学位論文要旨



No 114268
著者(漢字) 小笠原,剛
著者(英字)
著者(カナ) オガサワラ,タケシ
標題(和) 遷移金属酸化物における光誘起過渡光学現象
標題(洋)
報告番号 114268
報告番号 甲14268
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4394号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 内田,慎一
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 助教授 清水,明
内容要旨 1序論

 時間分解非線形分光法はこれまで半導体のようなバンド絶縁体の非線型光学応答を調べる手法として発達してきた.バンド絶縁体における非線型光学応答は,弱励起では二準位原子の拡張として議論することができ,強励起においても多体効果を平均的に繰り込むことにより多くの場合一体問題として取り扱うことができた.これはバンド絶縁体の電子構造を決定するのは格子上にならんだイオンが作るポテンシャルであることと,基底状態では価電子帯が電子でうまっているため全ての自由度は死んでおり,光励起によって生成される電子や正孔の自由度のみを考えればよいということが本質的であった.

 一方,遷移金属酸化物ではその電子構造を決定するのは電子同士の強い相互作用である.その顕著な例として,価電子帯が半分だけうまった状態でも絶縁体となるMott転移があげられるだろう.この様な系では,光励起によって電子同士の相互作用のバランスが崩れると電子構造が大きく変化する可能性があり,光学スペクトルを劇的に変化させることもあるだろう.

 また遷移金属酸化物では,系が秩序を作ることにより安定化するということが,ごく普通に観測される.この場合の安定化エネルギーの典型的な値は〜102K程度であるのに対し,光学領域の光子は〜104K程度の大きなエネルギーを持つ.これは光励起は系の秩序を破壊するのに十分なエネルギーを持つことを意味する.系の秩序が光学スペクトルに影響するような系では,光による秩序の破壊が光学スペクトルの変化として観測できるだろう.さらに,光励起によって作られた状態が比較的安定に存在できるなら,温度や圧力などによっては到達し得ないような系の状態を作り得る.つまり,光励起が本質的であるような物質相の存在の可能性もある.

 これとは別に,時間分解非線形分光を遷移金属酸化物における物性測定の手段として適用することを考えよう.時間分解分光は,サブピコ秒程度の非常に速い現象を実時間で観測することができるという大きな利点を持つが,光励起が系をどのように変化させるかが自明でない場合には得られる信号の解釈ができない.

 このようなことを念頭におくと,バンド絶縁体においてはほぼ自明であった光励起が,遷移金属酸化物の系においてはどのような役割をはたすのかを知ることが重要であることがわかる.本研究では,これまで殆ど考えられたことがなかった遷移金属酸化物における光励起の役割についての知見を実験的に見出すことを目的とし,いくつかの特徴的な物質系について時間分解分光の手法を用いて調べた.

2実験手法

 本研究では一貫してフェムト秒パルス励起による時間分解ポンプ・プローブ分光法を用いた.時間分解ポンプ・プローブ分光は強い励起光により系を励起した後の反射率や透過率の変化をプローブ光を用いて測定する分光法である.系の変化を直接的に観測できる時間分解分光の最も基本的な分光法である.

 この方法を遷移金属酸化物の系に適用し,光励起の効果を調べる際に重要な点は励起光のパルス幅とプローブ光の波長域である.遷移金属酸化物では光学領域から低エネルギーまで,ほぼ連続なエネルギー準位を持っているため,光励起は物質中で短時間のうちに熱へと変化してしまう.光励起の効果を熱の効果と分離するためには,短時間に励起を行う必要があり,超短パルス光による励起が望ましい.

 また,遷移金属酸化物では系の電子的な変化が最も反映されるエネルギー領域は,近・中赤外域にある.この領域では高速の光検出器や波長可変のCWコヒーレント光源がない.そのため,プローブ光にもパルス光を用いポンプ光との間の時間遅延によって時間分解を行なう方法が,現状では唯一の高速な測定手段である.

 これらの理由から本研究では主に以下のような構成の光源を用いた.

