水溶液の放射線化学反応機構の理解は、水が生体の主要構成物質であることから放射線生物、放射線治療に関わり、また原子炉冷却水、高レベル廃棄物の地層処分における地下水等の放射線効果を検討する上でも重要である。これまで線や電子線を用いた放射線化学研究は多いものの、イオンビームを用いる例は多くない。イオンビームは物質中へのエネルギー付与密度のパラメーターであるLETが線や電子線に比べて桁違いに大きいため、特徴ある反応を引き起こす。これは放射線分解生成物の初期のミクロな空間分布であるトラック構造の違いによるものと考えられている。本研究はイオンビームの放射線照射効果、特にトラック構造について知見を得るため、パルスラジオリシス法の手法を用いて研究を行ったものである。 論文は全5章からなり、第1章では上に述べたようなイオンビーム放射線化学反応の研究の意義を示し、これまでイオンビーム放射線化学反応研究は多くなく、大半はフリッケ線量計を対象とした硫酸酸性系であり、現実に重要となる中性系の実験が必要であることを述べている。水溶液中のトラック構造研究の理解の1つは水の分解生成物の時間挙動をピコ秒からマイクロ秒にわたって知ることであるが、高時間分解能が実現できない場合には、生成物の収量変化の捕捉剤濃度依存性の測定が時間挙動測定と等価であり、この捕捉実験を本研究のアプローチとして用いたことを記している。 第2章はイオンビームパルスラジオリシスシステムの構築について述べてある。放射線医学総合研究所の重粒子癌治療施設HIMAC(Heavy Ion Medical Accelerator)の直線加速器からのマイクロ秒のHe2+パルスを用いたシステムの構築の際に留意した点、最終的な性能に到るまでに遭遇した問題とその解決法についてまとめてある。このようなシステムはこれまで世界で2例報告のみで、現在唯一のものである。 第3章は実験結果の評価ため、拡散モデルに基づくシュミレーションコードの開発と、これを用いて、低LET放射線と本研究で用いたHe2+イオンの純水中での照射挙動について計算を実施、比較して高LET放射線の特徴をまとめてある。 第4章が本論文の中心で、選択したチオシアン酸(SCN-)、ペルオキソ二硫酸(S2O82-及びメチルビオローゲン水溶液の三つの実験系の結果とその議論がまとめてある。第1のSCN-水溶液中では水の分解で生成するOHがSCN-と反応し生成するラジカル収量のSCN-濃度依存性を測定している。電子線とイオンビーム照射実験を比較し、イオンビーム照射ではSCN-濃度を増加すると収量は飽和した後、減少することを見い出した。反応で生成した,ラジカル間の反応によるものと拡散モデルによる計算で確認している。第2の系ではS2O82-と水和電子が反応して生成するラジカル収量のS2O82-イオン濃度依存性を測定した。低S2O82-濃度での収量は電子線照射に比べイオン照射では極端に低い。S2O82-濃度増加とともに収量は増加するものの、電子線照射の収量には一致しない。トラック内でのラジカル同志、とOHの反応が収量抑制の原因であることを計算で明らかにしている。第3の系ではギ酸を入れたメチルビオローゲン(MV)水溶液中でのメチルビオローゲン(MV)ラジカルカチオンの収量をギ酸濃度を変化させ測定している。ここでは米国のノートルダム大との共同実験も実施している。その理由はイオンビームパルスラジオリシスでは線量測定の手法が確立しておらず、米国での連続イオンビーム照射と本実験での測定手法による結果と比較して妥当性を確認することであった。パルス実験と連続イオンビーム照射実験の結果は一致し、本研究で採用した手法の信頼性を確認するとともに、これを汎用の線量計として提案している。この系ではMVラジカルカオチンの収量は水和電子、水素原子とOHラジカル収量の和となり、電子線とイオンビームパルスラジオリシスを比較し、イオンビーム照射の方が収量が小さいことを観測した。この系にOH捕捉剤であるt-ブタノールを加えると、水和電子と水素原子の収量和とOH収量を分離できることを示し、これによりOH収量はギ酸濃度が高い場合には電子線照射実験に近づくことを見い出している。この系では、トラック内反応の影響を除去できることを明らかにするとともに、トラック内反応は生成ラジカルの反応性により大きく変化することを実験的に示した。 第5章は結論で、イオン照射時のトラック内反応の重要性と、捕捉剤からの生成物の反応性が収量に大きく影響することを実験的に示したことを述べるとともに、今後、プロトンビームを用いた実験への展開やイオン照射の特徴を明確かつ直接に示すピコ、ナノ秒での実験が期待されるとしている。 以上、要すれば世界で類のないシステムを構築し、この実験からトラック内反応についての新しい知見を得、イオンビーム放射線化学に大きな成果をもたらした。システム量子工学、特にビームや放射線科学分野の新しい展開に寄与するところが少なくない。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |