学位論文要旨



No 114283
著者(漢字) 谷口,正樹
著者(英字)
著者(カナ) タニグチ,マサキ
標題(和) 酸化物表面における水素・水蒸気の吸脱着過程の解明
標題(洋)
報告番号 114283
報告番号 甲14283
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4409号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 山脇,道夫
 東京大学 助教授 関村,直人
 東京大学 助教授 山口,憲司
 東京大学 助教授 寺井,隆幸
 東京大学 助教授 浅井,圭介
内容要旨

 核融合炉システムにおけるトリチウム回収系では、水素、水蒸気を添加したHeをスイープガスとして流すことにより生産したトリチウムを連続的に回収することになる。トリチウムを効率良く回収するためには、表面上で水酸基(-OT)として存在するトリチウムと気相中の水素、水蒸気との相互作用が重要となる。従って、固体増殖材表面での水素同位体の存在状態および、気相中の水素・水蒸気との相互作用を明らかにすることが求められている。このためには、まず酸化物表面への水素、水蒸気の吸脱着挙動について理解することが必要とされる。

 本研究の目的は、酸化物表面上における、水素・水蒸気の吸着、脱離過程を解明する事にある。これまで行なわれてきた酸化物表面研究の結果によれば、水素、水蒸気の吸着は、解離して化学吸着を伴う場合と、分子状で物理吸着する場合など、温度や圧力、表面状態に対して多種多様であり、どのようなメカニズムで分子の解離が起こり、化学吸着が進行するのかは十分理解されていない。また、水素や水蒸気の吸着は表面欠陥の存在下で促進される事が示されているが、そのメカニズムの詳細、特に吸着挙動に対する欠陥の役割については十分には明らかにされていない。従って、本研究では特に、表面欠陥の存在する系における水素・水蒸気の解離吸着過程を明らかにし、さらには表面からの脱離過程についての知見を得る事を目標としている。

 Li2Oの様な酸化物の表面は、水蒸気存在下では一般に水酸基によって覆われている。表面と水酸基の間の結合力は、O-H間の振動に影響を及ぼすと考えられるから、水酸基のO-H結合の赤外吸収分析を行なうことにより水酸基の表面における存在状態を推測することが可能になる。そこで、拡散反射法により、Li2Oの赤外吸収スペクトルを測定して試料温度や雰囲気ガス中のD2,D2O分圧制御下で表面に吸着しているOD基の観測を行なった。図1には673K,D2O雰囲気下におけるLi2O赤外吸収スペクトルの測定結果を示す。低重水分圧下では2748cm-1,2717cm-1,及び2520cm-1にシャープなピークが、さらにD2O分圧を増加させると2660cm-1,2620cm-1付近にもそれよりややブロードなピークが現れた。さらに温度を上昇させて、773K、833Kにおいて同様の測定を行なった結果を図2、3に示す。833Kでは、673Kの場合とは異なり160Paの分圧下では2520cm-1にのみ吸収ピークが観測されるが、さらにD2O分圧を上昇させると2660cm-1付近にもピークが出現し、分圧を増すにつれてその強度は急激に増大する。一方、2520cm-1のピークは2660cm-1のピークの出現の後は強度に変化はなかった。図4には、873K,D2雰囲気下における測定結果を示す。2660cm-1付近のブロードなピークの強度は大きく減少し、2520cm-1付近のピークがかなりブロードになる。これは2540cm-1,2490cm-1にピークが出現するためであると考えられる。このように、赤外吸収分析の結果表面重水酸基に起因するピークが複数観測され、それぞれが異なる温度、雰囲気ガス依存性を示すことが明らかとなった。このことは、Li2O表面が水の吸着に対して均質でなく複数の吸着サイトが存在する事を意味している。得られた実験結果から、観測された各吸収帯の帰属について、水酸基周囲のO2-,OH-,Li+,酸素空孔等の化学種や表面欠陥の配置を考える事により検討した結果を表1に示す。

図1:673K,D2O雰囲気下の赤外吸収スペクトル図2:773K,D2O雰囲気下の赤外吸収スペクトル図3:833K,D2O雰囲気下の赤外吸収スペクトル図4:833K,D2雰囲気下の赤外吸収スペクトル表1:各吸収帯の帰属

 以上示したように、Li2O表面への水・水素の吸着挙動は吸着サイト周囲の酸素イオンやリチウムイオンの配置あるいは欠陥構造の存在などによって影響を受ける事が分かった。そこで、表面欠陥を考慮した吸着サイトをモデル化し、量子化学的手法を用いて水・水素の表面への吸着挙動を評価することを試みた。計算にはR.Dovesiらによる非経験的量子化学計算プログラムCRYSTAL92を用いる。図5には酸化リチウム表面における水の吸着サイトのモデルを示す。解離吸着過程を調べるため、図5に示した2つのパラメーターについて系の全エネルギーを計算し、吸着のポテンシャルエネルギー面を求めた。結果を図6に示す。図中、点Aが始状態(水分子+表面)、点Fが終状態(水酸基の吸着した表面)に相当する。解離吸着はポテンシャルの谷を通って進行するので図の点線のような経路(A→F)をとると考えられる。水酸基の脱離に必要な活性化エネルギーは点Dと点Fのエネルギー差1.60eV(154kJ/mol)となる。Li2Oからのトリチウム放出の活性化エネルギーについては昇温脱離法(TPD)による研究の結果、昇温脱離スペクトルには複数のピークが存在し、活性化エネルギーは140〜186kJ/molであると報告されている。これらの値は本研究で得られた計算結果(154kJ/mol)と良く一致している。

図5:酸化リチウム表面でのH2O吸着サイト図6:解離吸着のポテンシャルエネルギー面

 また、水素分子の解離吸着についても同様に解離吸着のポテンシャル面の計算を行なった。図7に水素の吸着サイトのモデルを示す。表面酸素欠陥が解離に及ぼす影響を考慮するために、図の☆の位置にある酸素を除去した場合の表面についても計算を行った。結果を図8(理想表面)及び図9(欠陥表面)に示す。図中、点Aが吸着前、すなわち表面+自由な水素分子、点Fが解離吸着した状態に対応している。これらの結果から解離吸着に必要な活性化エネルギーを評価すれば、理想表面上(欠陥無し)で250kJ/mol、欠陥表面上で192kJ/molとなった。すなわち、酸素空孔が存在する事により活性化エネルギーが低下する事がわかる。また、図9から酸素空孔が吸着サイトに隣接している場合、空孔がない場合に比べてH-H結合がより表面から遠い場所で伸び始める事がわかる。これは、酸素空孔がある場合、より解離が起こりやすい事を示唆している。

図7:水素の解離吸着サイトのモデル図8:解離吸着のポテンシャル面(理想表面)図9:解離吸着のポテンシャル面(欠陥表面)

 このような効果は、酸素欠陥の存在によって表面の電子状態が変化する事によって起こると考えられる。そこで、用いた表面クラスター、及び吸着水素分子の電子状態をMullikenのPopulation法により解析した。解離過程中の水素が持つ電荷を計算したところ、水素分子が表面に近付きH-H結合が伸び始めるに従い、水素分子が持つTotalの電荷は増加する事が分かった。このことは、解離の際、表面から水素分子への電子の流入が起こっている事を意味している。また、解離中には水素分子内の2つの水素原子が持つ電荷は等しくなく、分子内で分極が起こっている事もわかった。次に、酸素空孔のある場合とない場合とで吸着サイトにおける酸素イオンがもつ電荷を計算すると、酸素空孔が存在する場合には隣接する酸素イオンには余剰の電荷が生じる事が示された。これは、酸素欠陥の形成により表面での電荷の再分布が起こり、周囲のLiイオンから流れ込む電荷が増大するためであると考えられる。水素分子では良く知られているようにH原子の1s軌道同士が混成して生じる結合性軌道gに電子が2つ入る事により安定化され、強いH-H結合を作っている。この水素分子を解離させるためには、エネルギーの高い反結合性の軌道uに電子を導入するのが効果的である。解離の際に、表面からの電子の移動がある事、酸素欠陥近傍には余剰な電荷が存在する事を考慮すれば、Li2O上で酸素空孔が存在する場合に解離が促進されるのは生じた余剰な電荷がH-H結合を切るのに有効に働いているためであると考えられる。