 ・ モード同期チタンサファイアレーザー

 ・ 再生増幅器

 ・ 光パラメトリック増幅(OPA),差周波発生(DFG),高調波発生(SHG,FHG)

 励起光は再生増幅器の出力光,またはその二次高調波を用いることにより最大1mJの非常に強いパルスエネルギーが得られ,今回の実験の目的には十分な強度である.また,OPA,DFG,SHG,FHGの適当な組合せにより,400nm〜10mの任意の波長のフェムト秒パルスを得ることができ,これをプローブ光として用いた.

3実験3.1マンガン酸化物における光誘起過渡光学現象

 基底状態で強磁性秩序を持ち,スピン偏極が赤外域の光学応答に影響を与えることが知られているLa0.6Sr0.4MnO3と,基底状態で電荷及び軌道整列相を持ち,軌道整列が光学的な異方性を発現するLa0.5Sr1.5MnO4についてポンプ・プローブ分光による実験を行った.

 La0.6Sr0.4MnO3では光励起により磁化の減少が起こり,それに伴なう透過率の変化が観測された.光励起による磁化の減少は,光励起によりスピンが直接反転する過程とスピン軌道相互作用や格子との相互作用を介してマグノンを放出する過程とがあることが示された.また光励起後の時間発展は熱浴に接した非平衡状態の緩和と記述できるが,強磁性転移温度よりも低い温度においても,磁化が時間の羃で減少するという特異な緩和過程が観測された.

 La0.5Sr1.5MnO4の実験では入射プローブ光の直交偏光成分を検出することにより,光励起によって軌道秩序が破壊されたことによる光学的異方性の減少が観測された.また,電荷・軌道秩序の破壊による電子構造の変化に伴う反射率の変化も同時に観測された.

 これらの系における時間応答は,秩序の形成を実時間で観測することに対応しており,非平衡熱力学という観点からも非常に興味深いものである.

3.2銅酸化物における光誘起過渡光学現象

 Cu-Oネットワーク構造のそれぞれ異なる6種類の物質についてポンプ・プローブ分光の実験を行なった.資料は全てキャリアーをドープしていない絶縁体で,赤外域に透明領域を持ち,1.5〜2eV付近に電荷移動励起による強い吸収ピークを持つ.

 電荷移動励起の近傍を強いパルス光で励起し,中赤外域の吸収の変化を測定した結果,Cu-Oネットワーク構造をもつ方向の偏光成分について,赤外域の透明領域のほぼ全域にわたり強い誘導吸収が発生することが観測された.特に一次元Cu-O構造を持つSr2CuO3とSrCuO2では,電荷移動励起の吸収端よりやや低エネルギー側を励起すると|T/T|>0.9にも及ぶ強い誘導吸収が1ps程度の時間で非指数関数的に減衰する様子が観測された.

 これらの強い誘導吸収はCu-O二次元構造を持つ物質では元素置換によるキャリアードープの効果との類似性がみとめられ,光励起によるキャリアーの注入として考えることができる.一方,一次元鎖構造を持つ物質では,キャリアードープによっても中赤外域には吸収が発生しないことが理論的に予測されており,この強い誘導吸収発生のメカニズムは未解決のままである.

 これらの系における光学応答は,大きな透過率変化と非常に速い時間応答をすることから,非線形光学という観点でも非常に興味深いものである.

4結論

 遷移金属酸化物の物性は非常に複雑で,低エネルギー励起の領域についてもはっきりしたことはわかっていない.そのような状況下で光励起という大きなエネルギーの励起の効果を議論するのは無謀とも言るえが,序論に述べたように光励起によって引き起こされる現象は非常に興味深いものである.本研究の成果は,遷移金属酸化物における光励起の効果を考える上でのいくつかの指針を見いだすことが出きたことである.

 すなわち,秩序が線形な光学応答を決める系では(1)光励起を微視的に見ることによりいかに秩序の破壊を引き起こすかを考える.(2)光励起によって破壊された秩序がどのように回復していくかを巨視的な系の運動としてとらえる.(3)上記(1)(2)の接続をする.という方針が適用できることがわかる.具体的にはLa0.6Sr0.4MnO3の系では光励起により磁化の減少が起き,その後磁化が熱力学的に運動するものとしてとらえることができた.

