学位論文要旨



No 114284
著者(漢字) 千歳,範壽
著者(英字)
著者(カナ) チトセ,ノリヒサ
標題(和) イオンビームパルスラジオリシス法を用いた水溶液の放射線分解におけるトラック過程の研究
標題(洋) Ion Beam Pulse Radiolysis Study on Intra-Track Processes in Radiolysis of Aqueous Solutions
報告番号 114284
報告番号 甲14284
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4410号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 石榑,顕吉
 東京大学 教授 山脇,道夫
 東京大学 教授 篠原,邦夫
 東京大学 助教授 関村,直人
 東京大学 助教授 伊藤,泰男
 東京大学 助教授 柴田,裕実
内容要旨 1.

 水は生命活動にとって不可欠な物質であり、人間生活や環境に対する放射線の影響を考える上で水の放射線分解は重要な問題である。これまでは電子線や線(低LET線)を用いた研究が主に行われてきたが、イオンビームでは低LET線との照射効果が異なることが知られている。この違いを解明するための1つのステップとして、本研究ではイオンビームのトラックにおける活性種の挙動について調べた。用いた方法はパルスラジオリシスによる実験と拡散モデルによるシミュレーションである。

 パルスラジオリシス法はパルス状の放射線を照射して生成物の時間変化を測定する方法である。イオンビームでは困難な点が多く、今までにほとんど行われていないが、短寿命活性種が測定できるという大きな利点をもつので、本研究ではそのシステムの製作と実験を試みた。スパー拡散モデルはeaq-、OHなどが生成する1ps程度からトラック過程が終了する1s程度までのスパー内の化学種の挙動を拡散と化学反応から予測するモデルである。このモデルをイオンビームのトラックに適用する場合には定量性が問題となるが、トラック内の化学反応の特徴をよく表すことは知られている。

 トラック構造を推定するために有用なデータとしては、各活性種の収量の時間変化、反応生成物と捕捉剤濃度の関係の2つがあり、本研究では後者の測定を行なった。水の分解で生成するラジカルに対して、捕捉剤の濃度が低ければトラック反応収量後にラジカルは捕捉されるが、濃度が高くなるとトラック反応と競合して捕捉反応が起こる。そのため、捕捉剤の濃度と生成物の収量との関係はトラック構造を反映している。ここでは主要なラジカル生成物であるeaq-とOHについて、チオシアン酸イオン、ペルオキソ二硫酸イオン、メチルヴィオローゲンの3種類の水溶液を用いて濃度依存性を測定した。

2.イオンビームパルスラジオリシスの実験システムの構築2-1実験装置

 実験は放射線医学総合研究所の重イオン加速器HIMACで行なった。図1に示す照射装置に24MeV4He2+ビームを導き、アルゴンイオンレーザー(波長455〜515nm)の吸収により生成物の収量を測定する。粒子の飛程は約400mであり、ウィンドウに最も近い100mの領域を測定した。試料への入射エネルギーは21MeV、測定領域での平均LETは35eV/nmである。吸収線量はパルスあたりの到達粒子数と空間的強度分布から計算した。

図1 実験装置
2-2実験システムの評価

 10mMのKSCN水溶液に5sのパルスを照射したときには図2に示す吸光度の時間変化が得られた。この水溶液ではOHとSCN-の反応で生じる@が472nm付近に吸収をもつことが知られている。得られた信号は、スペクトル、および別のOH捕捉剤を加えたときの強度の変化から、による吸収であることが確認できた。また、メチルヴィオローゲン(MV2+)とギ酸塩の水溶液で生成するの収量を別の実験装置での結果と比較することで、線量評価の妥当性が確認できた。一方で測定の光学系によっては吸収信号とは異なる"疑似信号"が観測されたが、図1に示す体系にすることで取り除かれた。

