学位論文要旨



No 114278
著者(漢字) 倉橋,智彦
著者(英字)
著者(カナ) クラハシ,トモヒコ
標題(和) 放射線ディジタル信号波形処理に関する研究
標題(洋)
報告番号 114278
報告番号 甲14278
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4404号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中沢,正治
 東京大学 教授 大橋,弘忠
 東京大学 助教授 小川,雄一
 東京大学 助教授 高橋,浩之
 東京大学 助教授 羽島,良一
 東京大学 助教授 柴田,裕実
内容要旨

 高速なADコンバータ(ADC)の登場により、放射線検出器の出力信号をサンプリングし、時系列波形データとして測定することが可能となっており、これに伴って放射線検出器の信号波形を処理する手法の研究が、近年盛んに行われている[1]。放射線検出器の出力パルス信号、特にその立ち上がり部分がディジタル波形データとして測定できるようになったことにより、検出器への放射線入射によって生じる電荷の収集過程といった、検出器内部での反応過程に関する解析が可能となった。更には、解析結果を利用して放射線計測の高精度化を図る研究が行われており、Ge検出器のピーク・コンプトン比の向上[2]3He比例計数管の壁効果の補正[3]など様々な報告がなされている。一方で、放射線計測にディジタル波形処理を導入しようとする際に、問題点となる点も幾つか考えられる。本論文では、そのような問題点のうち三点を取り上げ、それぞれに関する改善案の提案と考察・検討を行った。

放射線ディジタル波形処理システム

 特にアナログ処理と比較して問題視されるのが、波形データ測定-処理系の計数率の低さである。その原因の一つは、波形データの計算機への転送速度であり、処理システム全体の高速・高計数率化やリアルタイム化の為には、より高速なデータ転送が可能な測定システムが必要であると考えられる。また計算機上で動作するソフトウェアによって数値計算処理を行うと、より複雑な信号波形処理が可能となるが、複雑になる程より長い処理時間を要するようになり、波形データの測定・転送と並行して行うと、これも系全体の計数率をより低下させる原因となり得る。これに対し筆者は、波形データの転送をVXIbusの利用によって高速化し、更にデータ測定と波形処理の並列化の為に近年高速化の著しいコンピュータネットワークを導入した、放射線ディジタル波形処理システムを提案した[4]。本論文では、主に計算機ネットワークを利用した計算処理分散の有効性に関する検討を行っている。

 放射線ディジタル波形処理は、計算処理の内容が信号波形毎に独立である為に並列処理化が極めて容易な分野であり、このようなネットワーク分散処理環境の導入が大変有効であると考えられる。計算量の異なる三種類の処理を、分散処理用のリモート計算機台数が異なる二種類のシステム環境下で実行する実験を行ったところ、計算量の多い処理を行う程システムの処理速度は低下するが、それに応じてリモート計算機を追加することによってその抑止が可能であることが確認された。

波形データの平滑化

 観測波形中に含まれる雑音成分が、ディジタル波形データの数値計算処理にしばしば悪影響を及ぼす。波形データに平滑化処理を施すことが雑音成分を減少させる為の簡便な方法であると考えられるが、従来広く使用されてきている平滑化処理手法は、波形データの数値計算の前処理として利用した場合には処理結果の滑らかさが不十分であることが多い。またスペクトルデータを扱うような場合とは異なり、単純に高周波数成分を除去してしまうような処理を施すと、パルス信号の立ち上がり点付近までも鈍化させてしまうといった弊害も生じ得る。これらの特徴は、放射線ディジタル波形処理の前処理として利用するのに不適当なものであり、これに対し本論文では、平滑化スプライン関数を利用したデータ平滑化手法の導入を提案している。

 与えられたデータ点(x1,y1),(x2,y2),…,(xN,yN)に対し、次の量

 

 を可能な限り小さくするM階連続微分可能な関数f(x)は、データ点に対する最小二乗近似解であり、同時にy=f(x)は重みgの下で最も滑らかな曲線を示す。式(1)を最小にするような関数f(x)が一意的に存在し、それがデータ点(x1,f(x1)),(x2,f(x2)),…,(xN,f(xN))を節点とする(2M-1)次の自然スプライン関数であることが、Schoenbergによって示されており[5]、こうして求められた関数は「平滑化スプライン関数」と呼ばれる。