 また,LaCoO3や,今回用いた銅酸化物のようなキャリアーをドープしていない系については,化学的なキャリアードープとの比較から良い類似性を見出すことができることがわかった.しかし,単純なキャリアードーピングとは異なる現象であることが,一次元Cu-O構造を持つ物質では顕著に見られている.このような,温度変化やケミカルドープによる変化と異なる部分をいかに扱うかが遷移金属酸化物における光励起の役割を考える上での今後の大きな課題である.

審査要旨

 本論文は,強相関電子系である遷移金属酸化物の光誘起現象について超短パルスレーザーを用いたポンププローブ分光法により、光励起の初期における微視的過程とそれに引き続く系の巨視的な状態変化を明らかにすることを目的として行われた研究について述べたものである。代表的な遷移金属酸化物として,マンガン酸化物と銅酸化物に注目し、赤外から中赤外領域の広い波長領域とフェムト秒超短パルスレーザー光源を用いてサブピコ秒からマイクロ秒にわたる広い時間領域で光誘起現象を調べた。その結果、強相関系に特有な電子系の多体効果、磁気秩序との結合など従来のバンド絶縁体には見られなかった新しい現象が観測された。これにより、強相関電子系の物性を探る新しい手法を提示するとともに、光制御のための非線形光学材料としての強相関電子材料の潜在力を新たに見いだした。

 論文は6章からなる。第1章では本研究の背景なる強相関電子系の一般的な概念が説明され、本研究の目的が述べられている。第2章では、実験手法として、広い波長領域でのポンププローブ分光法のための光源測定量の意味が述べられている。第3章から第5章では各物質に関する研究について、背景,実験結果および結果の考察が述べられている。第6章では本研究全体のまとめがそれぞれ述べられている。

 以下に各章の概要を述べる。

第1章序論

 遷移金属酸化物の物性は,これまで伝導現象や磁性といった比較的低エネルギー励起に伴う物性現象に焦点があてられ、盛んに研究が行われてきた。一方ではこれらの系の特徴である強い電子相関の効果はその大きなエネルギースケールを反映して、通常の光学領域の応答にも反映されていることが知られている。ここでは遷移金属酸化物物性を記述する標準的なモデルについて述べた後に、光励起現象において考えなければならないことをまとめている。

 強相関電子材料では、基底状態でもスピンや軌道などの非常に多くの自由度が強く相関している。系の基底状態や低エネルギーでの励起状態の物性は巨視的な状態量(秩序変数)で特徴づけられる。一方光励起は一光子あたりエレクトロンボルト単位の非常に大きなエネルギーを持つため,瞬間的な光励起は,熱力学的な状態変化では到達できないような非平衡状態をごく短時間の間につくることができる。

 このような問題意識のもとに、本研究の目的として、次のものが提示されている。

 (1)各系において,光励起直後の微視的過程はどのように記述され、それが巨視的状態の変化にどのように結びつくか。

 (2)光励起によって作られた非平衡状態の緩和過程を時間軸上で観察し緩和過程における強相関系の特徴を明らかにする。

第2章実験法

 本研究では一貫してフェムト秒パルス励起による時間分解ポンプ・プローブ分光法が応用されている。ここでは遷移金属酸化物では系の電子的な変化が最も反映されるエネルギー領域である,近・中赤外域に注目し実験技法について述べられている。特にモード同期チタンサファイアレーザー、再生増幅器、光パラメトリック増幅(OPA)、差周波発生(DFG)、高調波発生(SHG,FHG)という構成の光源により,400nmから10ミクロンの波長域のフェムト秒光源が得られることが説明されている。また、これを用いたポンププローブ分光法の技術について述べられている。

