学位論文要旨



No 114264
著者(漢字) 上野,剛渡
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,タケト
標題(和) サーモトロピック液晶の等方相における動的光散乱
標題(洋)
報告番号 114264
報告番号 甲14264
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4390号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,堅志郎
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 助教授 田中,肇
 東京大学 助教授 酒井,啓司
内容要旨 1 目的

 サーモトロピック液晶とは,ある相転移温度を越えて温度が変化すると液晶相に転移する試料を指す。液晶性試料のうち低分子のものには,形状が異方的であるために分子の向きが揃いやすいという性質がある。このため液晶の物性を記述するには,配向という分子の揃い具合を表したパラメータを用いる。実際にはそのパラメータの大きさによって試料の異方性の強弱が示されている。

 配向のゆらぎは液晶の物性を説明するための重要な要素である。等方相にあるときには液晶性試料は平均としては等方的であるが,局所的には配向のゆらぎが起こっており,このゆらぎは臨界温度へ向かって連続的に遅く,そして大きくなってゆく。このために等方相では,配向のゆらぎが試料の物性を支配すると言われている。一方で液晶は液体であるのでその物性は流体力学に従う。このため試料の物性を考える時には,配向という秩序モードと流れのような流体モードおよび両者の結合を考慮する必要がある。特に等方相=液晶相転移温度近傍では,これらのモードのゆらぎが液晶の発現に関する要因となる。臨界温度近傍での液晶の動的物性および液晶の発現に関する知見を得ることが本研究の目的である。

2 実験

 実験には光ビート分光法にクロスビーム法を取り入れた動的光散乱計測系を用いた(図1)。この計測系では,局部発振光(Local Light)の偏光方向を/2板を使って変えることによって,検光子を使うことなく計測したい偏光成分を持つ散乱光のスペクトルを計測することができる。de Gennesモデル[1][2]およびPecoraらによるモデル[3]から導出されるVV(偏光保存)散乱およびVH(偏光解消)散乱スペクトルの式は,通常のずり粘性の他に液晶に特有な配向の回転粘性と結合粘性を用いて

 

 および

 

 と表される。但し,は配向の緩和周波数を,はずり変形の速さを,はずり流れと配向の結合の強さを,それぞれ表している。実験系のセッティングが決まればDは文献値から算出可能なので、実験で得られたVVおよびVHスペクトルからは配向緩和周波数,および結合係数Cの値が得られる。実験で得られたスペクトルの例を図2に示す。VVスペクトルはローレンツ曲線になりVHスペクトルは中心に鋭いディップを持つ特異な形状になっている。

図1:本研究に用いた実験系.図2:実験から得られたスペクトルの例.試料には6CBを用い,この時の温度は31.0℃,散乱角は0.25°であった。右上の枠内は,スペクトルの中心部分を拡大したもの。
3議論

 試料にはシアノビフェニル系液晶として5CB,6CB,7CB,8CB,10CB,それ以外のネマティック液晶としてMBBAを実験に用いた。温度を少しずつ変えながらスペクトルを計測をしていくことによっておよびCの温度依存性を得た。この結果,全ての試料において試料の温度が高温側から相転移温度Tcに近づくに従っておよびCが0に向かって減少する結果が得られた。の低温側の実験値を外挿して0になる温度として疑似的な2次の臨界温度T*が求められる。またCが0に向かって減少する結果は,他に報告の例がない。このCの横軸を換算温度=(T-T*)/Tにした時のプロットを図3に示す。高温側で一定値に近づき,中間温域でなだらかに減少(傾きはおよそ0.3)し,臨界温度ごく近傍で急激に減少している。また,全ての試料について中間温域以上でほぼ一つの曲線に乗るような温度依存性になっている。

 このCの温度依存性を定性的に示すために,疑似ネマティックドメインの物理イメージを提案した(図4)。大きさが配向の相関長,配向が相関長内の分子の平均の配向であるようなドメインを考える。配向の緩和の時に生じるドメインの変形が,配向とずり変形の結合ではないかと考えた。そうすると,ドメインが小さく含まれる分子が少ない時には,分子の配向の変化がドメイン全体の形状の変化と密接にかかわりあうために配向とずり変形の結合が強くなる。逆にドメインが大きい時には全体の形状が変化しなくても分子の配向の変化が可能であるため,配向とずり変形の結合が弱くなる。以上のような考察の結果,定性的にはCの温度依存性を説明できる。

図3:結合係数Cの換算温度依存性.5CBから10CBのシアノビフェニル系試料では,ほぼ一つの曲線に乗るような温度依存性になっている。一方MBBAはシアノビフェニル系試料に見られるような臨界温度近傍での急激な値の減少は見られなかった。なお,=(T-T*)/T*である。図4:疑似ネマティックドメインの物理イメージ.

 結合係数Cの定量的な議論を行うために,を構成する粘性係数のうち液晶に特有な粘性係数およびの具体的な値を算出し,プロットをしたものが図5および図6である。この時,粘性係数が臨界温度近傍で急激に減少する結果が得られた。これは,結合係数Cの臨界異常性をそのまま反映していると考えられる。それぞれ粘性係数およびの活性化温度およびは,これらのプロットのうち臨界温度から少し離れたところのデータを1/Tに対して直線でフィッティングした時の傾きから求められる。

図5:回転粘性係数のアレニウスプロット.臨界温度近傍で値がゆらぐが,これはT*の決定精度によるものであると考えられる。Martinotyらによる値は文献[4]による。図6:結合粘性係数のアレニウスプロット.臨界温度ごく近傍で急激に減少する結果が得られているがこれは直接Cの温度依存性が反映されたものである。
4 まとめ

 シアノビフェニル系を中心としたいくつかのサーモトロピック液晶試料について,等方相にて光散乱実験を行った。得られたそれぞれの光散乱スペクトルから配向緩和周波数および結合係数Cが得られ,この二つのパラメータが全ての試料においてともに臨界温度に向かって減少する結果が得られた。このうちCが臨界温度に向かって減少するという内容の報告は現在のところなされていない。

 また結合係数Cの温度依存性を議論するため,新たに疑似ネマティックドメインの物理イメージを考え,配向とずりの結合がドメインの変形であると説明した。この結果,結合係数Cの温度依存性を定性的に説明することに成功した。最後に液晶に特有な粘性係数およびの温度依存性を示して,それぞれの活性化温度を計算した。この2つの結合粘性のうちに臨界異常があることがわかった。

参考文献[1]P.G.de Gennes,Phys.Lett.A30,454(1969).[2]P.G.de Gennes,Mol.Cryst.Liq.Cryst.12,193(1971).[3]H.C.Andersen and R.Pecora,J.Chem.Phys.54,2584(1971).[4]P.Martinoty et al.,J.Phys.(Paris)38,159(1977).
審査要旨

 温度変化によってネマティック相やスメクティック相に転移する液晶性分子液体には、転移温度以上の等方相においても液晶転移の前駆的な現象が現れる。本研究の目的は、動的光散乱という手法を用いてこれらサーモトロピック液晶の等方相におけるダイナミクスを解明し、液晶相が出現する機構を分子固有の特性と結びつけて理解することである。

 本論文では、第1章で研究の背景や意義などを述べ、第2、3章において動的光散乱の基礎的事項を説明し、それを敷延して液晶分子等方相に固有な光散乱スペクトルをde Gennesのモデルおよび理論にしたがって導く。これらの分子では熱揺らぎのモードとして等方的な密度揺らぎ以外に、局所的な分子配向揺らぎが重要な役割を果たす。それは偏光が保存される散乱(VV散乱)および解消される散乱(VH)に独特のスペクトルを与える。第4章では実験系について述べる。関係するダイナミクスは数10kHzから100MHzにわたるため、非常に高い分解能と同時に広い帯域が必要である。したがって動的光散乱で一般に用いられている光相関法やファブリ・ペロー分光法は、前者は帯域が、後者は分解能が不足する。本研究では光ヘテロダインを利用し、光ビート信号として散乱光のパワースペクトルを得る技術を採用している。

 第5、6章では実験および測定結果について述べ、de Gennesのモデルの枠組みで解析している。試料は室温付近でネマティック相に転移するシアノビフェニル系の5CB,6CB,7CB,8CBとスメクティックA相になる10CB、さらに比較のため典型的なネマティック液晶であるMBBAの6種類である。一般にVVの散乱光スペクトルには、フォノンによるブリユアン成分のほか、通常のレーリー成分よりはるかに幅の広い中心成分が現れ、その広がりから配向揺らぎの緩和周波数が得られる。さらに、それが相転移温度に向かって減少する様子から仮想転移温度T*が求まる。一方、VH散乱のスペクトルはローレンツ曲線の中心に鋭いディップがある極めて特異な形となり、またこの形状は温度と散乱角によって大きく変化する。転移点の数10℃上から転移点まで試料の温度を下げながらVVおよびVHスペクトルを求め、それを第3章で導いた理論スペクトルを用いて解析し、必要なパラメーターを決めた。

 これらの分子の等方相におけるダイナミクスを記述する現象論的物理量として、普通のずり粘性係数、分子回転運動が輸送されることに関わる回転粘性係数、および分子の並進から回転(またはその逆)へと運動モードを交換しながら運動量が輸送される回転・並進粘性係数を考える。等方相で温度を下げると配向揺らぎが次第に大きくゆっくりとなり、ある温度でそれが凍結されて安定な液晶構造が出現する。その時、配向揺らぎの他にずり流れの揺らぎがあり、これら2つのモードが結合する。つまり配向が緩和する際その近くに局所ずり流れを誘起し、それがさらに配向を誘起するという過程がおこり、これがVHスペクトルの特異な形として現れる。液晶分子を特徴づける重要なパラメーターである結合係数C(=22/)はそのディップの深さから求められる。

 本研究で、転移温度に近づくとCが急速に減少するという興味ある現象を見出した。

 これを疑似ドメインモデルで定性的に説明している。またはVVスペクトルの幅の温度変化から、はディップ幅あるいは文献から得られ、のすべてを実験的に求めることができる。これら3つの粘性は、転移温度から10℃以上離れるといずれもアレニウス型の温度依存を示し、各活性化エネルギーを決めることができた。転移点に近づくとは異常を示さないのに対しは急激に減少することが明らかになった。以上の結果をふまえ、液晶転移の前駆的ダイナミクスについて考察している。

 以上を要するに本研究で得られた成果は、物理工学上非常に重要なものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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