 最初に、シミュレーションデータを用いて平滑化処理前後の波形変化の比較を行ったところ、平滑化スプライン関数を利用することによって、移動平均法を利用した場合よりも滑らかな波形データが得られることが分かった。更に平滑化波形データからパルス信号立ち上がり時間を計算し、その値の分布を比較した。振幅最大値の異なる疑似雑音成分が加味された三パターンのシミュレーションデータを用いた実験では、Savitzky-Golay法(2次・3次)を利用した場合に較べていずれも半値幅にして概ね30%良好な結果となった。またパルスジェネレータ出力信号を実測した波形データを用いた実験においても、平滑化スプライン関数を利用することによってより良好な結果が得られ、以上から平滑化スプライン関数の利用が有効であることが示された。

教師なしクラスタ分類法の導入

 放射線の入射によって検出器内部で起こる現象の様子も考慮に入れたディジタル波形処理を行おうとする場合、対象となる検出器の形状や測定回路の特性等から、測定系の出力信号波形(観測波形)の関数表現モデルを作成し、処理に利用することが多い。しかしながら、観測波形を関数でもって正しく表現する為には様々な要因を十分に考慮する必要がある。また放射線検出器の内部形状に工夫を施すことによって、放射線計測の高精度化を図る研究も行われているが、これらの特殊で複雑な内部形状を持つ検出器に関しては、その出力波形の関数での表現が困難な場合も考えられる。このような場合への対処として、理論的な波形モデルを予め必要とはしない、測定データ主体で進行され得る情報処理手法の導入が必要であると考えられ、本論文では教師なしクラスタ分類法の導入を提案している。

 クラスタ分類を行うに際しては、まず最初に各波形データからその特徴を内包したパラメータベクトルを作成する必要があるが、本論文では、検出器内部での反応過程の様子が顕著に現れる出力パルス信号の立ち上り部分を、波高値に関して等間隔となるように区切り、その各区間の時間長からパラメータベクトルを作成している。このような作成方法を取ることにより、パラメータベクトルは信号波形の概形を保持しており、また同時に、クラスタ分類後に得られるクラスタ中心のベクトルから、各クラスタに含まれる波形データ群の代表となる波形の概形を再構成することが、可能となる。

 数万から数十万といった数のパルス信号データを一般的に扱う放射線信号波形処理においては、処理対象よりも数の少ない波形データに対して予め試行実験を行い、そこから得られる情報を基に流れ作業的に処理を行うことが、処理のリアルタイム化を考慮に含めると特に望まれる。しかしながらこのような場合には、試行データ中にはない種類の波形データが本処理中に出現する可能性を無視出来ず、そのようなデータへの対応も予め考慮しておく必要がある。教師なしクラスタ分類が可能な手法の代表的なものとしては、自己組織化マップ(Self-Organizing Map、SOM)[6]と階層化クラスタリング(Tournament Clusterling Algorithm)の二つが考えられるが、学習セット数が不十分であるような場合に、未学習パターンに対する予測の誤差が大きくなるというパターン学習の欠点を考慮して、本研究では階層化クラスタリングを利用している。

 提案手法の有効性を検証する為、CdTe半導体検出器の-線エネルギースペクトルの改善を試みた。最初に試行処理用データに階層化クラスタリングを行った結果から、処理対象データのクラスタ分類においては、クラスタ統合の許可・不許可の境界にクラスタ間距離の閾値が存在すると考えられた。この閾値を利用して本処理用データのクラスタ分類を行った後、各クラスタ毎に作成したエネルギースペクトルから全体のそれを再構成したところ、エネルギースペクトルの改善が明らかに見られた。本提案手法は、他にニューラルネットワーク利用の前段階処理などへの応用も期待できると思われる。