図2 10mM KSCN水溶液の照射で得られた吸光度変化(波長488nm)
3.拡散モデルによるトラック過程のシミュレーション3-1計算方法

 スパーやトラック内の化学種の分布は連続関数で表し、低LFTの場合には球対称、イオンビームでは円筒の軸対称の分布で表されるとした。初期分布は球の中心あるいは円筒の中心軸からの距離に対してガウス関数で表す。その後の濃度変化は巨視的な拡散と反応速度の式に基づいて計算した。

3-2結果

 図3に純水の場合の結果を示す。低LETと比べて高LET(35eV/nm)ではラジカル生成物が少なくなり、分子生成物が多くなった。また、低LETの場合にはラジカル生成物の収量は1sまでにほぼ一定値に達しているが、高LETでは減少し続けている。低LETの場合にはトラック反応が終わったときの生成物の量を一次収量(primary yield)と呼んでいる。これに対して高LETで収量が収束しないということは一次収量を決定できないことを示唆している。

図3 シミュレーションで得られたeaq-、OH、H2O2のG値の変化
4.水分解生成物の捕捉量の捕捉剤濃度依存性

 3種類の水溶液に対して、4He2+イオンビームパルスラジオリシスで生成物の収量と濃度の関係を測定した。また対照実験として、東京大学原子力工学研究施設の電子線LINACでパルスラジオリシスの実験を行なった。さらに、拡散モデルによるシミュレーションを行ない、イオンビームにおけるトラック反応の特徴について考察した。

4-1チオシアン酸イオン水溶液[1]

 チオシアン酸イオンはOHの捕捉剤であり、以下の反応を起こすことが知られている。

 

 

 

 生成するによる吸収を488nmの光で測定し、488=7300M-1cm-1を用いて収量を計算した。図4に示すようにの収量は捕捉能(捕捉剤の濃度と反応速度定数の積)とともに増加している。これはOHが他の水分解生成物とトラック内で反応するために、時間とともに減少していくことを示している。初期収量が放射線の種類によらず一定であるとすれば、高捕捉能では2つのビームで収量が一致することが予想される。しかし、イオン照射の結果には飽和傾向が見られ、電子線照射の値に近づく傾向は示さなかった。

図4 OH捕捉剤による捕捉反応生成物の収量の比較。●◆:SCN-,▽△:HCOOH,×:HCOO-,実線:[Fe(CN)64-]

 他のOH捕捉剤を用いた実験の報告値と比較すると、低LETの場合には捕捉能が108s-1以下では種々の捕捉剤で収量がよく一致しているが、高捕捉能では差が生じている。イオン照射でも高捕捉能ほど収量の差が大きくなる傾向が見られ、この差は低LETよりも大きくなった。拡散モデルによるシミュレーションからは、SCN-水溶液ではが生成後にトラック内反応で失われ、捕捉されたOHよりも収量が小さくなることがわかった。捕捉能が高い場合には高密度のトラックで生成するのでの反応が無視できなくなり、特にイオン照射では初期の密度が高いためにこの反応量が大きくなると考えられる。

4-2ペルオキソ二硫酸イオン水溶液[2]

 ペルオキソ二硫酸イオンはeaq-と以下の反応をする。

 

 生成するは458nmの光で測定し、吸収係数1600M-1cm-1を用いて収量を計算した。図5に示すようにの収量はS2O82-の濃度(捕捉能)とともに増えており、高濃度でも収量の飽和傾向は見られなかった。他のeaq-捕捉剤についての報告値と比較すると、低LETの場合にはよく一致しているが、イオンビームでは捕捉能の高い領域で大きな差が見られる。この理由は生成したがトラック内反応で失われることであり、シミュレーションから+OHと+が主な反応であることがわかった。イオンビームではトラック内の化学種の密度が高いために、生成する2次ラジカルの反応量が低LETの場合よりも大きくなると考えられる。

図5 eaq-捕捉剤による捕捉反応生成物の収量の比較。●◆:S2O82-,▽△:グリシルグリシン
4-3メチルヴィオローゲン水溶液[3,4]