図10:水蒸気に曝露後のO(1s)スペクトル

 以上のように量子化学計算による解析の結果によれば、酸化リチウム表面での水素・水蒸気の解離吸着では表面から吸着分子への電荷移動が重要であり、特に酸素欠陥等により電荷分布に乱れが生じた部分が解離活性サイトになることが示竣された。この場合、吸着分子との相互作用の前後では表面の電子状態は大きく変化するものと考えられる。従って、Li2O表面とH2,H2Oとの反応前後での電子状態を測定することにより表面へのH2,H2Oの吸着挙動に関する知見を得ることができると期待される。そこで、本研究ではX線光電子分光法(XPS)によるLi2Oの表面分析を行った。図10にはH2O(1x10-6〜10-3Pa)に曝した際のXPSスペクトルの変化を測定した結果を示す。873Kでの真空加熱後には、528eVにほぼ対称なO(1s)ピークが観測されるが、1x10-6Paの水蒸気に曝した際には、高束縛エネルギー側にテールが出現する。これは、表面に化学吸着した水酸基によるものであると考えられる。比較的広い範囲(4eV程度)にテールが広がっているのは、表面での水酸基が様々な化学環境下におかれているためであると考えられる。

 以上より、次の結論が得られた。

 (1)Li2O表面での水素・水蒸気の吸脱着挙動を解明するために、赤外吸収分析を行なうことにより温度、雰囲気制御下で解離吸着して生成する表面重水酸基を直接観測した。その結果、重水酸基による複数のピークが観測され、温度あるいは雰囲気ガスに対して異なる依存性を示す事が明らかとなった。このことは表面は水の吸着に対して不均質であり、吸着状態の異なる複数の吸着サイトが存在することを示している。これらの複数の吸収帯について、量子化学計算の結果や既存の研究を参考として、水酸基周囲の表面化学種との相互作用に着目して帰属を行なった。

 (2)酸化リチウム表面での水、水素分子の吸着、脱離過程の解析を行うことを目的に、量子化学計算を行なった。水・水素分子が吸着・脱離する際のポテンシャルエネルギー表面を計算したところ、再結合による水分子の脱離に必要な活性化エネルギーは154kJ/molとなり実験によるトリチウム放出の活性化エネルギー(140〜187kJ/mol)と良い一致を示した。また、水素の解離に必要な活性化エネルギーは、吸着サイトに隣接して酸素空孔が存在する場合に低下する事が示された。MullikenのPopulation解析を行なうことにより、解離吸着時の表面及び水素分子の電子状態変化を計算した結果、解離時には表面から水素分子への電荷の流入がある事がわかった。また、表面に酸素欠陥が存在すると表面の電子分布状態が変化し、第1層を構成するイオンには理想表面と比較して余剰な電荷が生じるが、計算結果からこの余剰な電荷がH-H結合の解離に有効に働いている事が明らかとなった。

 (3)X線光電子分光法により、酸化リチウムの表面分析を行なった。水蒸気に暴露する前後で、表面の電子状態が変化する事を確かめた。水酸基に由来するO(1s)ピークがブロードであることから、水酸基の存在状態が均一でないことが明らかとなった。

 以上のように、本研究では、欠陥を含む表面化学種との相互作用に着目して酸化リチウム表面における水素、水蒸気の解離吸着過程の解明を行なった。その結果、これまでには十分明らかにされていなかった解離のメカニズム、特に表面欠陥が解離に及ぼす影響について知見を得ることができた。本研究の成果は、固体増殖材料からのトリチウム回収における表面過程を理解するためのみならず、一般の金属酸化物表面への水素、水蒸気の吸着を論じる上でも有用であると考えられる。

審査要旨

 核融合炉システムにおけるトリチウム回収系では、水素、水蒸気を添加したHeをスイープガスとして流すことにより生産したトリチウムを連続的に回収することになる。トリチウムを効率良く回収するためには、表面上で水酸基(-OT)として存在するトリチウムと気相中の水素、水蒸気との相互作用が重要となる。従って、固体増殖材表面での水素同位体の存在状態および、気相中の水素・水蒸気との相互作用を明らかにすることが求められている。このためには、まず酸化物表面への水素、水蒸気の吸脱着挙動について理解することが必要とされる。本論文の目的は、酸化物表面上における、水素・水蒸気の吸着、脱離過程を解明する事にある。本論文では特に、表面欠陥の存在する系における水素・水蒸の解離吸着過程を明らかにし、さらには表面からの脱離過程についての知見を得る事を目標としている。