第3章La1-xSrxMnO3(x=0.4)薄膜の光誘起過渡光学現象

 低温で強磁性秩序を持ち,スピン偏極が赤外域の光学応答に影響を与えることが知られているLa0.6Sr0.4MnO3におけるポンプ・プローブ分光実験について述べている。La0.6Sr0.4MnO3では光励起により磁化の減少が起こり,それに伴なう透過率の変化が観測された。光励起による吸収の変化は,光励起によりスピン構造が短時間に変化する過程によるものと,スピン軌道相互作用や格子との相互作用により磁化を巨視的なスケールで減少させる過程によるものが観測された。その後の系の時間発展は熱浴との接触による緩和過程として記述されるが、ここでは強磁性転移温度よりも低い全ての温度において磁化の回復が時間の羃で元に戻っていくという特異な現象が観測された。これは,スピン秩序の空間的な運動が重要な役割を果していることを示唆するものである。

第4章La1-xSr1+xMnO4(x=0.5)の光誘起過渡光学現象

 マンガンのeg軌道の電子が低温で電荷及び軌道整列を示し、軌道整列が光学的な異方性を発現するLa0.5Sr1.5MnO4についてポンプ・プローブ分光による実験を行った。La0.5Sr1.5MnO4の実験では入射プローブ光の直交偏光成分を検出することにより,光学的異方性の減少が観測され、光励起により軌道整列秩序が破壊されることが明瞭に見いだされた。

 また,電荷・軌道秩序の破壊による電子構造の変化に伴う反射率の変化も同時に観測された。電荷・軌道秩序の破壊は,光励起によりeg電子のホッピングが誘起されることによるものであると考えられ,光照射による温度上昇とは質的に異なるものであることが示された。

第5章ペロブスカイト型銅酸化物の光誘起過渡光学現象

 Cu-Oネットワーク構造のそれぞれ異なる6種類の絶縁体状態の銅酸化物についてポンプ・プローブ分光の実験を行なった。電荷移動励起の近傍を強いパルス光で励起し,中赤外域の吸収の変化を測定した結果,Cu-Oネットワーク構造をもつ方向の偏光成分について,赤外域の透明領域のほぼ全域にわたり強い誘導吸収が発生することが観測された。誘導吸収の時間応答や温度依存性にCu-Oネットワーク構造依存性が定性的に観測された。これらの銅酸化物ではスピン系の反強磁性秩序はネットワーク構造の次元性に強く依存した特徴を示す。ここでは温度依存性などから光学応答とスピン系の関連が追求されたが、明らかな相関は見いだされなかった。ここで観測された強くかつ超高速な非線形光学応答の微視的な起源は今後に理論的に解明すべき、重要な課題として残された。

第6章結論

 本論文の結論が述べられている。

 遷移金属酸化物における光励起とそれに伴う系の状態変化は

 (1)光励起の微視的な過程(2)それによる巨視的な状態量の変化(3)巨視的な状態量の緩和という3つの段階によって整理される。

 具体的にはLa0.6Sr0.4MnO3の系では光励起により磁化の減少が起き,その後磁化が熱力学的に運動するものとしてとらえることができた。また,La0.5Sr1.5MnO4の系では光励起により,eg電子のホッピングが誘起され,電荷・軌道秩序の破壊が起こる。そして,破壊された秩序がドメイン構造を作りながら回復していくものとしてとらえられる。

 しかし,ペロブスカイト型銅酸化物においては,系の低次元性と強い反強磁性スピン相関を反映した長距離的スピン秩序と光励起との関係は見られなかった。

 今後の課題として、磁気光学分光やRaman分光を組み合わせたポンプ・プローブ分光といった新しい実験手法の開発を伴う研究が不可欠であることが述べられている。理論的な枠組についても強相関系に大きなエネルギーの励起の効果をどう有効に取り入れるかが問題であることが指摘されている。

 このように、本研究は,遷移金属酸化物における光励起効果に関する先駆的な研究である。ここで行われた、赤外域の系統的な時間分解分光は世界でも前例のないものである。ここでは,遷移金属酸化物の多彩な物性の起源を探るために、光励起効果が有効であることを示したといえる。また、ここで見いだされた光誘起現象は、応用上重要な赤外域できわめて大きな光非線形性の存在を示したものでもある。特に銅酸化物で見いだされたピコ秒オーダーの応答は超高速領域での利用の可能性を開くものであり、光制御のための新しい物質群を見いだしたという意義は非常に評価すべきである。このように本研究の成果は今後の工学の発展に大きく寄与すると判断される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54694