References[1] 高橋 浩之,RADIOISOTOPES,Vol.44,No.11,1995.[2] H.Takahashi et al.,IEEE Trans.Nucl.Sci.NS-41,No.4(1994)1246-1249.[3] H.Takahashi et al.,Nucl.Instr.and Meth.A353(1994)164-167.[4] T.KURAHASHI et al.,Journal of NUCLEAR SCIENCE and TECHNOLOGY,Vol.35,No.7,p.473-476,July 1998.[5] I.J.Schoenberg,Proceedings of the National Academy of Sciences of the U.S.A.,52(1964)947-950.[6] T.Kohonen,"Self-organization and associative memory",Third Edition,Springer-Verlag,Berlin,1989.
審査要旨

 現在、多くの信号は、ディジタル化されて処理されることにより、その処理水準が或る一定レベルに保たれている。最近は、なおその上で、再びアナログ型処理の繊細さを求めるという時代になりつつあるが、放射線の信号パルスのようにn secからpsec、周波数でいうと、GHzからTHzという超高速の時間領域になると、現在でも未だディジタル化自身が進んでいないという状況にある。この事情は高速なADCの出現により変わりつつあり、GHzで8ビット台のディジタル化が可能になるなど、放射線の出力パルス波形自身をn secの時間刻みでディジタル変換して、増幅や雑音除去などのフィルター処理ができるようになり始めてきている。このディジタル信号処理を放射線計測に利用する場合には、その信号自身の統計的特徴が、その結果に影響を与える場合が多く、その点を考えた処理法が重要となる。本論文は、そのような統計的な性質を考えつつ、ディジタル信号処理技術の放射線計測分野への導入を検討した論文であり、5章から構成されている。

 第1章は、序であり、放射線計測のディジタル化についてのレビューとディジタルシステムの紹介をしている。それによると、ディジタルシステムは、プリアンプからFast ADCバッファメモリー、コンピュータのようなシステムとなっており、従来のアナログ回路とは大幅に異なったシステムになっていることが分かる。

 第2章は、データ転送バスと放射線信号波形処理システムについて述べており、GPIB、VMEバス、VXIバスなど、高速のデータ転送に必要な要素技術についてまとめている。なお、リアルタイムで信号処理を行なう場合は、100cps程度が現状の技術では上限であり、今回は、リアルタイム方式ではなく、データ測定終了後、コンピュータ上にデータ転送してから処理する方式、あるいはデータ測定と、波形処理を並列に行なう方式を提案している。

 第3章は波形データの平滑化手法に関するもので、アナログ回路で言えば、主増幅器とその時定数の設定に関わる部分である。多くの平滑化フィルターについてレビューした後、放射線信号処理に適しているものとして、移動平均法、周波数領域法およびスプライン関数を用いた方法の3つにつき、定量的な比較検討を行なっている。放射線信号の場合、立上り時間というシャープな変化をする部分と、雑音除去の観点からフラットな遅い信号の部分のいずれもあるという点に、特徴があり、そのような信号をフィッティングするには、スプライン関数を用いた方法が適しているという事を、3種のフィルター法の比較から結論している。

 第4章は、ディジタル信号処理法ならではのスペクトル補正法で、「教師なしクラスタ分類法」の導入に関する部分である。これは、一種の逆演算法であり、あるいは、分解能補正法でもあると言えよう。具体的には、パルス波形自身を、類似度インデックスというパラメータを基にして階層化クラスタリングを行なうものである。実際の試行処理用データセットを用いて、クラスターを構成しておき、実験データが入った後では、どのクラスターに属するかを評価し、各クラスター毎の補正処理を行なうものである。この方法をCd-Te検出器の分解能補正に利用している。Cd-Te検出器は、正孔の収集速度が遅いため、特有の分解能劣化を生じて、数十%以上の半値巾になるが、これが、1.92%の半値巾にまで補正されており、誠に有効な分解能補正法と言えるであろう。

 第5章は、跋でディジタル信号処理法で行なった放射線計測において、「スプライン関数法」、「教師なしクラスター分類法」の有効性を定量的に示したと記しており、今後の応用の可能性への期待が述べられている。

 以上要すれば、この信号処理法は一般的な計測データに使えるとは言えないが、放射線計測上の統計的な信号パルスに対しては、大変有効な信号処理法を開発したと言え、システム量子工学、特に放射線計測学にとって、その寄与は大きいと言える。

 よって、本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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