 Li2Oの様な酸化物の表面は、水蒸気存在下では一般に水酸基によって覆われている。表面と水酸基の間の結合力は、O-H間の振動に影響を及ぼすと考えられるから、水酸基のO-H結合の赤外吸収分析を行なうことにより水酸基の表面における存在状態を推測することが可能になる。そこで拡散反射法により、Li2Oの赤外吸収スペクトルを測定して試料温度や雰囲気ガス中のD2,D2O分圧制御下で表面に吸着しているOD基の観測を行なっている。その結果、赤外吸収分析の結果表面重水酸基に起因するピークが複数観測され、それぞれが異なる温度、雰囲気ガス依存性を示すことを明らかにしている。このことは、Li2O表面に水の吸着に対して均質でなく複数の吸着サイトが存在する事を意味している。得られた実験結果から、観測された各吸収帯の帰属を、水酸基周囲のO2-,OH-、Li+,酸素空孔等の化学種や表面欠陥の配置を考える事により行っている。(論文第2章)

 第3章では表面欠陥を考慮した吸着サイトをモデル化し、量子化学的手法を用いて水・水素の表面への吸着挙動を評価することを試みている。計算にはR.Dovesiらによる非経験的量子化学計算プログラムCRYSTAL92を用いている。解離吸着過程を調べるため、系の全エネルギーを計算し、吸着のポテンシャルエネルギー面を求めた。水酸基の脱離に必要な活性化エネルギーは1.60eV(154kJ/mol)となることを示し、報告されている価と近いことを示した。また、水素分子の解離吸着についても同様に解離吸着のポテンシャル面の計算を行なっている。ここでは表面酸素欠陥が解離に及ぼす影響を考慮するために、表面ある位置の酸素を除去した場合についても計算を行った。解離吸着に必要な活性化エネルギーを評価すれば、理想表面上(欠陥無し)で250kJ/mol、欠陥表面上で192kJ/molとなった。すなわち、酸素空孔が存在する事により活性化エネルギーが低下する事がわかった。また、酸素空孔が吸着サイトに隣接している場合、空孔がない場合に比べてH-H結合がより表面から遠い場所で伸び始める事が示された。これは、酸素空孔がある場合、より解離が起こりやすい事を示唆している。このような効果は、酸素欠陥の存在によって表面の電子状態が変化する事によって起こると考えられる。そこで、用いた表面クラスター、及び吸着水素分子の電子状態をMullikenのPopulation法により解析した。解離過程中の水素が持つ電荷を計算したところ、水素分子が表面に近付きH-H結合が伸び始めるに従い、水素分子が持つTotalの電荷は増加する事が分かった。このことは、解離の際、表面から水素分子への電子の流入が起こっている事を意味している。また、解離中には水素分子内の2つの水素原子が持つ電荷は等しくなく、分子内で分極が起こっている事も示された。次に、酸素空孔のある場合とない場合とで吸着サイトにおける酸素イオンがもつ電荷を計算すると、酸素空孔が存在する場合には隣接する酸素イオンには余剰の電荷が生じる事を示した。これは、酸素欠陥の形成により表面での電荷の再分布が起こり、周囲のLiイオンから流れ込む電荷が増大するためであると考えている。

 以上のように量子化学計算による解析の結果によれば、酸化リチウム表面での水素・水蒸気の解離吸着では表面から吸着分子への電荷移動が重要であり、特に酸素欠陥等により電荷分布に乱れが生じた部分が解離活性サイトになることが示唆された。この場合、吸着分子との相互作用の前後では表面の電子状態は大きく変化するものと考えられる。従って、Li2O表面とH2、H2Oとの反応前後での電子状態を測定することにより表面へのH2,H2Oの吸着挙動に関する知見を得ることができると期待される。そこで、第4章ではX線光電子分光法(XPS)によるLi2Oの表面分析を行っている。その結果、水蒸気に暴露する前後で、表面の電子状態が変化する事を確かめた。水酸基に由来するO(1s)ピークがブロードであることから、水酸基の存在状態が均一でないことを明らかにしている。

 第5章では本論文の主要な結論を示すとともに今後の展望を述べている。

 以上を要するに本論文は、欠陥を含む酸化物表面と水素同位体の相互作用に着目し、酸化物の代表として酸化リチウムをとりあげ、表面における水素、水蒸気の解離吸着過程の解明を表面分析手法と量子化学的計算を組み合わせて行なったものである。その結果、これまでには十分明らかにされていなかった解離のメカニズム、特に表面欠陥が解離に及ぼす影響について知見を得ることができた。本論文は、核融合炉増殖材料よりのトリチウム放出挙動、および一般の金属酸化物表面への水素、水蒸気の吸着機構の解明をとおして、システム量子工学に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク