固体高分子電解質系の電気的ダイナミックスの測定を行った。対象とした系は極性高分子の溶融体と無機塩からなる系であり、高いイオン伝導度を示すゆえに新しい電池材料としても注目を集めているが、具体的な導電機構の解明はほとんど行われていない。そこで、流動場を印加することにより高分子の構造に異方性を誘起し、その構造が電気的なダイナミックスに与える影響を研究することにより導電機構の解明を目指す。本研究では代表的な固体高分子電解質系であるポリプロピレンオキシド(PPO)と次亜塩素酸リチウム(LiClO4)からなる系を用いた。 この系では誘電緩和スペクトル測定により、分子の局所的な運動を反映したセグメントモードと、添加したリチウムイオンの運動を反映したイオンモードの二つの緩和が存在することが知られている。この系に流動場を印加したところ、セグメントモードにはほとんど変化が起こらないのに対し、イオンモードには顕著な変化が見られた。すなわち、イオンモードの緩和強度が流動場の無い場合には1程度であるのに対して、流動場の印加により100以上にまで増加するが、緩和時間はほとんど変化しなかった。また流動場の印加により導電率も著しく減少することが分かった。さらにPPOの分子量を変えて測定を行ったところ、いずれの分子量においても同様の現象が見られたが、セグメントモードの緩和時間segがPPOの分子量Mに依存しないのに対してイオンモードの緩和時間ionはMに依存し、ion∝Mの関係があることが明らかになった。 また、得られた誘電緩和強度、緩和時間および導電率を用いて誘電性および導電性に寄与しているキャリアー数を求めたところ、流動場の印加により導電性に寄与するキャリアー数は減少する一方、誘電性に寄与するキャリアー数は増加し、その和はほぼ一定であることが明らかになった。これは流動場によってイオンの導電経路が遮断されるために導電性に寄与していたイオンが局在化し、誘電性に寄与することになったためであると考えられる。また動的浸透理論を用いた解析によりイオンモードの緩和の緩和強度と導電率との間には という関係が成立する。ここでrは分子鎖が熱運動によって形態変化し、イオンの運動できるドメイン構造を変化させるまでの平均的な待ち時間である。流動場の印加によってが増大し、が減少していることは(2)式によればrが増大していることを意味しており、これは流動場によって分子の形態変化が抑制され、高分子溶融体中のドメイン構造がより安定となっていることを示唆している。 結論 本研究では流動場によって誘起された複雑流体の新たな構造のダイナミックスに関する知見を得るために流動準弾性光散乱および流動誘電緩和測定装置を新たに開発し、典型的な系にこれらを適用した。その結果、流動場による構造変化を反映したダイナミックスの変化を観測することに成功し、またその機構や構造に関する新たな知見を得ることができた。さらにこのことは新たに開発したこれらの測定法が複雑流体のダイナミックス測定法として有効であることを表している。 |