 2つの水溶液での実験から、イオンビーム照射でラジカルの捕捉量を測定するためには、より反応性の低い生成物を作る捕捉剤が必要であることがわかった。その1つとして、安定なラジカルを生成するメチルヴィオローゲン水溶液は有望である。また、図4、5で本研究の結果と比較されているのは定常照射の実験結果である。一般にパルスラジオリシスよりも定常照射のほうが線量評価の精度は高いので、同じ水溶液を用いて2つのシステムを比較することが望まれる。そこで、メチルヴィオローゲン(MV2+)とギ酸イオンの水溶液で生成するを2つの実験方法で測定した。生成反応は以下のように報告されている。

 

 

 

 

 これからの収量はeaq-、H、OHの捕捉量の和に等しいと予測される。実験ではメチルヴィオローゲンの濃度は0.5mMで一定に保ち、ギ酸イオンの濃度を変化させて、OHに対する捕捉能との関係を測定した。

 図6に示すようにの収量はパルス照射、定常照射でよく一致した。このことから、本研究での線量評価の方法が妥当であることが示された。フリッケ水溶液とギ酸の結果から予測される収量とは低LETではよく一致したが、イオンビームではの収量のほうが小さくなった。次にこの水溶液にさらにt-BuOHを加えた試料で実験を行ない、生成に対するOHの寄与とeaq-、Hの寄与とをそれぞれ求めた。この方法で求められたOHの寄与は、捕捉されたOHの収量に近い値になると予想できる。これはシミュレーションでも確認された。

図6 の収量(●■:パルス、○□:定常照射)とeaq-、H、OHの収量の和(▽△、フリッケ水溶液とギ酸から計算)の比較
5.まとめと今後の課題

 イオンビームパルスラジオリシス法により、ラジカル捕捉剤の濃度と生成物の収量の関係を測定した。反応性が高い化学種はトラック内での反応で失われるが、イオンビームの場合には低LET線と比べて1次ラジカルの反応量が多いだけでなく、捕捉反応で生成する2次ラジカルの反応量も多くなることがわかった。そのため、捕捉されたラジカルの収量の測定に用いられる水溶液の条件は低LET線の場合よりも厳しい。今後、水の分解生成物の収量を求めるためには高時間分解能のパルスラジオリシスによる直接測定が必要となるが、本研究で得られた実験システムに関する知識がさらに短いパルスのビームを用いた実験で役立つと期待できる。一方で、捕捉反応の生成物の収量から捕捉量を求めるためにトラック反応を定量的にモデル化することも重要であり、このモデルによってトラック内の化学種の空間分布が明らかになると考えられる。

参考文献[1]N.Chitose et al.,J.Chem.Soc.,Faraday Trans.,93,3939(1997).[2]N.Chitose et al.,Radiat.Phys,Chem.,in press.[3]N.Chitose et al.,J.Phys.Chem.,submitted.[4]N.Chitose et al.,J.Phys.Chem.A,102,2087(1998).
審査要旨

 水溶液の放射線化学反応機構の理解は、水が生体の主要構成物質であることから放射線生物、放射線治療に関わり、また原子炉冷却水、高レベル廃棄物の地層処分における地下水等の放射線効果を検討する上でも重要である。これまで線や電子線を用いた放射線化学研究は多いものの、イオンビームを用いる例は多くない。イオンビームは物質中へのエネルギー付与密度のパラメーターであるLETが線や電子線に比べて桁違いに大きいため、特徴ある反応を引き起こす。これは放射線分解生成物の初期のミクロな空間分布であるトラック構造の違いによるものと考えられている。本研究はイオンビームの放射線照射効果、特にトラック構造について知見を得るため、パルスラジオリシス法の手法を用いて研究を行ったものである。

 論文は全5章からなり、第1章では上に述べたようなイオンビーム放射線化学反応の研究の意義を示し、これまでイオンビーム放射線化学反応研究は多くなく、大半はフリッケ線量計を対象とした硫酸酸性系であり、現実に重要となる中性系の実験が必要であることを述べている。水溶液中のトラック構造研究の理解の1つは水の分解生成物の時間挙動をピコ秒からマイクロ秒にわたって知ることであるが、高時間分解能が実現できない場合には、生成物の収量変化の捕捉剤濃度依存性の測定が時間挙動測定と等価であり、この捕捉実験を本研究のアプローチとして用いたことを記している。

 第2章はイオンビームパルスラジオリシスシステムの構築について述べてある。放射線医学総合研究所の重粒子癌治療施設HIMAC(Heavy Ion Medical Accelerator)の直線加速器からのマイクロ秒のHe2+パルスを用いたシステムの構築の際に留意した点、最終的な性能に到るまでに遭遇した問題とその解決法についてまとめてある。このようなシステムはこれまで世界で2例報告のみで、現在唯一のものである。

 第3章は実験結果の評価ため、拡散モデルに基づくシュミレーションコードの開発と、これを用いて、低LET放射線と本研究で用いたHe2+イオンの純水中での照射挙動について計算を実施、比較して高LET放射線の特徴をまとめてある。

 第4章が本論文の中心で、選択したチオシアン酸(SCN-)、ペルオキソ二硫酸(S2O82-及びメチルビオローゲン水溶液の三つの実験系の結果とその議論がまとめてある。第1のSCN-水溶液中では水の分解で生成するOHがSCN-と反応し生成するラジカル収量のSCN-濃度依存性を測定している。電子線とイオンビーム照射実験を比較し、イオンビーム照射ではSCN-濃度を増加すると収量は飽和した後、減少することを見い出した。反応で生成した,ラジカル間の反応によるものと拡散モデルによる計算で確認している。第2の系ではS2O82-と水和電子が反応して生成するラジカル収量のS2O82-イオン濃度依存性を測定した。低S2O82-濃度での収量は電子線照射に比べイオン照射では極端に低い。S2O82-濃度増加とともに収量は増加するものの、電子線照射の収量には一致しない。トラック内でのラジカル同志、とOHの反応が収量抑制の原因であることを計算で明らかにしている。第3の系ではギ酸を入れたメチルビオローゲン(MV)水溶液中でのメチルビオローゲン(MV)ラジカルカチオンの収量をギ酸濃度を変化させ測定している。ここでは米国のノートルダム大との共同実験も実施している。その理由はイオンビームパルスラジオリシスでは線量測定の手法が確立しておらず、米国での連続イオンビーム照射と本実験での測定手法による結果と比較して妥当性を確認することであった。パルス実験と連続イオンビーム照射実験の結果は一致し、本研究で採用した手法の信頼性を確認するとともに、これを汎用の線量計として提案している。この系ではMVラジカルカオチンの収量は水和電子、水素原子とOHラジカル収量の和となり、電子線とイオンビームパルスラジオリシスを比較し、イオンビーム照射の方が収量が小さいことを観測した。この系にOH捕捉剤であるt-ブタノールを加えると、水和電子と水素原子の収量和とOH収量を分離できることを示し、これによりOH収量はギ酸濃度が高い場合には電子線照射実験に近づくことを見い出している。この系では、トラック内反応の影響を除去できることを明らかにするとともに、トラック内反応は生成ラジカルの反応性により大きく変化することを実験的に示した。

 第5章は結論で、イオン照射時のトラック内反応の重要性と、捕捉剤からの生成物の反応性が収量に大きく影響することを実験的に示したことを述べるとともに、今後、プロトンビームを用いた実験への展開やイオン照射の特徴を明確かつ直接に示すピコ、ナノ秒での実験が期待されるとしている。

 以上、要すれば世界で類のないシステムを構築し、この実験からトラック内反応についての新しい知見を得、イオンビーム放射線化学に大きな成果をもたらした。システム量子工学、特にビームや放射線科学分野の新しい展開に寄与するところが少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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